石法如来の特別寄稿「富永仲基について。(その5)」

『出定語後』には、色々な経典についても書かれています。まず『華厳経』(けごんきょう)についてですが、この経典は釈尊が覚りを得たのち「二週間の間に説かれた」や、同経の「宝王如来性起品」(ほうおうにょらいしょうきぼん)にある「太陽は一番高い山を照らす(『華厳経』こそ一番優れているという意味)」といった作者の言葉を信じて、この経を最上であると考えるのは誤りであると言います。
 
『華厳経』が、釈尊成道後すぐに説かれた教えであるとするのは、(その1)で書いた、天台大師智顗(ちぎ)による「五時八教説」(ごじはちきょうせつ)が最も良く知られています。
もう一度智顗の説をおさらいしますと、釈尊が覚りを得たのちに教えを説いた時期を五つに分けたと言う話です。
 
順序としては、①「華厳(けごん)時」・覚りの内容が少し難しい『華厳経』を説いた。②「鹿苑(ろくおん)時」・華厳の教えが難しすぎたので理解しやすい『阿含経』を説いた。③「方等 (ほうどう) 時」・『維摩経』(ゆいまきょう)『勝鬘経』(しょうまんきょう)などの大乗経典を説いた。④「般若(はんにゃ)時」・『般若経典』を説いた。⑤「法華涅槃(ほっけねはん)時」・『法華経』『涅槃経』を説いた。・・・智顗は、天台宗の人ですから釈尊が最後に説いたのは、『法華経』であることを強調したのはある意味当然です。
 
経典成立における、仲基の説は(その2)に示した通りですが、方法論として「諸伝本を比較考証して、正しい順序の経典を見いだそうとする」(テキスト・クリティーク)やり方で経典の成立順序を推測しました。
そして、仏典はさまざまな人の手によって生み出されてきたと主張するのです。これが、「加上」(かじょう)ということです。
 
『出定語後』の第一章の最後に、その「加上」を説く仲基の立ち位置と主張が明確に述べられている文があるので紹介します。(以下引用)
 
「【現代語訳】さて、諸教が興って分かれたのはみな本来、順次に加上したことによるものである。順次に加上するのでなければ、どうして教えが拡大し分かれようか。すなわちこれは、古今を通じて教えがたどる自然のすがたである。ところが、後世の学者はみな、いたずらに、諸教はすべて仏の金口より親しく説かれたものであり、阿難(あなん・アーナンダ)が親しく伝えたものだ、と思っている。ことに、これら諸教のうちにかえって数多くの分離と結合があることを知らないのである。また、残念なことではないか。」(以上、『天才 富永仲基』58~59頁から引用)
 
ここで仲基は、仏典はすべて「金口の直説」(釈尊が直接説いた教え)であり、それを聞いた阿難によって伝えられたものであるという、従来からある前提(説)を批判しています。
近代の仏教研究では、大乗仏教も一括り出来るようなものでないことはすでに判明しています。私達は、かつて起こったいくつもの派を「大乗仏教」と一まとめに総称しているだけなのです。
 
例えば、般若経典系のグループと法華経系のグループは、異なるであろうと考えられていますから、仲基の「大乗仏教も異なる系統があるのではないか」という推理そのものは的を得ています。
 
第二章では、「それぞれの仏教経典もある一つの立場であり、相違するのだ」と述べ、「それぞれの仏教経典は、特定のグループが自説を展開した結果生まれたものであり、けっして釈尊の直説ではない」という事実を語ります。現代においては、既に明白になっていることですが当時(300年前の江戸時代に)仲基は、膨大な仏典を解読することで独自にこの結論を導き出したと言えます。
 
その他、第二章では多くの大乗経典を取り上げていますが、大乗経典は小乗経典成立後に編纂されたものであることを述べ、小乗経典を低く評価することで自説(大乗経典)の優位性を主張しているのであると指摘しています。
 
第三章では、『大智度論』(だいちどろん・「大品 (だいほん) 般若経」の注釈書。100巻。龍樹(りゅうじゅ)著と伝えられる。)の中にある、「なぜ迦葉や阿難は『般若経典』を説かなかったのか」という問いと答えに注目しているようです。
このような問いが記述されていることで考えられるのは、「当時すでに、この疑い(『般若経典』は釈尊の直説ではない)があった」ということを断じています。
 
そして更に、「その実、阿難集むる所は、即ちわずかに阿含の数章のみ(実際に、阿難が聞き集めたところは、わずかに阿含経の数章だけである)」と語っているのです。
これは、現代の仏教研究と合致しており、私自身も長年阿含経(原始仏典)を学んできて実感する感想ですが、仲基の推論の正しさに驚いてしまいます。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。
「富永仲基について。(その5)」、だんだん佳境になりますね。


「無分別智(その22)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その22。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[悩み苦しんだ末ではない]

無分別智は、何にせよ、あれこれと悩み苦しんだ末に現出するものではありません。 

無分別智は、確かに最も悩ましい局面において、すなわち一大事の局面において顕れ出るものですが、そのような苦悩自体を最初から最後まで関係する誰もが感受しないで済むためにはどうすればよいかが、まるで予め分かっていたかのように現出する不可思議なるもの(超越したもの)であると(知る人は)知るからです。 

しかしながら、それはそのことを予め誰かが想定していたり、”この場合にはこれを用いればよい”というように前もって誰かが用意していた結果顕れ出るものではあり得ないと(知る人は)知るからです。 

つまり、無分別智は誰かが作為したものではあり得ないと(知る人は)知るからです。


*法津如来のコメント

人間の悩み苦しみはいろいろありますが、病気の苦しみについて考えてみましょう。

人が病気になると病気の本人も親しい人々もあれこれ悩み苦しみ、医者にかかって病気を治そうとするのです。

そのような時は、病気を治せるかどうかしか発想できないのです。

悩み苦しんだ末ではないに生まれる知恵は、分別智といいます。

あえて言えば、無分別智は病気を治そうとしない智慧です。

病気になった時には、病気になるのが一番よいのです。

死ぬ時は、死ぬのが一番よいのです。

最近ある縁で、関東医療クリニック院長松本光正著「高血圧はほっとくのが一番」(講談社+α新書)を読みました。

この著者のいう通りですが、この考えを本当に受け入れるためには無分別智が必要です。