「無分別智(その48)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その48。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[主客未分の状況から現れる]

無分別智は、主客未分の状況から現れ出る智です。 

なぜならば、無分別智が世に現れ出たのは一大事ゆえであるからです。 

その一大事を演出したのは、相手がいればこそであり、その意味では相手が主で自分が客ですが、その智を自分が知るに至り相手は知るに至らなかったという意味では相手が客で自分が主です。 

そのような状況(シチュエーション)を作り出した真の要因は、自分にあるかも知れず、あるいは相手にあるかも知れず、それを単純な主客関係で特定することはできないのです。 

だからといって、主客が無いとも言えないのです。 

智を生じているという事実がある以上、何らかの主体を想定せざるを得ないからです。 

より実際的な意味では、最初から主客未分であると言うべきでしょう。 

例えば、対戦型の遊戯や武道、スポーツなどにおいて素晴らしいプレーが現れ出たとき、それを演出したのは相手かも知れず、自分かも知れず、本来的に主客未分です。 

しかし、その素晴らしいプレー自体は、主客の所在がどうであれ如実に存在するものです。 

無分別智が主客未分の状況から現れ出るというのは、それに似ています。

*法津如来のコメント

無分別智の最たるものは、人をして解脱せしめる法の句(=無分別智の表現)です。

それはいかに現れるか?

それは一大事です。

二人の出会いです。

ここにはどちらが主役も脇役もないのです。

法の句を発する人がいて、その法の句を法の句であるとわかった人が現れたのです。

その時、主客がわかれます。

それまでは、主客未分の状況なのです。

つまり、無分別智は、主客未分の状況から現れ出るのです。


この記事へのコメント

ワカメ
2021年04月26日 10:09
多方面からの見方があるのだろうなあ、と感じた。

自分は感情的な人間だから、物理的な見方を養いたいと感じた。

教わりたくない、という自分があるのも感じる。
才木広之
2021年04月26日 14:16
罪を憎んで人を憎まず。

の精神で警察官、刑務所の看守は仕事をしてるでしょう。

この場合法に生きていて

そもそも、自分が、とか

彼奴が、と言う主語が入りません

法で問答し法で裁くだけです。

此のような事が

罪を憎んで人を憎まず。です

ならば、此処では

法を愛でて人を愛でず。となります。

昨日の話で人に対して愛でたり、疎遠になったりしないが

法を愛でて人を愛でず。状態なんです
才木広之
2021年04月26日 14:27
今日はもう少し理解を深めましょう

ある日車を見た。持ち主が誰かは知らない。

しかしバランスの整った否の打ち所がない車だと思った。

其処に否の打ち所だらけの車の持ち主が現れた

車には否の打ち所がない

持ち主は否の打ち所だらけ

此の場合、車の持ち主をどう評価するでしょう

否の打ち所のない車の持ち主は否の打ち所だらけ。

否の打ち所だらけの人間が否の打ち所のない車を持っていた。

其のように否の打ち所だらけの人間から、否の打ち所のない言葉は出ます。

其の場合

「法を愛でて人を愛でず」 

なんです

自分が、彼奴が、が無い状態なんです
才木広之
2021年04月26日 14:40
又、花火等は

花火其のものが法です。

花火は真実だ。と言っても

此れが花火だと凝視出来るものは有りません

現れて消える現象が花火です。

川も同じで現れては消える現象が川です。

花火が、川が、と言えるものはなく

現象そのものを

花火だ、川だ、と言います

そのように誰の口からだろうが

現象(否の打ち所のない言葉)は現れます

否の打ち所だらけの人間からも現れます

法を愛でて人を愛でず

です

逆さまは

罪を憎んで人を憎まず

です