石法如来の特別寄稿「不安症候群(シンドローム)を乗りこえる。(その2)」

現在の日本の状況は、コロナ禍に見舞われ「誰もが」決して他人事ではない状態に置かれています。いつ自分自身、あるいは家族がコロナに感染して入院することになるのか?万一のことがあれば、命に関わる一大事が起こりえる重大なパンデミックであるように報道されています。

個人の心理レベルで、今緊急事態が起きていると判断しているのは、マスコミの報道による情報が自分自身の脳(いわゆる表層意識)に伝わり、脳から潜在意識に伝達され危険信号が発せられている状態で、半ばパニック状態に陥っている人・知らず知らずのうちに「うつ」を煩っている人・不安神経症を病んでいる人も相当数存在するのではないでしょうか。

そう考えたら、「一億総コロナ不安症」に罹っている状態と言えますが、実際のウィルスによる病より精神面からくる「コロナ脳の感染」による病のほうが完治が難しい印象をうけます。
毎日毎日、話題はそれしかないのか?と言う位、「コロナは危険・危ない」を連呼されたら、潜在意識にすっかり悪い情報が刷り込まれ、不安を払拭し平常心を保つのは難しくなります。

この度の、新型コロナ感染症から派生した世界的パンデミックは、極めて稀な出来事です。私は、この稀な出来事が人間の「名称作用」(潜在意識)に大きな影響を及ぼしていると観ています。

丁度昨年11月に、「「名称と形態」の考察」という記事を書き、その中で「名称作用と形態作用」について考察しましたが、現在の日本人の精神状態を暗示しているかのようです。
記事中、「名称」を潜在意識として、「形態」を家族的無意識として引用文章をお読み下さい。

(以下、記事引用)
「SRKWブッダのホームページ、「覚りの境地」№006「名称と形態(nama-rupa:名色)」5行目に、「これらについて、原始仏典の別の表現(テーリーガーター:尼層の告白)では、名称を「刀」、形態を「串」のようだと形容しています。確かに、名称作用は自我を脅かしてこころを動揺させる刀のようなものであり、一方、形態作用は人類の歴史的経験のエッセンスというべきものであって、そのように凝縮されたイメージの潜在形成力が全人類を貫くように投影されていて、個々人が有する縁に応じて適宜各自の自我意識に深い影響を与える集合的こころ(として認知される心的作用)のことですから串という形容は実にまとを得ています。」と説かれています。

私は、この「刀(かたな)と串(くし)」という表現の中に凝縮された潜在形成力の威力(その人に与える影響力)の強さが表現されていると観ます。・・・それはあたかも、何も無い(無風)状態の時には特段影響を(その人に)与えることの無い「刀(かたな)や串(くし)」ですが、その人の生存を脅かすような出来事が起こった時、あるいは不利益を生ずるような事態が、または強烈な欲望が生起した時、更には何らかの原因で衝動的な気持ち(欲求)などが沸き上がった時などには、あたかも「刀(かたな)を振り回し」自らを傷つけるように・・・。あるいは、自分自身の集合的無意識に貫かれた「串(くし)が現実化して、その人間の肉体・精神をえぐるように作用」し(煩いのレベルから)一気に「苦しみのレベル」へと突っ走る。・・・その様な精神要素を、人(衆生)は持ち合わているのだと考えることが出来ます。」(記事、引用終わり)

この度の世界的なコロナ禍で、繰り返し繰り返しマイナスのあるいは恐怖心を煽る言葉を聞いていると、その情報が潜在意識にまで到達し自分自身の身体にマイナスの反応を示し、煩いのレベルにまで押し上げる。それが、更に昂進すると精神的苦しみ(苦痛)のレベルにまで到達することは間違いないことでしょう。

人間の存在とは、意識するしないにかかわらず、その様な精神要素を持ち合わており、自分自身の身体上に反応が現れて精神的・肉体的に影響を受けるということです。

このようなまたとない貴重な体験により、人間を煩わし苦しめる「名称と形態」の存在と、その影響力を実感することが出来るのです。

参考動画と文献の紹介

1、森田洋之医師が語る「医療の不都合な真実」
https://toyokeizai.net/articles/-/424239
コロナ「医療逼迫」に「国民が我慢せよ」は筋違い。

2、名古屋から日本を救う。
https://www.youtube.com/watch?v=Zsgt0lFJr4k
大阪市立大学名誉教授 井上正康先生


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

「参考動画と文献の紹介」も是非ご覧になってください。


「無分別智(その50)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その40。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[どうしてもいけなければのところから]

上に多く列記したように、無分別智は××のところからは得られません。 

××によっては生じません。 

と書くと、皆さんは無分別智を得る方法がまったく分からなくなってしまうことでしょう。 

まったく、どうしようもなくなってしまうことでしょう。 

しかしながら、無分別智は、そのようなどうしようもないところからこそ顕れるものであるのです。 

ただし、どうしようもないと混迷したところから顕れることはありません。 

どうしようもない状況にありながら、しかもなお混迷しない人々にのみ顕現するのだと(知る人は)知っているからです。 

世界中のあらゆる人々が混迷するであろうその状況において、その人だけが唯一混迷しないゆえに、無分別智はまさにその人に顕現するのだと(知る人は)知っているからです。


*法津如来のコメント

今回の引用文は、無分別智が現れる構造を明らかにしています。

無分別智は、どうしようもないところから現れるものであり、しかもそれに対して混乱しない人々に現れるこをよく理解していれば、現れるということです。

逆にこのことをよく理解していれば、どうしようもないときにも混乱しないでいられるのです。

どうしようもないときにも混乱しないでいられるためには、昨日のコメントに書きましたが、「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟ができていればよいのです。

また、「人間万事塞翁が馬 禍福は糾える縄のごとし」という諺を理解しておくのも役に立ちます。

つまり、大丈夫ということです。心配するなということです。

昨日も石法如来から寄稿文を頂きました。

本日次に掲載いたしますが、その内容は、新型コロナについて心配するな、大丈夫ということでした。

是非、お読みください。

また、紹介されている動画も参考になりますので、是非ご覧になってください。