言葉にこだわること

昨日、悪魔パピーマンの考えている幸福とゴータマ・ブッダが考えている幸福の違いについて述べました。

同じ幸福という言葉を使っても、人によってその内容が異なるのです。

また、こだわるという言葉も肯定的に使う人も否定的に使う人もいるのです。

ですから、他人の使う言葉の意味は、自分の思っている意味は違うかもしれないと考える必要があります。

自分の思っているように他人が理解するとは限らないのです。

言葉にこだわると他人と対立します。最悪の場合は争いが起こるのです。

私がこのことを知ったのは、かなり大人になってからなのです。

例えば、かなり昔ですが、私は「スナック」は小さな喫茶店くらいの意味だと思っていましたが、友人はお酒を出す店と思っていたのです。

それで言い争いをして、喧嘩になりました。

しかし、その争いは言葉にこだわったからだとは理解していませんでした。

言葉にこだわって争いが起こるのだと理解するまでは、長い時間がかかりました。

この考えを延長させると、人は一人ひとり皆違った人間であり、それぞれ違った思い考えを持っているのです。

ですから、話す言葉も自分と違った意味で話しているかもしれないと思った方がよいのです。

話し言葉でもそうですが、書かれた言葉についても同様です。

自分の思い込みで文章を読んでも、正しく理解できません。


幸福について

昨日、幸福を知らないことについて書きました。

今日は「幸福とは何か?」について、一般人代表として悪魔パーピマンの言葉と賢者代表としてゴータマ・ブッダの言葉を引用します。

悪魔パービマンがいった、「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著するもとのものは喜びである。執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。」
https://76263383.at.webry.info/201305/article_3.html

師は答えた、「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」
https://76263383.at.webry.info/201305/article_4.html

(中村元訳 岩波文庫「ブッダのことば(スッタニパータ)」第1章2ダニヤ33偈、34偈より引用)

悪魔パーピマンは、執著するもとのもののない人は実に喜ぶことがないと言い、喜びが幸福であると言っているのです。

一方、ゴータマ・ブッダは、執著するもとのもののない人は、憂うることがないと言い、憂うることがないことが幸福であると言っているのです。

どちらが正しいかはあなたが検証する他はありません。

その上でどちらかを取るかはあなたの自由です。


石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その4

グレイソン氏にとって最も驚くべき発見だったのは、臨死体験がその体験者達の人生に強い影響を与えていることでした。

「私の精神科医としての本業は、人々の生き方を変える手助けをすることです。生き方を変えるというのは簡単なことではありません。でも、ものの数秒で、人の考え方、価値観、信念、行動を劇的に変えてしまう体験が存在するのだと分かりました」と彼は言います。

この変化が、何十年にもわたって持続することもよくある。ほとんどの場合、「体験者はもはや死に対する怖れはないと悟る。」それはその人の生き方に重大な影響を与えるようです。(記事の抜粋終わり)

私は、この記事を読んでかつて書いた私自身の記事「存在・・・そして慈悲(やさしい)」(2020年2月20日)を思い出しました。そこでは、過去に行っていた瞑想行での体験を書いていたのです。(以下、文書抜粋)

私は61歳から、本格的に瞑想と称する修行を始めましたが全くの自己流です。難しいことは一切おこなわず、ただ坐り呼吸に意識を集中し「深い意識の世界」を目指しました。2年ほど経過したとき、突然地球の成層圏を突き抜けるような感覚を得て、とても静かな世界に到達しました。(深い世界(下向き)を目指したのに、地球を突き抜ける(上向き)とは誠に不思議なことなのですが・・・)

そこは、呼吸の必要もないほど静かで広大な何も無い世界です。そこに感じられるのは、「とても柔らかな慈悲(やさしい)のながれ」があるだけです。それは、「独り子を静かに優しく包みこんで守り育てるようとする母親のこころ」に似たほんのり温かな感覚で、その慈愛に満ちた静かな流れは、とても心地よく感じられました。
その感覚に触れて私は直感したのです。存在とは「慈悲(やさしい)そのものである」と。(以上、抜粋終了)

臨死体験と瞑想の行とは、それが起こる条件がまるで違うようですが内容は似ています。・・・ケンタッキー大学神経科医のネルソン氏はこう言いました。
「臨死体験とは「身体的あるいは心理的に大きな危機が迫ったときに起こる、覚醒状態とレム睡眠の状態という二つの意識状態が混ざったもの」だと考え、多くの臨死体験は「夢のよう」であり、神経学的に言えば「ボーダーランド」(二つの状態が重なりあう部分)で起こっている」と・・・。

要は、臨死体験で「死の怖れを超越」するか瞑想の行で「慈悲の世界」を感じるかの違いですが、不安を払拭し安楽の世界に導くという意味では共通しています。
私は自分自身の記事の中で、一つの経典の言葉を引用しました。『物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』(『スッタニパータ』七五三偈)という言葉です。

この記事のテーマである「輪廻」というものを考えた場合、私の瞑想体験では「私・あなた」などの人物は登場しません。(これは、臨死体験の場合と比較できませんが)しかし、静かでゆっくりとした、大きな平安なるある流れを感じておりました。それは、物質的な形のある世界ではなく、非物質的で形のない世界においてです。

衆生の大きな錯誤は、天国や極楽や地獄などと言う、あたかもこの世と同じ形ある世界が存在するかのような錯覚を持つことです。仮に輪廻に繋がる何か?が存在するにしても、形があるのは物質的領域だけなのです。


私は今、「輪廻」は幻でありこころで描くイメージにしか過ぎないということで記事を書いていますが、釈尊の説かれた経典に興味深い教えがあります。

それは、「世間の集を実の如く正しく知見せば、もし世間無しとする者は有らず。世間の滅を実の如く正しく知見せば、もし世間有りとする者は有ること無ければなり、これを二辺を離れて中道を説くと名ずく。」(『雑阿含経』巻第12(三0一))と。

現代語訳「世間の苦しみの起こる原因(集)を正しく智慧によって見るならば、世界は無常可変であり、人が死ねば後に何も残らないとする考え(断見)はあり得ない。また、世間の消失(滅)を正しく智慧によって見るならば、世界は常住であり人が死んでもその霊魂は不滅であるとする考え(常見)はあり得ない。この極端な二つの考えを捨て、中道を説く」という経典です。


*法津如来のコメント

本日2回目の更新です。

今回の特別寄稿にもいろいろな話題が語られていますが、石法如来が伝えたいことは、「輪廻」は幻でありこころで描くイメージにしか過ぎないということです。


固定的な修行法など何一つ存在していない

ゴータマ・ブッダはダンマパダ271偈、272偈で次のように説かれております。

「わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。 」(中村元訳)

また、SRKWブッダは「仏道の真実++」のなかで次のように述べておられます。
https://76263383.at.webry.info/202009/article_13.html

「繰り返しになるが、この世にはニルヴァーナに至るための固定的な修行法など何一つ存在していない。したがって、読者が本書で具体的な修行法を学びたいと思っているのであるならば、その期待には応えることはできない。」

このように言われると、それならば「どうしたらいいですか?」と言いたくなるでしょう。

多くの修行者は、具体的な修行法を知りたがるのです。

確かにそのように思うのは無理はないのですが、その発想が真実の探求にとっては逆方向なのです。

例えば、幸福になりたいと思う人はどうしたら幸福になれるか知りたがります。

その方法を知りたがるのです。

しかし、その人は幸福が何か知らないのです。

その人は、お金持ちになることが幸福になることだと思って、お金持ちになる方法を知りたがるのです。

しかし、お金持ちになる方法を知って、お金持ちになったとしても、その人は幸福になれるでしょうか?

お金になっても、苦労が増えるだけで、幸福にはなれないことを知るでしょう。

修行者は、方法を求めるのではなく、自分の求めるものは何か明確に知るべきです。

それで瞑想が必要だと思うならば、目的を忘れずに瞑想をやってみるのもよいでしょう。

繰り返しますが、瞑想をすれば覚れるというものではないのです。


第二の脳や第三の脳

昨日は、爬虫類脳(反射脳)、哺乳類脳(情動脳)、人間脳(理性脳)の相互作用で働くとするというポール・マクリーンの「三位一体脳モデル」の名称だけを紹介しました。

爬虫類脳(反射脳)は、脳幹であり、生命維持のための機能を司っています。
哺乳類脳(情動脳)は、大脳辺縁系であり、衝動的な感情を司っています。
人間脳(理性脳)は、大脳新皮質であり、論理的な思考を司っています。

ポール・マクリーンの説については、以上にしておきます。

仏教では、心を受蘊(感覚)・想蘊(想念)・行蘊(潜在意識)・識蘊(認識)および眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)・意識(意覚)に分析しています。

これらの心(意識)は、脳のいろいろな部分の機能と結びついて働いでいます。しかし、脳とだけ結びついてるわけではありません。

例えば、腸は脳からの指令がなくとも自分で働く腸神経系があり、第二の脳であるといわれています。
https://tabi-labo.com/276137/second-brain

また、皮膚は第三の脳などと言われるように、心(意識)は脳に限定して存在しているわけではないのです。面白いことに発生学的に見ると、脳と皮膚は同じ外胚葉からできてものです。
http://lifedesign.ne.jp/?p=3731

これらの知識は省察や観(=止観)の修行に役に立ちますが、これらの知識にこだると、真実の探求の妨げになります。その辺が修行の難しいところです。


脳と心(意識)について

今朝の新聞の折り込み広告に「60代。あなたは『元気脳ですか?」と書いてありました。

もう少し読むと「意外と知られていませんが、脳は水分を除くと約6割がアブラでできていて、このアブラが脳を柔らかく保つことで情報の伝達をスムーズにし、アタマの回転や前向きな気分を維持しているのです。」と書いてあります。

しかし、そのまま信用してはいけません。「脳は水分を除くと」とありますが、水分は7割が水ですから、水分の補給こそ大切なのです。

それはともかくとして、今日は意識と脳の関係について考えてみます。

まずはじめのテーマは、脳が先か心(意識)が先かです。

つまり、折り込み広告の考え方は、脳の成分が心を作っていると思っているようです。

しかし、脳はコンピュータに例えると単なるハードであり、ソフトがなければ動きません。

さらに、それらを動かす意思が必要なのです。

そのように考えると、心(意識)が先であると考えられます。

しかし、脳の研究は重要です。

心(意識)は姿形が見えないために、理解しにくいのです。

しかし、心(意識)は物質世界に作用するためには、脳や神経を通じて作用しています。

そのために、脳や神経の構造や機能の研究は心(意識)の構造や機能を理解するために役に立ちます。

「三つの脳の進化」という本があります。この本は人間の脳は長い生物進化の歴史を内臓し、爬虫類脳(反射脳)、哺乳類脳(情動脳)、人間脳(理性脳)の相互作用で働くとするというポール・マクリーンの「三位一体脳モデル」です。

この説は1990年代に発表されましたが、2000年代に批判されたそうですが、大筋では納得いくものです。

参考になるネットの記事は次の通りです。
https://swingroot.com/triune-brain/

明日はこの説について、もう少し説明します。

石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その3

釈尊という方は極めてリアリストであり、この世の現実をあるがままに観て現実に即した理法を説かれた方であると書きました。
しかしこの世を見渡してみると、衆生が感心あるのは死んだ後どの様な世界に赴くのだろう?という疑問と不安に基づく問いです。当然そこには、霊的な存在の問題があります。

霊的な存在に関して、仏教の教えとは本来全く関係が無いのですが、世間の感心はまるで違います。かつて私が所属していた阿含宗では、「霊障」(れいしょう・霊の障り)の実在を説き「霊障解脱」(れいしょうげだつ)なる修法(しゅうほう)により資金集めをしておりました。
人間という存在は、見えない世界に対し恐怖心を持つものであり、その恐怖心に「霊的な力」が及ぶとそれを「障り」(さわり)と捉え怖れます。

最近、インターネットの動画で「アメリカがいよいよUFO(未確認飛行物体)の情報開示」を行うという情報を目にしました。その中に、「全宇宙の95%は謎」という言葉があり、認識出来る知識以外の現象は知識の外側にあると語っていたのが印象的です。

私達は、非常に狭い範囲の認識世界に生きているという事実がよく理解出来ます。だから、釈尊の説かれた「一切」の教えの中で、この現象世界における問題を現実的に捉え・考え、人間が認識出来る範囲のことを説かれた意味が理解・納得出来るわけです。

阿含宗と霊の関係を少し述べましたが、私の阿含宗在会末期に「独鈷の加持」(とっこのかじ・ 密教で用いる法具を使っての加持祈祷)なる法の伝授がありました。
私は興味がないので受講しませんでしたが、どうやらこれは霊的エネルギーに反応する密教の法らしく、旧知の先輩が受講しました。

退会後、伝え聞いたのはその先輩が「精神的におかしくなった」という話です。霊的エネルギーの存在を全く信じないわけではありませんが、霊的世界に下手に関わるとマイナスの障害を受けることがあるのです。

世間一般、身近に存在するのは低次元の精神・感情エネルギーの残骸ばかりです。例えば、「恨み・憎しみ・苦しみ・悲しみ・強い欲望・執着心」などなど・・・。その様な精神作用を、保持したままこの世を去ると成仏できない(不成仏霊)と古来から語られます。
マイナスのエネルギーに関わると、自分自身の精神も落ち込み場合により回復困難な状態になることもあり得るというのは、先輩の例を見れば明らかです。

奇しくも、この記事を書いている日の前日(2021年4月18日)ヤフーニュースに、「”臨死体験”を50年研究した今、「生命には肉体以外の何かがあると確信しています」」という記事が掲載されました。(以下、参考に抜粋)

アメリカ・バージニア大学の名誉教授で精神科医のブルース・グレイソン氏は臨死体験について人々と対話を重ねて来たという話題です。

麻酔の副作用に見舞われたある患者は、自分の臨死体験について「見たこともない、この世のものとは思えないような、荘厳かつ輝かしい光で照らされていて、草の一本一本も内部に柔らかな火が灯っているように輝いていました」と語ったそうです。
体験談のほとんどに、これと似たような「不思議と心が晴れる至福の感覚」が含まれているとグレイソン氏は言います。

また、私達は三次元で生きているが、「自分が生死の場で見たものは、どこか次元を超越したものだった」として、表現するのは難しいと説明する人もいるようです。

ケンタッキー大学では、神経科医のケヴィン・ネルソン氏がグレイソン氏と同じく、長年にわたり臨死体験の記録をとっています。
ネルソン氏は、臨死体験とは「身体的あるいは心理的に大きな危機が迫ったときに起こる、覚醒状態とレム睡眠の状態という二つの意識状態が混ざったもの」だと考え、多くの臨死体験は「夢のよう」であり、神経学的に言えば「ボーダーランド」(二つの状態が重なりあう部分)で起こっていると論じています。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

輪廻について、難しい問題に入ってきました。

次の展開が楽しみです。

こだわりを無くすこと

個人的こだわりも集団的こだわりも潜在意識に書き込まれいますので、

こだわりを無くそうと思っただけで、なおせません。

ではどうしたらよいか?

そもそも、潜在意識に書き込まれたことは、自分では気づけないのです。

はじめは、探偵や研究者ように始めるとよいでしょう。

しかし、彼らと異なることがあります。

かれらの問題は自分の外部のことがらです。

修行者の問題は自分自身の問題なのです。

問題の原因を外部に求めるのではなく、自分自身に向けるのです。

とは言っても、その際善悪の評価をしてはいけません。そうすると真実が見えなくなります。

もっと具体的に言えば、過去の出来事を思い出して、考察するのです。

そうすると、自分なりにいろいろ思い出して、ある結論がでます。

その結論は、その人の考え方(潜在意識)が反映しています。

私は過去に、いろいろな方のそのような結論を聞いてきましたが、

私から見れば、そのように思わなくても良いのではないかということが多数あります。

それを、私が指摘しても、それはなかなか納得できないのです。

自分自身で納得しなければ意味はないのです。

それに気づくには、何かのきっかけが必要です。

その最大のものが、善知識(善友)の発する法の句です。

それにより、ある時は発心し、ある時は解脱するのです。


個人的こだわりと集団的こだわり

個人的こだわりと集団的こだわりは私の勝手な造語です。

こだわりについて考えていて、4月28日の石法如来の特別寄稿「不安症候群(シンドローム)を乗りこえる。(その2)」を思い出しました。
https://76263383.at.webry.info/202104/article_40.html

個人的こだわりや集団的こだわりはどのように形成されるのでしょうか?

幼少期の親から影響や家庭環境や個人の経験など影響が大きいでしょう。それが個人的なこだわりを形成しています。

また、今回の新型コロナにまつわる出来事は、全世界の人々の心に大きな影響を与え、集団的なこだわりを作っています。

すでに、全人類に与えた歴史的な出来事も集団的こだわりを作っていたのでしょう。

このように考えると、このブログで繰り返し述べている名称(ナーマ)と形態(ルーパ)との関連がわかりやすくなります。

名称(ナーマ)とは個人的こだわりだったのです。

また、形態(ルーパ)とは集団的こだわりだったのです。

このようなこだわりが個人と人類の自由を束縛し、苦しめているのです。

このことがわかれば、次はいかにこれらのこだわりから解放かが問題です。


時間を守ることにこだわること

こだわりについて、考えていて思い出したことがあります。

私がテーラワーダ仏教の比丘(僧侶)であった時の話の話です。

比丘はウポーサタ(布薩)というものを行います。満月の日に、ですから月に一回、地域の比丘たちが戒壇に集まって懺悔の儀式を行うのです。内容は重要な戒律と経典の読み合わせです。

ある時、ウポーサタに参加するためにスリランカ人の後輩の比丘と住んでいる寺から2時間ほど離れた東京八王子にある戒壇に出かけました。

特急電車に乗ってしばらくして腹痛になりました。トイレに行きたくなったのです。途中下車をすると、30分ほど遅刻します。どうしても我慢できなくて、後輩には先に行ってもらって私は途中下車をしました。

私は遅刻することにひどく悩みながら、戒壇に駆けつけました。

しかし、どうでしょう。まだウポーサタはまだ始まっておらず、私より遅れているスリランカの比丘たちもいたのです。私の悩みは何だったのでしょうか。

その時、私は考えました。自分が悩んでいたのは、私が勝手に時間は守らなければいけないと考えて、勝手に悩んでいたんだと。他の人たちはそんなこと何にも気にしていなかったのだと。

また、そうかと思いました。多くの悩みは自分がこうしていけない、ああしてはいけないと勝手に思い込んで、悩んでいるのだと。多くの悩みは自分の一人芝居なのだと。

心配することはないのだ。大丈夫だ。

一つ注釈をしますと、日本人は時間を守ることにこだわりすぎています。スリランカ人は集合時間があると、その時間に家をでます。時間はほとんど気にしません。ですから、他人が遅れることもあまり責めません。もっとも、最近は日本にきているスリランカ人は日本人の影響で時間を守るようになっているようです。

最近の日本では、マスクをかけることを守らなければいけないと思いすぎていて、あらそいまで起こしていることはどんなものでしょうか。

石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その2

望月海慧(もちづきかいえ)氏の「ブッダは輪廻思想を認めたのか」には、色々興味深いことが書いています。輪廻思想に関連する、解脱の問題を考えてみると「解脱というものは、輪廻からの解脱である以上、論理的に常に輪廻思想に縛られたものとなる」と言います。

釈尊の教えが、経典で説かれているように生死に代表される人間の苦しみからの解放を求めるものである限り、「輪廻思想を受容している」と認めざるを得ないとも言います。
それらの考えに基づくならば、当然輪廻から解放された存在形態(いわゆる仏(ブッダ))を目指すこと以外救いは無いことになります。

ここで望月氏は、面白い説を述べます。釈尊(ブッダ)が意図していたのは「むしろ輪廻することからの解脱ではなく、輪廻という存在形態からの解脱、すなわち輪廻という誤った存在形態にとらわれていることからの解放」なのではないかと。
そして、それこそが「輪廻の原因としての無明が明に転換」されることになるのではないかと説くのですが、なかなか面白い説です。

輪廻に関する問題はすべて、解釈する者の主観に従っており、いずれを選ぶかはすべて恣意的(主観的で自分勝手なさまを意味する表現)な問題であると語ります。
望月氏は、釈尊そのものはカルマの理論が支配的な後代の仏教思想に説かれるような輪廻思想に感心を持っていなかったとし、彼にとって最大の関心事は「現在の存在においていかに覚るか」がテーマとなっていたからであると結論づけています。

ここで江戸時代の町人学者、富永仲基の言葉が思い起こされます。彼は、主著(しゅちょ)『出定後語』第八章「神通」の中で、「俗」(ぞく)という文化特性や民族や習俗の傾向のことを語ります。
仲基は、「国に俗あり」と「インドの俗は幻を好む(神秘主義的傾向が強い)」と評しています。インド人の習俗は幻術であり、そうしないと民衆は教えを信用しないのだと述べています。

仏典にしばしば登場する神通も、神通を説くことでインドの人々に受け入れられていった。神通を説かなければなかなか受け入れられない。それが仏典に説かれる正体だと言います。
他にも、経典には幻術の話がとても多いのです。それはインド人が好むからであり、また弟子達も釈尊の言葉であると称して次々自説を立て、加上を重ねていくのも幻術であり、六道輪廻も、過去七仏も梵天勧請もすべて幻術であると述べています。

これも、なかなか面白い説です。その様な視点で経典を読むと、経典には随所に幻術がちりばめられていることがわかります。

釈尊はリアリストであると評され、この世を現実的に観て理法に基づき教えを説かれました。その代表的な教えは、「一切」(いっさい)と題されるお経に表れています。
ここで言う一切とは、「すべて」という意味ですが釈尊は「何を一切となすか?」と、課題を出されそれに自ら解答を与えていくという構成になっています。

その解答とは、「眼(げん)と色(しき)となり。耳(じ)と声(しょう)となり。鼻と香となり。舌と味となり。身と触となり。意と法となり。比丘たちよ、これを名付けて一切となす」とし、詮ずるところ眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(ろっこん)と、色・声・香・味・触・法の六境(ろくきょう)とを、それぞれに組み合わせたものにほかならないと説きます。

つまり、六根をもって表示されたる主観と、六処(ろくしょ・六つの感覚器官・眼耳鼻舌身意の六感官)として語られる客観と、その関わりにおいて成立するところの認識を語って、「これを名付けて一切となす」と結論しているのです。その結論の意味するところは、「その他には何ものも存在しない」ということです。(この項、『原初経典 阿含経』増谷文雄著・筑摩書房181頁引用・参考)

世の中には、一切とはその様なものではなく、あれもこれもあると色々説くものがあるようですが、それはただ言葉の上のことのみで実体は無いのだと説きます。
その教えを聞いただけで、釈尊とは有りもしないことを語る人では無く、極めて現実的なことを語る人であったということが理解出来るのです。


*法津のコメント

本日2回目のブログ更新です。

輪廻に関して、面白い考察が展開されています。

次回の寄稿が待ち望まれます。


「こだわり」について

こだわりには自覚しているものと無自覚なものがあります。

自覚しているこだわりは自分の価値観と結びついています。

多くの場合、そのこだわりを肯定しています。

ですから、そのこだわりを捨てようとは思っていません。

話は変わりますが、以前はこだわりは良くないものと思われていましたが、

いつ頃か、こだわりを肯定的な意味に使うようになっています。

コマーシャルにも、「味にこだわった」などという言葉がでています。

しかし、こだわりは人の自由を束縛しているのです。

こだわりのせいで、苦しんでいることに気づいていません。

こだわらなくてもいいのです。

意見の違いによる葛藤も、こだわらなければ問題になりません。

一人ひとり違うのですから、意見は違っていいのです。

こだわらなければ、対立は生まれません。

対立がなければ、平和です。

一人ひとりは自由です。

しかし、はじめに書いたように無自覚はこだわりもありますから、

自分が何かにこだわっているかも知らないために、こだわってしまうのです。

まず、自分のこだわりを知ることが大切です。

昨日も書きましたが、自分のこだわりは他人との関係においてわかるものです。

他人との人間関係を大切にしてください。


自分のこだわりに気づくことは意外に難しい

今日は5月6日(木)です。連休の中の平日。東京都中野区の外は小雨です。

さて、今日のテーマは「自分のこだわりに気づくことは意外に難しい」です。

前回、自分が公案を解くことにこだわっていたことに気づいたと書きました。

自分がこだわっていることは、自分にとってはそれが当たり前だからです。

それは当たり前でしょうと思ったときは、それが本当に当たり前であるのか、考えた方がよいのです。

しかし、そのようにはなかなか思えません。

それに、気づけるのは他者との関係である場合が多いのです。

他人との意見の違いがあったら、自分の自分の意見の正当性を主張するよりは、自分は何かこだわっていないか考えた方がよいのです。

その時、自分のこだわりに気づけます。

その意味では、自分の異なる意見を持つ他人は自分にとってありがたい存在なのです。

そのような人々は、自分にとって大切な先生なのです。

なぜならば、自分のこだわりが自分の自由を拘束して、自分を苦しめているからです。

もしかしたら、そのことはわかり難いかもしれませんが、よく考えてください。

自分のこだわりのように思わなくてもよいと考えたら、苦しみから離れ、楽になるはずです。


公案について

昨日は kassii 長老の心解脱の経緯を「覚りの境地(2019改訂版)」から引用して、紹介しました。その引用文には続きがあります。

それには公案について述べられていますので、それを今日は引用します。
「覚りの境地(2019改訂版)」(p189~p190)

(以下引用)

具体的に、SRKW ブッダが提示した公案を示そう。

【苦い薬の (準) 公案】 苦い薬があったとき、その苦さも薬効であると考えなければならない。苦ければ苦い ほど薬効も高い。

【一円の公案】 もし人にお金を与えるならば、一円が最もすぐれている。これはなぜであるか?

「苦い薬の (準) 公案」を解けば基本的に預流果を認定する。このような人は、もう仏 道を踏み外すおそれがないからである。そして、「一円の公案」を通過すれば心解脱(初 期)を認定する。「その表象」を得た人だけが、この公案を通過できるからである。そして、心解脱を果たした人を私は” 長老” と呼ぶ。

ところで、ここに注意すべきことがある。私自身、公案を縁として心解脱した事実があ る。それゆえに、公案が心解脱に役立つものであることはもちろん承知している。それ でも、人々 (衆生) に敢えて公案に取り組むことを勧めず、観 (=止観) に取り組むことを 勧めているのは、公案の効力とその危うさの両方を知っているからである。観に比べて、 公案はより具体的である。しかし、それゆえに道に迷ってしまう危険も大い。

公案に 書かれた一つ一つの言葉にとらわれてしまうと名称 (nama) 作用に翻弄されて、公案は決 して解けないばかりか修行者を大いに迷わせる。その挙句、仏教そのものに疑問を抱く 者も現れるかも知れない。公案に心が転じられてしまっては、話にならない。

公案が解脱に役立つものとして成立するのは、公案を縁として心解脱した人が、まさし く公案に縁があって心解脱した場合だけである。そして、公案に取り組む前にその縁を 知ることができないゆえに、修行者が公案に取り組むことは一種の賭けのような側面を 持っている。このような理由で、人々に広く公案を勧めることはできない。どうしても 公案に取り組みたい修行者は、私か、あるいは長老と密に連絡し合って、道に迷うことが ないようにすべきである。

(以上引用)

以上ですが、引用文に書かれている通り、公案には効用と共に危険性もあります。

実は私(法津如来)は、四十数回解答をSRKWブッダに提出しましたが、通過しませんでした。

最後は、公案を解こうと拘っていることに気がついて、公案をやめました。

しかし、公案を取り組むことを通じてSRKWブッダとメールでやり取りをし、親交を深めたことは大きな意味がありました。

引用文中にもありますが、どうしても 公案に取り組みたい修行者は、私(SRKWブッダ)か、あるいは長老( kassii 長老)と密に連絡し合って、道に迷うことが ないようにすべきです。法津如来に密に連絡し合ってもダメです。


石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その1

仏教思想を学ぶ上で、「輪廻」という言葉がよく出て参ります。命(いのち)ある存在は、業(カルマ)に基づき限りなく生と死とを繰り返すというインドの思想がその根底にあり、仏教にもその教義が取り入れられているからです。

また、同じ仏教思想に出てくる「因縁」という言葉を考えた場合、たしかに輪廻という思想を考慮に入れた方が、より容易に理解出来るのは事実です。

私自身、阿含宗に入会し最初は自分自身の能力アップを目指していたのですが、のちに管長である桐山靖雄氏の提唱する「因縁解脱」の方向に舵を切ったことは間違いありません。

本来仏教が目指すものは「覚り」であり、覚りを得たなら「解脱」を達成出来る=「覚り=解脱」と表現されるものですが、桐山氏の説く因縁解脱とは誰もが理解しやすいよう「因縁から解脱する=因縁解脱」という表現法を用いておりました。

因縁とは、ある意味曖昧さのある難しい言葉ですが、そこでは先祖から受け継いだものと前世から受け継いだもの、の二方向を想定して阿含宗では教えを説いていました。
普通に考えたら、今生きている自分という存在は先祖から影響を受けているという事実は疑いようもありません。しかし桐山氏は、先祖から受け継いだ影響を縦軸の線と考え、更にもう一方横軸の線を想定し説いたのです。

その横軸の線こそ、過去世から現世・未来世へと永遠に続くいわゆる「輪廻」であるとし、この縦線(先祖からの影響力)と横線(輪廻による影響力)の交点に「自分」というものが存在すると説いたのですが、なかなか面白い説です。

私自身、阿含宗において因縁解脱を目標として修業し、当然輪廻からの脱却(解脱)を目指していたことは言うまでもありません。
ここでは、実際に輪廻が実在するか否かが問題なのでは無く、輪廻の実在を信じればこそ因縁の実在をも信じられ、そこから解脱することも考え得るということです。

その根底にあるのは、古来から伝えられる悪因苦果・善因善果の教えです。現世における苦しみは、前世以前に悪い行い(悪業)を積み重ねたが故に結果として現れている。その苦しみを解決するには、善業を積み重ねて悪因縁から脱するより他に方法はない・・・という教えです。

輪廻を脱するために、「覚り」を得たいと痛切に感じて修業に専念しましたが、真の「覚り」とは輪廻からの解脱では無く、輪廻は関係ないと知ったのは師(SRKWブッダ)に出合い、真の教えを聞いた後のことでした。

この世において、「覚り」と覚りに至るための修業と輪廻はまるで関係がない。その事実を耳にしてただ驚くばかりですが、私はそれまで一体何を観てきたのでしょう?
それは、「輪廻」という幻(イメージ)であったのだと振り返ります。実在しないものを、さも実在するかのように経典で学び教えられ、自分なりのイメージを作り上げた。しかし、それは教義上も修業上もたいそう都合の良い幻(イメージ)であったことは間違いありません。

表題に用いた、「幻(まぼろし)」とは、「実在しないのに、あるように見えるもの。」であり、「イメージ」とは、「心に思い浮かべる像や情景。」という意味があり、その二つは輪廻というものの不確実性を表すにはぴったりの表現法として使用しました。

学んでみれば、現代では「釈尊の学説は輪廻の存在を否定するものである」という主張が近代仏教学の学者間で議論されているようで、現代日本の仏教者・僧侶・仏教研究者の中には、「釈尊は輪廻の存在を否定した」とする主張が少なくないようです。

ネットで色々調べていて、身延山大学仏教学部教授の望月海慧(もちづきかいえ)氏が書かれた「ブッダは輪廻思想を認めたのか」という文書を見つけました。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

石法如来から、また新たなテーマで寄稿して頂きました。
輪廻について、新しい視点から解説して頂きました。
6回に分けて寄稿して頂けるとのことです。

kassii 長老の心解脱と公案

昨日予告しましたように、今日は kassii 長老について、その心解脱の経緯を「覚りの境地(2019改訂版)」(p187~p189)から引用して、紹介します。

(以下引用)

kassii(ハンドルネーム) は、心解脱(初期)を果たして長老となった。かれは、私の弟 子の一人であるが、私が提示したいわゆる公案を通過して心解脱の証たる「その表象」を 得たのである。

心解脱とは、名称 (nama) の解脱を指す。人が心解脱を果たすと、かれはもう人間関係 で苦悩することがなくなる。名称 (nama) 作用を超えた「その表象」がかれの行為におい て戒として働き、理法に適わない行為を為すことがなくなるからである。

さて、公案とは本来それを通過すれば覚りを開いたと認められる関門を言葉による問 題として提示したものである。しかしながら、公案の発祥の地である中国ではそれに即 した公案はほとんど提示されなかった。と言うのは、中国の修行者たちは未だ解脱して いない者を解脱者だと思いなし、仏でも何でもない俗人や気ちがいを仏だと見なしてし まったからである。

公案は、「仏ならばこのように振る舞う」という具体例を文章化したものであり、その 意味を理解できるのは仏だけ (解脱した人だけ) であるという考えから作られた。中国の 祖師たちが自分の法を弟子に相伝するのに用いようとしたものである。

しかしながら、中 国で真に覚りを開いた人は慧能ブッダだけであり、かれは公案を作ることはなかったの で、中国には実は公案は存在していない。それでも公案に一定の意義があるとすれば、そ の正しくない公案がまぐれ当たり的に公案としての意味を持つものが存在するというこ とである。つまり、公案の作成者の意図とは別にその文章が公案として一応の成立を見 せているものがあるのである。

さて、公案は日本の仏教者たちにも引き継がれた。その 中に公案と呼ぶのに相応しいものがいくつかある。そのような公案をさらに発展させて SRKW ブッダ独自の公案を提示した。それを kassii が解いたので、kassii の心解脱(初期) を認定したのである。これが kassii の心解脱の経緯である。

(以上引用)

kassii 長老は東京在住なので、私も何度かお会いしておりましたが、最近は新型コロナの影響で、それがでいないでご無沙汰しております。普通の勤め人で、子煩悩な好青年です。

六祖壇経と涼風尊者(今は法風如来)の縁

六祖壇経と言えば、SRKWブッダの奥さんである涼風尊者の身解脱の経緯について、昨日と同様に「覚りの境地(2019改訂版)」(p190~p195)から引用します。

(以下引用)

涼風尊者 (2011年当時の呼称) は、私 (SRKW ブッダ) の細君である。彼女は、私が 覚って仏になった後も仏教など特に興味などない女性だった。ただ、自分の夫が仏だと 名乗るので、いわば面白半分にこの10年余り付き合ってきただけである。そんな彼女 が仏教に興味を抱いたのは、先に記した kassii 長老の心解脱の報を聞いてからだと言う。 そして彼女はその後の2ヶ月余りで形態 (rupa) レベルの解脱を得た。すなわち、識別作 用の滅を果たしたのである。その経緯を述べよう。なお、その数年後、彼女はさらに慧解 脱を果たして仏(現在は法風如来と称している)となったが、その経緯については本書で は割愛する。

さて、kassii 長老が「一円の公案」を通過して心解脱を果たしたのは2011年5月2 8日のことであった。その報を私から直接聞いた細君は、一種のおどろきを感じたと言 う。kassii 長老は心解脱前に二度ほど我が家を訪れており、当然細君も面識があった。そ の面識がある彼が世に滅多に現れない心解脱者となったという報を聞いて、心が震えたら しい。そして、細君は自分も修行すれば心解脱くらいは達成出来るのではないかと思っ たと言う。

しかし、細君が実際に取り組んでみると私 (=SRKW ブッダ) のホームページ『覚りの 境地』を見ても内容が難しくて理解できず、かと言って釈尊の原始仏典は読む気がしな かったらしい。そんな彼女の頭をよぎったのは六祖壇経であったそうだ。

六祖壇経は、私 がそれを読んでいて覚った経緯があるその経典であり、読めば覚れるという可能性を感 じたと言う。また、慧能は文字が読めないのに仏になった人だと伝えられているが、そん な人でも仏になったのだから自分もできるのではないかと思ったと言う。単純に、慧能 になぜか親しみを感じたとも言う。ところが、我が家にかつてあった六祖壇経はすでに 他の人に差し上げていて手元には無かった。したがって、読もうにも読むことができな いと知って細君は途方に暮れたそうだ。

そんなとき、その当の六祖壇経が我が家に戻ってきた。差し上げていた人が、自分には 不要だからと添え書きして約一年ぶりに送り返して来たのだ。それが同年の6月10日 のこと。細君は読みたかった経典を手に入れてめずらしく真剣に読んでいたことを私も 憶えている。と言っても、彼女は寝る前に15分ほど経典に目を通し、眠くなったらその まま床に入るというやり方であった。

そんなことを続けていた7月20日、すなわち六祖壇経を読み始めてから6週間ほど 経った日、細君は珍しく昼間に六祖壇経を読み始めた。するとしばらくして寝室の窓か ら涼しい風が吹いてきて、一瞬に心が晴れたと言う。住んでいる住宅の前を通過する新 幹線のけたたましい音がなぜか急に気に障らなくなったと言う。これが彼女に起きた形 態 (rupa) の解脱の瞬間であったようだ。
細君は、そのことをその当日には言わず次の日の朝になってから私に告げた。一定の 境地を得たことをしばらく様子をみて確認したかったらしい。そして彼女は言った。
『新幹線の音が昨日から静かだけど、そうなの?』
私には新幹線が走る音に前日以前との違いは見いだせなかった。これはどういうこと か。つまり、細君は新幹線の音に煩うことが無くなっていたのである。

さらに彼女が言う。『珈琲の味がおかしい。唯の苦いお湯にしか感じない。』これもま た識別作用が滅したことを示していた。そしてついには『干物を焼いた臭いが臭くない』 と言い出した。私はこれを聞いて細君は識別作用が滅したのかも知れないと思った。す なわち形態 (rupa) レベルでの解脱を果たしていると直感した。その後数日間チェックし たが、細君の解脱は間違いなさそうだとの結論に達した。そして尊者を認定した。呼称 は、解脱時の経緯を勘案して” 涼風尊者” と名付けた。あの日から数年経過した時点でも 細君の識別作用は滅したままであった。

さて、細君に何が起きたのだろう。一言で言えば名称 (nama) の解脱を飛び越えて形態 (rupa) の解脱を果たしたということである。つまり、心解脱無しに一足飛びに識別作用 の滅を達成したことになる。ただし、これは智慧の解脱ではない。解脱に際して善知識 を見ていないからである。しかし形態 (rupa) レベルで解脱を果たせば阿羅漢果を達成し たと認めなければならない。

こんなことが現実に起こるとは予想していなかったが、実際に起きたことである。し かも、女性が形態 (rupa) レベルでいきなり解脱するなどあり得ないことだとそれまで考 えていた。しかし、事実を曲げることはできない。つまり、女性も男性と何ら変わりなく 阿羅漢になれることが実証されたということである。多くの女性にとって、これは朗報 となるだろう。細君が行った修行は、次のように要約できよう。

1 知人が心解脱したことを聞いて、発心した。
2 縁のある経典 (六祖壇経) が、まるで魔法を使ったかのように手元に戻ってきた。 3 縁のある経典を、寝転びつつ読んだ。 4 ある日、突然に涼しい風が吹いて、形態 (rupa) が解脱した。
まるでふざけた言い方だが、一言で言えばこうなるだろう。

~果報は寝て待て
細君が解脱する以前、いつどのように功徳を積んだのかを思い出すことはできない。し かしながら、功徳を積んでいたので阿羅漢果を果たしたことは間違いない。思うに、私 (=SRKW ブッダ) という如来の傍に9年間以上居て決して仏教を蔑ろにしなかった。そ れが功徳を積むことに繋がったのかも知れない。

(以上引用)

以上でありますが、引用文中の kassii 長老については、ご存知ない方もおられるでしょうから、明日のブログで紹介いたします。


六祖壇経とSRKWブッダの慧解脱

昨日、金剛般若経に関連して六祖慧能の開悟の話が出ましたが、その話は「六祖壇経」にありました。

その「六祖壇経」を縁にして、SRKWブッダは慧解脱をされたのです。その話は「覚りの境地(2019改訂版)」(p179~p182)に記載されています。少し長いですが、具体的に知るために、引用します。

(以下引用)

私 (=SRKW ブッダ) が覚りの境地に至ったのは、西暦2001年12月19日の真夜 中、午前1時5分のことであった。私は若い頃から仏教に興味があったとはいえ、このこ とについての真実の意味での始まりは解脱のしばらく前に遡るに過ぎない。なぜならば、 それこそが私の発心であり、発心後の歩みこそが仏道の実質的歩みであったと考えられ るからである。以下に、私が覚りに至った経緯とその後のことを書き記す。

さて、ときは私が覚りの境地に至る3ヶ月ほど前に遡る。そのとき私は当時勤めてい た会社の同僚達と新しい研究開発事案の立ち上げのために勤務地を離れていわゆる温泉 場にて合宿を行っていた。

もちろん遊びではない。ただ夜は無礼講である。客先でもある共同研究員とわれわ れで食事をして、さらに二次会へ。そこではじめて入った宿泊所ちかくのパブの中では ちょっぴり破廉恥なドンチャン騒ぎが行われた。彼女たちは100kmほど離れた都市 からこの温泉場に営業遠征でやって来て、客と戯れるのだと言う。そんな中、私は少し酔 いが回ったのも手伝って、しかしそれはいつものことで、釈尊の話を面白おかしく話して いた。そんな話をするのはこのときばかりではない。何の話題でも楽しく話をして場を 盛り上げる・・・それが私の飲み会スタイルだった。

その中の一人の若い女性 (もちろん若くなくては営業遠征できないのであるが・・・) が私に言うのである。「どうやって勉強したのぉ」私はいろんな仏教書を読んだことをや や自慢げに話した。そのあとで、彼女は驚くべき一言を発したのである。彼女が口にし た言葉をここに書くことは敢えてしないが、それは世にも不可思議な一言であった。た だ私はそのときには酔っていたし、その言葉についても別段気に留めず、店を後にしてか らもさらに別のパブに繰り出す始末であった。

しかし、それから数日経ってふと私は思った。先日の彼女の言葉はとても気高い言葉 だった。今まで聞いたことがない不可思議な一言だった。彼女の言葉を思い返していた 私は急に恥ずかしくなった。彼女の方が仏教に対して私より遙かに真剣で真摯な気持ち を持っているように思えたからだ。

そこで私は、青年の頃からそれまで独学で細々と手がけてきた仏教の勉強についても う一度真剣に取り組んでみようと思い立った。そして、その再度の取り組みの手始めと して、この数年来、順不同に取り組んで来て、自分では既に解いたと考えていた (世間で よく知られている) 禅の公案群を再吟味することにしたのである。そして、その再吟味の 過程の中で、私はそれまで知らなかった「基本的公案」という公案に出会った。この基本 的公案は、(故) 久松真一氏 (日本人) によって提唱された公案であり、同氏によれば17 00則以上あるといわれる様々な禅の公案の最終的な一関として位置づけられているも のである。それを、FAS協会という臨済宗系統の京都大学派のホームページにアクセスすることで知ったのが、2001年11月始め頃のことであったと記憶している。

そ して、この基本的公案もそれから約1ヶ月半経過した2001年12月17日に解くに 至った。しかし、それだけで覚りの境地に至ることはなく、このため、その時点では「禅 の公案というものは、詰まるところある種の哲学的見解の帰結である」というそれまで私 が抱いていた見解を何ら変えるものではなかった。つまり、この基本的公案も世間的に よく知られたその他の公案とさして変わらないものに過ぎず、総じてそれらはいわば頭 の体操のようなものであるのだという結論に相変わらず落ち着いていたのである。

ところが、その翌日のこと、すなわち12月18日の夜から19日にかけて、六祖慧能 の著作とされる六祖壇教の「法達の参門」の箇所を読んでいたところ、不意に無分別智を 生じ、覚りの境地に至ることを得たのである。ここで無分別智を生じたというのは、” あ れこそが善知識の言葉 (=法の句) であるのだ” ということにまごうことなく思い至ったと いうことである。それは、具体的には、たとえば法華経でいうところの” 諸仏が世に現れ 出た瞬間” なのだとはっきりと理解したということである。そして、その言葉 (私が得た 善知識の言葉) とは、覚りの境地に至る数週間ほど前に、わずか6歳の子供が彼の友達に 向けてぽつりと言った一言であった。

私はそのとき、自分がそれまで勉強してきたつもりの何某かの仏教的見解などは、善 知識が発する善知識 (法の句) の足下にも及ばないのだとはっきりと理解した。すなわち、 人が作為するところのあらゆる分別智は、人が作為せざるところから世に出現する無分 別智にまったくかなわないのだと心の底から思い知ったのである。

なぜならば、この世 における決定的なことについての対応は、わずか6歳の子供にさえかなわないことがあ るのだとはっきりと知ったからである。私は、自分が40年以上この世を生きてきて、少 しは物事が分かった気になっていたが、本当は何も分かっていないのだと心の底から気 づいた。私は、自分が何か根本的な勘違いをしているに違いないと (説明できなかったが 確かに) 思い至った。そしてそのとき、私の解脱は確かに起こった。

このとき、解脱の瞬間は、時間にして僅かに2~3分間の出来事であり、今になって思 えば六祖慧能がその著書で語った頓悟そのものであった。しかしながら、覚りの境地に 至ったその夜は、自分では覚りの境地に至ったとは気づかずにいつも通りに眠りについ たのである。

しかし、翌朝になって目が覚めたとき、私自身根本的に何かが変わったこと に気づかされた。それは、それまでの人生で一度も感じたことの無い、生まれて初めて の味わう独特の不思議な感じであった。そして私は、台所で朝食の用意をしている細君 に向かって「覚ったかも知れない・・・」と言ったことを憶えている。さらに、朝食を終 え、自家用車で通勤していると、前日までとはうって変わって、

● まったくいらいらしない
● まったく恐怖しない

自分に気づいたのである。もちろん、通勤時にそのようなやすらかな気持ちに落ち着い ていることは初めてのことであった。ここに至り、私は本当に覚ったのだということをはっきりと理解した。

(以上引用)

以上が、SRKWブッダの慧解脱の経緯ですが、法の句と「六祖壇経」が重要な役割をはたしています。

引用文中の「法達の参門」は、中川孝訳註「六祖壇経」(タチバナ教養文庫)では「法華の持者法逹の大悟」となっています。


金剛般若経について

昨日で無分別智の解説は終わりましたが、最後に金剛般若経の言葉が話題になりました。

金剛般若経は、岩波文庫「般若心経・金剛般若経」(中村元・紀野一義訳注)に収載されています。

その『金剛般若経』解題には次のように記されています。

(以下引用)

『金剛経』または『金剛般若経』というのは略称であって、詳しくいうと漢訳で『金剛般若波羅蜜経』また

は『能断金剛般若波羅蜜多経』として伝えられている経典である。諸の般若経典うちで最も簡潔でひろく読

まれているのが『般若心経』であり、それに続いて広く読まれているのが『金剛経』である。

(以上引用)

この『金剛般若経』の一句を聞いて開悟したと六祖慧能の説法録である『六祖壇経』に書いてあります。

その一句とは、昨日掲載した「まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし (応無所住而生其心)」だったのです。

また、この金剛般若経の霊験はあらたかで、慧能ブッダから1300年後にも、不肖私が解脱知見を得る縁となったのです。