石法如来の特別寄稿「富永仲基について。(その6)」

『出定語後』の第四章には、本書の性格がよく表れています。決して、単なる仏教の批判書ではないことが理解出来ます。以下、各経典が築く世界の説明が種々異なることを列挙することで、いずれも元はシンプルな世界観であったものが、順次加上されていったと述べています。
 
(以下引用)
経典によって異なる理由について、「宋代の志磐(しばん・南宋代の天台宗の僧であり、仏教史家である。)は三つの視点から解釈している。つまり、①聞く人の能力・素質に合わせて説いた仏の教えだから(いわゆる対機説法)、②経典編纂の部派が異なるから、③中国に伝えられ翻訳された時代に差があるから、ということである。しかし、これではどれも信用できないではないか」と仲基は書いています。(以上、『天才 富永仲基』68頁から引用)
 
第五章では、「経蔵・律蔵・論蔵」のいわゆる三蔵について述べられています。それは、『増一阿含経』や『出曜経』(しゅつようぎょう)から三蔵が説かれた経緯に迫っているのですが。もともと小部(少ない)のものであったのが、後世の教団拡大に伴い膨大なものになったと説きます。ここで重要なのは、三蔵はいずれも後世に制作されたものであるという点です。
 
ここで仲基は、「偈」(げ・伽陀・偈頌)に注目します。「経(きょう)は体系だった教説であるのに対して、偈(げ)は個別的である。だから本来は経の部分が経典の中心であるはずなのに、むしろ偈が中心であるように見える。これは、中国の教学が楽器の調子に合わせて詠唱されてきたからだ」と推察します。
 
実際経典を読んでいると、偈のほうが長行(ちょうごう・経の部分)より読みやすく理解しやすいということを実感します。・・・成立に関しても、偈のほうが長行より先であることが研究で判明しています。
 
興味深いのは、偈の読誦は単に「記憶しやすい」から、などの利点だけではなく教えというのは素晴らしい歌唱に託されて説かれるものであると指摘しています。
確かに、古来から仏教は芸能と密接な関係があったと学んだことがあります。どんなに素晴らしい教えでも、庶民の生活から離れたものでは真の力を発揮することは出来ません。教えが、大衆の中に溶け込んでこそ生きて参ります。その為に、民俗的な祭りや芸能が発達したと考えられます。
 
第六章の冒頭では、「九分経・十二部経は一切経のことであるから、これを大乗と小乗に分けるのは誤りである」と述べています。ここで言う九分経とは、仏典を九つに分類する考え方と、十二に分類する考え方です。それらの、成立した時代差は大きくないようですが、九分経の方が先行していたようです。
 
ここでは、九分経や十二分経について記しませんが、この中にある「ジャータカ(本生話)=釈尊の前世を物語る」と「アバダ-ナ(過去世物語)=過去仏の世の出来事を物語る」は、説話形態となっており、様々な譬喩(ひゆ・ある物事を、類似または関係する他の物事を借りて表現すること。)をもちいて教えを説くことは、原始仏教以来盛んに行われました。
私自身は、過去世に関する物語に興味がないので読んだことはありませんが、それらの文献の存在を知っています。
 
興味深いのは、「ダルマパーナカ(法師)」の存在です。ダルマパーナカは、説法者であり仏教の「もの語り」が成熟した結果登場した人達で、大乗仏教の起源を解く鍵だと言えます。
 
おそらく、般若経系のダルマパーナカと法華経系のダルマパーナカ等が存在していた。・・・大乗仏教も、一つのムーブメント(政治上・社会上・芸術上などの運動)ではなく、いくつもの系統があったと考えられます。
 
第七章では、何度も天台宗の五時八教への言及があります。長期間にわたって編纂されてきた膨大な仏教経典の全てを釈尊一人に収斂させるならば、随所に論理破綻が起こります。
そこで、教相判釈が出来上がりますが有名なものとして、華厳宗の五教十宗や真言宗の顕密二教などがあります。
 
日本仏教で、最も有力な教相判釈は天台宗の五時八教です。仲基の、加上説にとってこの五時八教は何としても打ち破らなければならない大きな壁だったと考えられます。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

仲基にとって加上説とは、五時八教は何としても打ち破らなければならない大きな壁だったのですね。


この記事へのコメント

才木広之
2021年04月04日 06:23
釈尊は人そのものを育てる人だと思います。

人そのものを育ててしまえば、その人から出る、経験、言葉に、嘘はなくなり、全て真実となります。

自分の経験に対して全て確認していて、そのままを語るなら、その全ては法になります

善かれ悪かれ全て法則教えになります

「こうした時楽だった」

「こうした時苦しかった」

ありのままの事実を語る人なら

楽だった、も、苦しかった、も

法です。法則になります。

「試して確めて下さい、貴方も」

と言えます

ゴータマ・ブッダのしたかった事は

そのように人そのものを育てたかった

人そのものが育てば

その人の口から出る言葉は法です。法則です。

だから我々が見るべきは

自分の経験を確実に把握していて

自分の経験をありのままのに話す人

そのような人の話を聞けば

参考にはなる

しかし自分で確かめるまでは参考です

生きとし生けるものが幸せでありますように