「無分別智(その41、その42)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その41、その42。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[卑下を生じない]

無分別智の何たるかを如実に知ったとき、自分のそれまでの分別がまったく意味を為さないことをはっきりと理解します。 

しかし、そのことによって自分を卑下するという感情が生じることはありません。 

そのとき、無分別智、すなわち諸仏の智慧に対する尊敬の念を生じますが、そのことによって自分を卑下する気持ちが起きることはないのです。 

その様子は、例えば知恵の輪が解けた瞬間に似ています。 

それまで、意味のないまったく馬鹿げたことをいろいろと試していたためにその知恵の輪は解けなかったのですが、そのような馬鹿げたことをしていればしているほど、いざ知恵の輪が解けたときの感動は深いのです。 

そのことで、卑下を生じることは無いのです。

[慢心を生じない]

無分別智の何たるかを如実に知ったとき、自分を褒めてやりたいというような慢心が生じることはありません。 

自分が偉いと思うことも、偉くなったと思うこともありません。 

自分を誇ることもありません。 

ただ、そのとき、諸仏の智慧(無分別智)の素晴らしさにこころを奪われてしまうのです。



*法津如来のコメント

今回は、「卑下を生じない」と「慢心を生じない」の2項目を引用しました。

卑下する意識と慢心する意識は同じ意識の裏表なのです。

卑下する意識のない人は慢心する意識もないのです。

逆もその通りです。つまり、慢心する意識のない人は卑下する意識もないのです。

この意識は、比較するという意識なのです。

通常、人間は比較して認識するのです。比較しないときの認識は曖昧でぼやけています。認識しているという自覚がない場合も多いのです。

しかし、無分別智が現れたときは、比較することをしないで、そのままを明確に認識するのです。

そのときは、卑下することはないし、慢心することもないのです。