石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その3)

私自身が遭遇した、「安らかな死」の2例目は養母です。彼女は、八十三歳まで生きたのですが「この様な死に方もあるのか?」という感じの最後でした。
養母は、養父の興した事業(公衆浴場)を手伝い、死ぬまで働いた人でした。死ぬ原因となったのは、加齢にともない出てきた認知症です。
 
養母は、亡くなる数ヶ月前に風邪を引いたらしく自宅にあった薬を服用したようです。認知症の進行により、「薬の服用を忘れ」薬の問屋が自宅に置いていた(いわゆる、置き薬)薬を一箱全て飲んでしまい、肝臓にダメージを受け体調不良のため入院することになったのです。
 
病院は、完全看護で管理も行き届いており全く問題はありません。私は、毎週釧路から養母の住む別海町の病院にお見舞いに通いました。
結局、一ヶ月半ほど入院していたのですが、結果的に私が最後の見舞客となりました。それが何故分かるかと申しますと、私が自宅に戻ったら「養母が亡くなった」という連絡を受けたと妻が言ったからです。
 
私が、病院に1時間ほど居て色々話をし帰るとき養母は病室の入り口付近まで見送りに来て、私が「また来るね」と言ったら笑顔で「また来いよ」と返事をしました。
それが最後の会話で、彼女はそのまま自分のベッドに戻り眠りについたそうです。寝ている姿を、同室の人が見て「全く動かないからおかしい」と看護師さんを呼び、呼吸をしていないのでドクターに来てもらい死亡が確認されたそうで「その間、わずか30分以内」の出来事だったそうです。
 
要は、私が別れの挨拶をして30分以内に「安らかに息を引き取った」という事ですが、私にすれば全く信じられない出来事でした。
病院は完全看護で、関係者の目も行き届いています。その様な状況の中では、極論すれば「死にたくても死ねない環境にある」はずです。
 
それが、「あっけなく亡くなった」ということに衝撃を受けたのです。そこで、間違えてもらいたくないのは、私は医療上の不手際を指摘している訳でも、親の死を悲しんでいる訳でもありません。
簡単に「死ぬことが出来た」という、その事実に驚いたのです。
 
人間の「死」に関して、次のような文章があります。(以下、引用)
「(簡単に死ねない時代)むかしから長生きがそれほどよいものでないことは、若い世代にあまり伝えられてきませんでした。これから人生を楽しもうとしている若者に、長生きはよくないなどと言ってもいやがられるだけだから、老人が口を閉ざしてきたのでしょう。あるいは若者が聞く耳を持たなかったのか。
 
実際、長生きをした老人の中には、それを後悔したり不愉快に思ったりした人が少なからずいたはずです。でも、むかしは適当に死んでいたから、それほど悔いも大きくならずにすんだ。
 
しかし今はちがいます。どんなにつらい長生きでも、延々と生きなければなりません。あるいは死が迫ってきても、なかなかすんなりと彼岸へ渡れません。医学が進歩したからです。
先日、友人の父上が亡くなりました。敗血症から多臓器不全になり、集中治療室で一ヶ月半、濃厚治療を受けた末の死でした。
 
人工呼吸、器官切開、導尿カテーテルの留置、高カロリー輸液、抗生物質の多剤投与、凍結血漿、強心剤、ステロイドなどの点滴、最後は人工透析まで行われ、今時めずらしい全身チューブだらけの死だったそうです。
 
危篤の知らせを受け、友人は大阪から何度も入院先の静岡の病院に駆けつけました。そのたびに濃厚治療で持ち直し、中途半端なまま帰宅。何度目かの危機を脱出したあと、彼はしみじみ言いました。「今は簡単に死ねない時代やなぁ」どうせだめならもっと楽に、という思いもあったのでしょう。
 
しかし、万が一にも助かる見込みがあるなら、ベストを尽くすべきだと主張する人は多いはずです。その一方で、臨床の現場で多くの死に接している医師たちは、往々にして自分のやっていることが無意味であったり、有害であると感じているものです。」(以上、『日本人の死に時』(そんなに長生きしたいですか)日下部洋著・幻冬舎新書・57~58頁引用)


*法津如来のコメント

今回のテーマも重いテーマです。

じっくり考えてください。


「賢明な人はワクチン接種しない」

健康に関する事柄は、個人の人生観(死生観)と深く結びついており、どのように考えるかは個人の自由の問題で、他人がとやかく言う必要はないのですが、それでも知らされてない事実はよく知る必要があるとは考えています。

そのため、石法如来もいろいろな情報を提供してくれています。

今朝、「植草一秀の知られざる真実」というブログに「それでも賢明な人はワクチン打たない」と言う記事がありました。
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-7cf247.html

この記事は、石法如来の情報とダブルところがありますが、よくまとまって、説得力がありますので、引用させていただきます。

(以下引用)

新型コロナ感染症対策で最大の不思議はコロナ感染症特効薬のニュースがまったく報じられないこと。

世界のメディアが喧伝するのは「ワクチン」のみ。

そのワクチンが普通のワクチンではない。

mRNA型ワクチン、ウイルスベクター型ワクチンという新種のワクチン。

この新種ワクチンには重大な懸念がある。

新潟大学名誉教授の岡田正彦氏が簡単に分かりやすく整理してYouTubeで解説くださっている。

「コロナワクチンの仕組みとその問題点について」
https://bit.ly/3c2Svo1新型コロナウイルスは表面にとげとげの構造を持つ。

ウイルスはこのとげとげを人間の細胞に接着させて侵入する。

そこで、新型コロナウイルスのとげとげ部分のたんぱく質をコードする遺伝子を人工的に試験管のなかで作り、これを人工の膜で包んで注射しようとするのがmRNA型ワクチン。

岡田教授が指摘する問題点は、本来、一回たんぱく質を作ると役目が終わり、分解されるはずのRNAが新種ワクチンでは分解されないように改造されていること。

その結果、抗体が作られるプロセスが短期で消滅せず、永続することになる。

コロナ感染症対策としては有用に見えるが、実は落とし穴がある。

人工遺伝子が半永久的に残り、新種のスパイクたんぱく質が生成され、そのたんぱく質に対する抗体反応が永遠に続くことになる。

このような反応がすでに病気として実在するという。

代表は関節リュウマチ。

免疫作用異常による障害が発生するリスクがある。

また、mRNAを包む脂質粒子の表面をコーティングするPEG(ポリエチレングリコール)が重大なアレルギー反応を引き起こすことも懸念される。

mRNA型ワクチンで使用が開始されているのがファイザー社製とモデルナ社製。

モデルナ社製ワクチンの治験を担当した米国有名病院の理事長はモデルナ社の重役を兼務して8億円以上の株券を供与されていたと岡田教授は指摘する。

他方、ウイルスベクター型ワクチンのリスクはさらに重大だ。

この型のワクチンを製造しているのがアストラゼネカ社とジョンソン&ジョンソン社。

ただし、アストラゼネカ社のワクチンについては内容がほとんど公開されていないため、どのような添加物が入っているのか分からないという。

ウイルスベクター型ワクチンは新型コロナウイルスのスパイクたんぱく質DNAを取り出して人間の細胞に投与するもの。

いったん組み込まれたコロナのDNAは体内に永久に残る。

絶えずスパイクたんぱく質が作られる反応が続くことになる。

これが免疫暴走を引き起こすことにつながるとの懸念が存在する。

また、長期的にがん発生を誘発することも懸念されるという。

岡田教授はコロナ変異株が確認されたブラジル、南アフリカ、英国が、いずれもアストラゼネカ社による治験が行なわれた場所であることを指摘する。

岡田教授は、ワクチンがあまりに強すぎて、それに対抗するためにウイルスが過剰に変異を起こしたのではないかとの考えを示す。

さらに、ワクチン研究の専門家で、ビル&メリンダ財団でワクチン部上級プログラム局長を務めていたギアート・バンデン・ボッシュ博士も重要な指摘をしている。

https://bit.ly/3fNaSOw

ボッシュ博士は、コロナワクチン接種が、接種を受けた人が備えている本来の免疫能力を消してしまうことを警告する。

インフルエンザに対して私たちはどう立ち向かうのか。

答えは「ワクチンより特効薬」だ。


日本のコロナ感染者数は5月30日時点で人口100万人当たり5852人。

比率にして表示すれば0.59%。

100人中1人の陽性者も確認されていない。

死者は人口100万人当たり102人。

比率では0.01%。

感染することを恐れて国民全員にワクチンを接種するより、感染者に対して特効薬を投与する方がはるかに効率的だ。

ワクチンだけが奨励されて特効薬に関する話題が完全にかき消されている。

ワクチンには重大なリスクがつきまとう。

「賢明な人はワクチン接種しない」ことを肝に銘じる必要がある。

(以上引用)



石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その2)

医者は、患者の不安を煽ってお金を稼ぐ・・・この構図は、今世間を席巻し恐怖に陥れている新型コロナウィルス感染症でも同じことが言えます。
医者は、基本的に「脅す・煽る」のを習性としていますから、その様な人物たち(新型コロナウイルス感染症対策分科会)に国家の意思決定を委ねたら道を誤らせることに繋がります。
 
先輩のガン死の場合、年齢が40歳そこそこと若く職場の定期検診拒否や、ガン治療を拒否することなど考えられません。私の考えは、ごく少数者の意見であり決して多数意見ではありません。
 
働き盛りの人間にガン死が多いのは、自衛官現役時代でも亡くなった人を見てきましたから間違いない事実です。
ガンの場合、「早期発見」とよく言われますが、目に見えるくらいの大きさになるには既に10年ほど経過しており、そのガンを発見して果たして早期と言えるかどうかは疑問です。
 
またガンに関して言うと、細胞をとって検査(精査)しても(細胞の)顔つき?だけでは判断が難しいようで、近藤誠医師の著書によるとガン治療で治癒回復する患者は大抵ガンもどき(ガン細胞に見える正常細胞)であり、他の臓器に転移しているガン細胞はどの様な治療をしても治癒しない(命を取られる)ので、それならば余計な治療(手術・抗がん剤・放射線)を受けないで放置し、QOL(クオリティ・オブ・ライフ・生活の質)を高めていた方が長生きできると言います。
 
ただ、この種の問題はある意味「信仰」と同じで根深いものがあり、考えを変更させるのは難しいのです。これらは、宗教や薬の服用などにも同じような現象が見られます。
難しさの原因は、その人の基本的な考え方=人生観に基づいて形成されているからです。
 
私が今までの人生の中で、個人的に「安らかな死」だと感心した出来事を書きます。最初は、私の義父(妻の父親)の叔父にあたる人物で八十代半ばで亡くなりました。
叔父さんの妻(叔母)が、その半年ほど前に亡くなっていたので当時独居老人でした。周りには親戚縁者の家が数軒あり、全く目が届かない状態でなかったことがある意味幸いしました。
 
「そう言えば、ここ数日おじさん見かけないね」と、誰かが気が付き鍵のかかっている玄関を何とかこじ開けて中に入ると、その叔父さんは布団の中で眠るように亡くなっていました。
ただ眠るように亡くなっていたなら、記憶に残るような出来事とは言えませんが私自身現場を見て驚いた記憶があります。
 
その部屋の壁には、般若心経を写経した大きな紙が壁一面に下げられ、枕元の机上には花が生けて置かれていたのです。
その叔父さんは、信仰心の塊のような人でした。聞くところによると、若いころから信仰心が厚く市内のお寺から生前戒名を頂いていたようです。また、一時期「生長の家」という宗教団体で一生懸命活動を行っていたようですが、特段その知識や自分自身の業績をひけらかすような人ではありませんでした。
 
笑い話に聞こえますが、毎朝早くに起きて「世界平和」を2時間くらい祈っていたそうです。それを許した奥様も立派?ですが、続けた叔父さんも普通の人ではなかったようです。
私も、仏教に関心があり叔父さんとはよく話をしましたが、強烈な個性を持ち合わせない、どちらかというと静かで穏やかで目立たない人でした。
 
叔父さんは、大正生まれですから当然先の戦争経験者ですが、戦争の話や兵隊に行った話など全く聞いたことがありませんから、どのような青春時代を送っていたかは不明です。
ただ、そこの家は奥様がしっかりした働き者で、女一人で生活を支えたという話は聞いたことがあります。
 
その叔父さんに、何か病気があったとか長く入院していたという話を聞いたことはありませんから、健康に恵まれた身体だったようです。
そう言えば昔、『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(中村仁一著・幻冬舎新書・2012年1月出版)という著書を読んだことがありますが、逆説的ですが健康を維持するためにはなるべく医療に関わらない方が良いようです。
 
私の養父も93歳で亡くなりましたが、高齢者施設に入所するまで病気で入院したという話は聞いたことがありません。私自身の経験ですが、60歳の時に「痔瘻」(じろう)を患い手術を受けましたが、それ以降全力で走ることが全く出来なくなりました。
身体にメスを入れると、大なり小なり機能不全に陥ることは間違いありません。身体的な因縁ということもありますが、健康こそ宝ですから大切にしなければいけません。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。

「『穏やかな死』と医療問題」の7回シリーズの2回目です。


慈栄のメール

昨日、慈栄様から次のようなメールを頂きましたので、それを引用します。

(以下引用)
法津様
いろいろな読者、との記事、拝読いたしました。
難しくて分からない方々へ、少しメールを書こうと思い立ちましたので、お送りいたします。

慈栄のメール

難しくて分からない方々へ

皆様、こんにちは^_^
慈栄と申します。

いろいろな読者と言う法津様の記事を拝読し、少し、覚りについて私なりの話し方で、話してみようと思い立ちました。
肝心な事は最初の段落に。
後に励ましの言葉を述べます。
ではどうぞ。

皆様は、覚悟と言う言葉をご存知でしょう。
覚悟が定まった時に、迷いが無くなります。
一つであり、二つではない、人の生き方の根本の義をおさめるので、その他のもの(=憂い)が無くなります。

人は、到達する以前は、覚りの事についてアレコレと思い浮かべたり、或いは否定的に思い為したり、更には無視したりしていますが、覚りの本当のところを知りません。しかしながら、にも関わらず、その様であって覚りについて迷っていても、或いは覚りについて勘違いしていても、こころに自らの未達を知る人が、真実のところに到達したいとこころから望むのであるならば、その人にはやはり、覚りへの道はひらけていると言えるのです。

ですから、自分を信じて、自分の本心を問うて、次第に明らかになる自身の本当の望みが、嘘偽りないものであり、恥ずかしくも憚るものでも無く、かと言って誇示するものでもなく、ただそれが、一つ望むものであるとの決心を為すならば、それは貴方に顕現される。

覚りは、人によいものをもたらし、悪いものを無くします。よいことが起こる様になり、悪い事は遠ざかる様になります。それは一重に貴方(覚る人)の決心が、邪ではない、浄らかで本義たるものだからです。

そして覚りで何より良いのは、胸の、心の静まりを得られると言うところでしょうか。
障壁の無くなった世界で静まりを得ることは、大変素晴らしいことです。

皆様。
覚りを、難しいからと思って諦めるのは、勿体ないことです。しかし、無理をして取り組むものではありません。
覚りは難しいと感じることが、そもそも思い込みである可能性も考慮して欲しいと思います。
覚りが容易では無いのはそうなのですが、覚りは当然のものです。
皆様も、自分の本心を知ろうと求めつつ、その本心はどちらに向いているだろうか?と思ってみてください。自分で自分を裏切ることなく、自分との信頼を築いて確固たるものとしてください。

では、お気をつけて。
よい旅を^_^


  慈栄

(以上引用)

いろいろな読者

このブログの読者はいろいろな方がおられます。

以前はテーラワーダ仏教の信者さんが多くおられましたが、そのような方は少なくなっているのではないでしょうか。

そのような方はスマナサーラ長老の説法を聞いておられ、テーラワーダ仏教の知識はかなり持たれていていましたが、大乗仏教については関心がなく、それどころかそれを否定する考えを持っておられました。

このブログでは大乗仏教の立場であるわけではありません。

私はテーラワーダ仏教の比丘(僧侶)ではありましたが、その教義では覚れないと確信しましたので、テーラワーダの比丘をやめました。

その理由は、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの教えの原点にもどり、テーラワーダ仏教や大乗仏教という考え方にとらわれず仏教の真髄を解くSRKWブッダの考え方に共感したからです。

そのために、SRKWブッダの支持者たちが多くおられるでしょう。

しかし、そのほかの縁でこのブログにたどり着く方も多くおられるのです。

それこそ、ラジオ体操の縁で時々このブログを読んでくれている方もおられます。

そのような方には、難しすぎてよくわからないとよくいわれます。

そのように言われると、何をどう書こうかと考えます。

先日5月23日にSRKWブッダは次のようにツイートしておられました。

「覚りは、最初から最後まで各自のことがらである。覚る人は、師なくして覚る。師があっても構わないが、たとえ師の言葉であってもそのままに鵜呑みしてはならない。」

確かにこの通りなので、このブログが何を書こうが、縁ある方は覚るでしょう。

だから、私は心配せずに、縁に従ってこのブログを書いていこうと思います。


観(=止観)について

SRKWブッダは観(=止観)について、ホームページ「覚りの境地」の「理法」の欄で解説されています。
長文ですので、その前文を引用します。また本文については参考のために項目のみを引用します。
是非、時間のある時にじっくりとお読みください。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou004.htm

(以下引用)
【観】
観は、言ってみれば思索を超えた思索であり、人をして覚りの境地に向かおうとするこころを培うのに役立つものである。なんとなれば、観がまさしく完成しつつあるときに、過去に出会った一大事因縁を想起することを得たならば自ら解脱に至ると期待されるからである。

しかし、観は覚りの修行法そのものではない。つまり、観を完成するだけで覚りの境地に至ることは無いと知らねばならないのである。しかしながら、分かり難いかも知れないが、正しい観によって培われた徳豊かな心はいわば覚りの前提であることは間違いないことである。

なお、世間においては、観を止(シャマタ)および観(ヴィパッサナー)の二つに分けて別々に論じることも聞き及んでいるが、実際には止・観はその両方が相補的に存在するのが本当の姿(実相)である。 

→ 補足説明(2)を参照。したがって、本稿では止・観を個別に論じることは行わず、併せて観と表現する。また、観はいわゆる瞑想(メディテーション)や気づき(サティ)とは無関係である。



[観の環境と姿勢]

[観の対象]


[慈悲観]


[平等観]


[特殊な感動]


[補足説明]


[補足説明(2)]

(以上引用)

以上ですが、2020年11月6日から5回に分けて、「仏道の真実++」の「観(=止観)」の解説を行っております。こちらの方がもう少しわかりやすいかもしれません。
https://76263383.at.webry.info/202011/article_7.html






石法の如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その1)

今回の記事を書くきっかけは、適時メルマガを送ってくれる森田洋之医師(鹿児島県の開業医)の著書『うらやましい孤独死』(フォレスト出版)を読んだことです。
以前から、頭の中に構想があったのは間違いありませんが、森田氏の著書を読み少しづつ考えがまとまってきました。
 
人生を、70年も生きていると沢山の人間の死に出会います。私の場合、実の両親も養父母もすでに旅立ちこの世におりません。
一番印象に残る死(の出来事)は、肉親のそれらではなく職場の先輩のそれです。その先輩は、当時私より数歳年上の自衛隊幹部で優秀な方でした。
 
その先輩が、仕事を頑張りすぎたのでしょうか?耳下腺ガンを患い闘病生活を送ることになり、数ヶ月の入院生活の後職場に一時復帰出来たのですが、ガンが再発し結局帰らぬ人となりました。
先輩の葬儀に行き、告別式の時に棺桶に花を手向けたのですが、彼の死顔を見て驚きました。その顔は、「とても怒ったようで、かつ無念そう」だったからです。
 
私は考えました、「彼は、何に対して怒っていたのか?」と・・・。もっと生きたかったのに、生きられないことに対する怒りでしょうか?それとも、治癒しないガン治療に対して怒っていたのでしょうか?更には、もっと長く生きてやることを達成出来なかったことに対する怒りでしょうか?
 
私には、彼の怒りの意味・内容が理解出来ませんでしたが、人生の道半ばでこの世を去るということは「それ程までに悔しい」ことなのだと思い知らされました。
全ては、「因縁である」と言ってしまえばそれまでですが、人間の生存とはある意味空しく悲しいものであるということを痛感したのです。
 
日本人の死因のトップはガン死で、毎日約1,000人の方が亡くなっています。皆様は、ガン検診を受けて「早期発見・早期治療」を心がけておられると思いますが、私の場合全く検診は受けておりません。
もともと、東洋医学に興味があり30年以上前瓜生良介(うりゅうりょうすけ)氏の主宰する「快医学」(かいいがく)という自然療法に出会い、千葉県まで講習を受けに行ったことがあります。
 
更に、20年以上前に近藤誠というドクターの書いた『それでもガン検診受けますか?』という本を読み、ガンというものに興味を持ち個人的に色々学んでみました。
私の場合は、西洋医学に全幅の信頼を置いていないので、仮にガンになっても手術は受けませんし抗がん剤治療も一切受けるつもりはありません。
 
2012年に出版された、『どうせ死ぬなら「がん」がいい』(中村仁一・近藤誠共著・宝島社新書)に面白いことが書いています。(以下、引用)
 
「「医療は恫喝産業。不安を煽って患者を増やす」
近藤・・医者はヤクザよりタチが悪いんです。ヤクザは素人衆を殺すことはしないし、素人衆に指を詰めさせることもない。泥棒だって普通は金を取るだけだけど、医者の場合は患者を脅迫して、金を払ってもらった上に、体を不自由にしたり、死なせちゃったりするわけですからね。ほんとにタチが悪い。
 
中村・・医療っていうのは、命を担保にした博打ですよ。どっちへ転ぶかは医者にも分からないんです。ホントのところ。
近藤・・医療は中村さんのおっしゃる恫喝産業でもあるし、不安産業でもありますよね。不安をあおってファンを増やす。
 
中村・・不安をかきたてたら、患者は絶対、来ますからね。「治療しなかったらこうなりますよ」って不安がらせるし、脅すし。検診でも、人間ドックでもそうでしょ。10項目も受けたら、どっか具合悪いって言われますよ。だって基準値そのものが健康な人が「95%に入る範囲」で、前後の2.5%ずつは、はずれるんだから。
 
10項目やったら、ただそれだけでも、ぜんぶ基準範囲におさまる人なんてそうはいなくなる。それに加えてさらにいろいろ、見つかるわけだから、年取ったらなおさらどっか悪いのは普通で、「正常」なんてありえない。だから検診や人間ドックを受けさせるほど、病人は増えますよ。」(以上、引用終わり)



*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。
今回も石法如来から、寄稿して頂きました。
「『穏やかな死』と医療問題」のシリーズは7回の予定だそうです。
楽しみにしてください。

北海道の読者からのメール

北海道の読者からの電話のあと、その概略は昨日のブログに書きましたが、御本人から次のメールを頂きました。「先生のご判断で、いつでもお役立てください。」とありましたので、本文の前後は省略しますが、引用します。

(以下引用)
怨みを捨てようと思ってから、怨みの背景に欲があることが分かったんです。

だからそこの欲(執着)を断てば、原因である欲がなくなるからもう怨めなくなるんですね。

怨みも縁起の上でしか存在できないんですね。

怨みを認識してから後、その怨みを持ったままで、敢えて怨みを捨てようと思ってみるのです。

怨みを捨てようと思ってから後、自分にとって執着している欲情の象徴のようなものが現われたら、

それを観続けるのです。

考えるのではなく、観続けるのです。


私の前に現われたシンボルは美ならざるものでした。

あばたもえくぼと同じようなものであり、

執着している間はそれを美なるものと見ていたと後で知るのです。

しかし今現われているシンボルは美ならざるものなのです。

美ならざるものを観、美ならざるものと知れば、
心はそこにとどまっていられなくなるんです。

心はそこから離れていくようになるんです。

そして怨む対象が、そこにはないと知るようになるのです。

そこに執着して、それを通して相手を見ていたのです。

そうすると相手は憎しみの対象になるんです。

しかし怨んでる相手は、
もうそこにはいないし、
そこを見てないのです。

同じものを観てないし、それはかれらではないのです。

それはたんなる象徴なのです。

相手はもうそこにはいないし、
そこを見てもいない。

今見ているシンボルは、憎む対象であった相手ではない。

そうすると、憎む対象がないって知るようになるんです。

憎む対処じゃないものを見て憎んでいたと知るようになるんです。

そこへの執着が、怨みを生み出していたと知るようになるんですね。

そのように知って来ると、もうしがみつく価値がなくなってくるんですね。

それらは考えてるんじゃなく、心からそう思えるようになってくるんですね。

その憎しみの正体をはっきりと観たなら、

はっきりと知ったならば、

突然、映像化された怨みが凝縮されたドロドロしたみたいのが

リアルタイムにみるみる溶けて消えていく光景をありありと観たのです。

そして完全にそれが消えさる瞬間、同時に怨みが消えてなくなるんです。

この光景は想像したのではなく、はっきりと観たことなのです。

これらは頭で考えてするのでは駄目で、私は観るということをしたのです。

ニンジンが嫌いな人が、ニンジンは美味しいと本に書いてあるのを読んでも、
ニンジンを好きにはならないのです。

頭で考えるのではなく、ただ観るのです。

頭で考えては駄目なのです。

ただ観るのです。

そうすることによって、そこは執着する対象じゃないってことを
心の底から、本心でそう思えるようになったとき
怨みが溶けて消えたのです。

この心の底、本心からそう思うというのは、潜在意識の次元での話を言ってるのです。

潜在意識に蓄えられていた個人の怨みの念が消えたのだと思います。

これをするには考えていてはできないことなのです。

ただ観ることによって、それは起きるのです。

これは表面的なことではなく、内面の変化なのです。

心の底から、本心からそのようになると、

もう心は、かつての怨む相手を追わなくなるんです。

もう許しが完了しているし、手放しているし、

慈悲の心で観ることもできるようになるんです。

これ程まで怨んでいた相手を、一瞬にして慈悲のまなざしで観ることも
できるようになるんです。

シンボルを智慧によって観たとき、怨みは溶け、そして消えてなくなるのです。

それは突然やってくるのです。

(以上引用)


北海道の読者からの電話(続き)

昨日の続き、本題にはいりますが、あまり具体的なことはプライバシーに関わりますので、曖昧な表現になります。

彼は、10年ほど前の出来事について心を悩ませていました。

その出来事を思い出すと、単なる恨みというよりは激しい憎しみという感情が湧き上がってきたと言っていました。

何かのおりに度々その出来事を思い出し、憎しみの感情を感じていたそうです。

寝床でも思い出すことがあったそうです。

ところが、昨年2020年1月ごろ、憎しみの対象が溶けてしまったような感覚で、憎もうとも憎めないという状態になったというのです。

その出来事を思い出し憎しみの感情を感じていた中で、憎しみの構造が見えてきたようです。

憎しみの裏に、欲があり、その欲に執著していたというのです。

その執著は消えて、憎しみが消えたようです。

彼は、師無くして、独自にSRKWブッダの言われる観(=止観)を行っていたのでしょう。

その後、しばらくしてダンマパダに巡りあい、その3偈、4偈、5偈を読んだとき、この通りだなと感じたそうです。

ここでそれらの偈を引用します。(中村元訳「真理のことば・感興のことば」岩波文庫より)

3 「かれはわれを罵った。かれはわれを害した。かれはわれにうち勝った。かれはわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。

4 「かれはわれを罵った。かれはわれを害した。かれはわれにうち勝った。かれはわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。

5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。

(以上引用)

彼はこれらの偈を読む前に、この真理がわかっていたので、この通りだと思ったのです。

しかし、この真理がわかっていない人は、「どのようにして怨みを捨てるのか?」などという疑問がでます。

そのような人には、これらの偈は努力目標になるのです。

彼は、次の課題は6偈だと言っていました。

6 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしょう。___このことわりを他の人々は知ってはいない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。(前掲載から引用)

近々新たな如来が出現するかもしれません。楽しみです。


北海道の読者からの電話

昨日は北海道のこのブログの読者から初めて電話を頂きました。

午前中2時間ほどいろいろなお話をしました。ちなみに、電話料金は無料のシステムで行いました。

この前日彼からメールを頂いたのですが、そのなかに分子栄養学を提唱された三石巌先生の紹介がありましたが、その先生については知りませんでしたから、その著書「医者いらず、老いしらず」という本を取り寄せて読みました。

その本のプロローグに、M・アイゲン & R・ヴィンクラー著「自然と遊戯」という名著があると紹介されていました。この本の副題は「偶然を支配する自然法則」というものです。

実はこの本は、私が一昨年熊本を訪れたときSRKWブッダから頂いた本だったのです。そこで何かの縁を感じました。なぜならば、名著ではあっても非常にマイナーな本なので、こんな時にこの本が話題になるとは偶然です。しかし、偶然はないのです。何かの縁なのです。

ここでは一つだけ三石巌先生の言葉を引用します。「アイゲンでなくても、原始状態の死の地球の上で、分子の自己運動から生命が生まれたことに疑問をもつ科学者はいない。宗教者は生命を作ったのは神だと主張するだろう。でも私は生命を作ったのは自然の自己運動だという。そして、自然の自己運動に主宰者がいるというのなら、それを『神』としたらよかろう。というのが私の考え方である。」

この考え方に私(法津如来)も同感です。

次は話の本題に入りますが、それは明日書きます。


雨ニモマケズ

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ


*法津如来のコメント

これは皆さまもご存知の宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩です。

私は、中学2年生の国語の教科書で知りました。

その頃私の両親は離婚し、他人を思いやるというような心の余裕のない時期でしたので、

なぜ「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」かどうしてもわからず、先生に質問しました。

その回答は覚えていません。

しかし、今はよくわかります。

皆さまも、この詩との出会いは覚えているでしょう。

その時、何を感じたのでしょうか?

今はどう思いますか?


「まことでないもの」と「まことであるもの」

今日はダンマパダから次の偈を引用します。

11 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。

12 まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。

この11偈と12偈で述べられていることは、少し順序立てて考えればわかることであり、その通りだとわかるでしょう。

しかし、この世の中には、まことではないものを、まことであると明らかに知りつつも、自分の欲や保身から、または義理人情にこじつけて、まことではないものを、まことであると見なす人々が少なからずいます。

これは論外ですが、まこと(真実)でないか、まこと(真実)であるか、自分で確かめずに人の判断や噂(マスコミ)に従って行動する人々も多いのです。

これでは、真実(まこと)に達しないのです。

今回、3回の石法如来の特別寄稿の内容は、自分で判断する材料を提供してくださいました。

新型コロナやそのワクチンに限らず、真実であるか、真実でないか確かめるべきことはたくさんあります。

自ら調べ、自ら考えるべきなのです。覚りへの道はそれが基礎になるのです。



石法如来の特別寄稿:今そこにある危機(究極のリスク管理)その3

 この記事は、コロナワクチンを主題に(その2)で終了させる予定でしたが、記事を書いている最中に松田学対談シリーズ「大橋 眞先生 登場」の動画を拝見し、内容が重要でしたので記事を追加することにしました。
 
今、日本中で話題になっている新型コロナワクチンですが、特定のウイルスだけに反応し自分自身の保有する「自然抗体・非特異性抗体」をも打ち負かします。」という話に触れ、昔学んだことのある「エイズ(HIV)ウィルス」のことを思い出しました。
 
エイズとは「後天性免疫不全症候群」のことで、「ヒト免疫不全ウイルス(HIV)が免疫細胞に感染し、免疫細胞を破壊して後天的に免疫不全を起こす疾患」(以上、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」から引用)ですが、本来人間が持っている免役システムが破壊されるという部分が、新型コロナワクチンと共通しているようです。                                       
 
何より、存在も定かではない新型コロナウィルスから、どの様にしてワクチンを作成・完成させたのでしょうか?・・・どうやら、机上の遺伝子情報に基づき研究・作成されている模様ですが、このコロナ騒動は疑惑満載のパンデミックといえます。                     
 
私は、4月の投稿記事「不安症候群(シンドローム)を乗り越える。(その3)」において、「万一、PCR検査で陽性判定が出ると入院となり、濃密な(過剰な?)治療を受け強力な薬剤を使用することによる、サイトカインストームが起こることも考えられます。
                         
サイトカインストームとは、「薬剤が免疫関連細胞である単球、マクロファージと結合することにより、T細胞が活性化してサイトカインを放出することでこの症状は起きます。」(国際幹細胞普及機構「コロナの怖さ、サイトカインストーム(免疫システムの暴走)とは?」から引用)と書きました。 
            
その様に書いたのは、新型コロナウイルスの実在が確定されていないのに、なぜこれ程多くの「死者や重症者が出るのだろう?」という疑問が出発点でした。自分自身が到達した答えは、入院以後の濃密な治療にこそ原因があり、それがサイトカインストームという免疫暴走に繋がったのでは?という仮説です。
 
今回紹介する、参考動画の中に徳島大学名誉教授の大橋 眞先生が登場しますが、それらのことについて答えられております。
PCR検査において陽性判定が出ると、感染者として入院させられる=「病気が人工的に作られる」のであり、そこで「抗ウィルス薬の投与」を受けることになるのですが、「抗ウィルス薬」は「抗がん剤」と同じで毒性が強く患者の身体にダメージを与える・・・と。
 
人工的に作られた病気により、当然亡くなる方も重症化する方も出て来ます。現在の状況において、不安な気持ちは理解出来ますが安易にPCR検査を受けると、病人にされる危険性があると警告されています。
 
ここは、仏道修行と同様「どこまでも自分自身(の免疫力)」を信じることこそが大切です。
 
参考動画の紹介
 
https://www.youtube.com/watch?v=lS5sdAVHJEc
松田学対談シリーズ・・・「大橋 眞先生 登場」
ゲスト:徳島大学名誉教授・大橋 眞氏
 
http://okada-masahiko.sakura.ne.jp/                
新型コロナのエビデンス・・・(文章解説)      
岡田正彦 : 新潟大学名誉教授(医学博士)    
                                               
https://www.youtube.com/watch?v=SW-HX4LvK8c
【10分でゆっくり解説】PCRは、RNAウイルスの検査に使ってはならない|著者大橋 眞
 
この連載記事は、(その3)で終了です。


石法如来の特別寄稿:今そこにある危機(究極のリスク管理)その2

人間が人間として、日常生活を難なく過ごせるのは自分自身の中に、先祖から受け継いだ免疫システムがきちんと備わっているからです。
それが、新型コロナウイルスワクチンの接種により、「人工的・特異的・永続的抗体」が体内に留まり、自分自身の「自然抗体・非特異性抗体」をも打ち負かしてしまうと危惧されています。
 
自然抗体・非特異性抗体が廃れると、エイズと同じように軽度な病気にも罹患しやすくなり、なおかつ重症化しやすくなり時に命を失います。
またそのワクチンは、武漢で流行った初期のコロナウィルスに対して開発されたもので、変異株には対応しておりません。普通に考えると、変異株が出現するたびにワクチンを接種せねばならず、ウィルスと人間との果てしない「イタチごっこ」が始まると想像出来ます。
 
何より、武漢で発生したとされる新型コロナウィルスですが、きちんとその存在を確定されている訳ではないという説が専らです。(参考動画:西脇俊二医師の【緊急事態宣言特番】参考のこと。)
新型コロナウィルスに関して、訴訟が起きているという記事が出ていましたので紹介致します。(以下、記事参考)
 
「カリフォルニア南部の研究所の臨床科学者および免疫学者-ウイルス学者(デレク・ナウス博士と博士の研究チーム)、そして7つの大学の同僚は、大規模な詐欺でCDC(アメリカ疾病予防管理センター)を訴えています。
 
その理由ですが、新型コロナウイルスの「陽性」と判定された1500人のサンプルから、新型コロナウイルスを1つも見つけることができなかったからです。
 
1500人のサンプルのほとんどは、ただのインフルエンザA型で、インフルエンザB型も少し含まれていました。このことは、他の科学者たちが以前に発見したことと一致しています。私達科学者も、他の科学者の以前の発見について、これまでに何度か支持をしてきました。
 
デレク・ナウス博士と研究チームは、1500個の陽性と思われるCovid-19サンプルを「コッホの原則」にかけ、SEM(電子顕微鏡)下に置いたところ、1500個のサンプルすべてに新型コロナウイルスは見つかりませんでした。1500のサンプルはすべて、主にインフルエンザAと一部のインフルエンザBでしたが、新型コロナウイルスの症例はありませんでした。私達は、PCR検査は使用しませんでした。
 
《PCR検査は、感染症には使えない検査であると、発明者のキャリー・マリス博士(故人)は、おっしゃっていました。》(以上、「GREATREJECTさんのサイト」(2021.4.11の投稿記事から引用)
 
実在もはっきりしない新型コロナウィルス?なるものに、全世界の人々が振り回されているのです。
 
参考動画の紹介
 
https://www.youtube.com/watch?v=jsY_W7tPDIk
【緊急事態宣言特番】情報弱者よ今こそ立ち上がれ! メディアが報じない新型コロナの真実 
ハタイクリニック院長(目黒区)西脇俊二医師                                        
 
https://odysee.com/@jimakudaio:9/HighWire%EF%BC%9A%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3%E6%83%A8%E5%8A%87%E3%81%8C%E9%96%93%E8%BF%91%E3%81%AB(%E5%AD%97%E5%B9%95%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E7%89%88):5
「新型コロナワクチンは人間のすべての免疫能力を破壊して人を死に導く」(英語版(字幕付き))
 

石法如来の特別寄稿:今そこにある危機(究極のリスク管理)その1

私は、決して自慢するわけではなく「リスク管理」に敏感です。自分や家族の現在・未来に、どのようなリスクが存在するのか?を見きわめようとする習性があります。
「それが、どうしてそうなのか?」、自分自身にもよく理解出来ない部分がありますが、もしかしたら生まれ育った場所が厳寒の北国であったせいかも知れません。
 
私の住む釧路は、北海道の東端に近く冬は雪が少ないですが寒さは厳しいです。勿論、もっと寒い地域はありますが、冬期間屋外に長時間いたら凍死するのに十分なくらい寒いです。
その様な環境下、私の親たちは長い冬を生き残るため、蓄えを万全にして過ごしました。
 
現在は、燃料も食料もしっかり準備できる環境にあり、厳格にリスク管理しなくても問題なく生活出来ますが、本来厳寒の北海道で過ごすには多方面にわたるリスク管理が必要なのです。
 
私は、仏道修行で「覚り=解脱」を目指すのも、究極のリスク管理ではないかと考えます。誰でも、自分の未来に暗雲が立ちこめていて欲しくないからです。
人間、生きるということは「一寸先は闇」でもあるわけですから、その闇を振り払い無事に人生を全うしたい。その様な密かな願いのなかに、仏道修行は存在するのです。
 
今回の主題は、コロナワクチンに関することですが、「ワクチンによって免疫機能は破壊される。」という記事と動画を見て、人生70年生きて来て最大のリスクと感じたので記事を書くことにしました。
 
人間は常日頃、健康で人間らしく生活出来てこそ人間であり、仏道修行をする意味も意義も見出すことが出来ます。でも、健康を損ねて自分らしい生き方が出来なくなったら、仏道修行どころではありません。
 
以前高橋徳(たかはしとく)先生が、紹介した動画の中でコロナワクチンを打つということは、「効くとか効かないとかではなく、生きるか死ぬかです。」と言っていた言葉を思い出します。(その動画は、すでに削除されています。)
今回の、ギアート・バンデン・ボッシェ博士の話はとても重要です。(以下、記事から引用)
 
「ギアート・バンデン・ボッシェ博士(Dr. Geert VandenBosch PHD.)はワクチンの推進者で、「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」に在籍していたこともあります。
新型コロナウイルスのワクチンは、「永続的抗体」(long-lived antibodies)です。これは、人間が生まれながらに持っている「自然抗体・非特異性抗体」を打ち負かします。
 
お父さん、お母さんから譲り受けた「自然抗体・非特異性抗体」は、守備範囲が広い抗体です。本来の自然免疫システムは、すばらしい仕組みです。
 
新型コロナウイルスのワクチンを接種してしまうと、体内に「人工的・特異的・永続的な抗体」が作られます。薬の成分なら、体外に排出されることはあっても、ワクチンの成分は、永続的に体内に留まります。体外に排出する方法は、ありません。
 
「人工的・特異的・永続的抗体」は、特定のウイルスだけに反応します。そして、永続的に体内に残り、「自然抗体・非特異性抗体」をも打ち負かします。」(以上、引用終わり)
 
新型コロナウィルスの脅威から逃れようと、ワクチン接種に走る気持ちも理解出来ますが、科学者の警告には真摯に耳を傾ける価値があります。
 
参考動画の紹介
 
https://ichisaburo.com/1126/
ワクチンによって免疫機能は破壊される。
※本文の後半に、動画があります。
 
https://www.youtube.com/watch?v=4J5chcXmfR4                                             
あなたの知らないコロナワクチン 岡田正彦 新潟大学医学部名誉教授                        
テレビだけを見ている人は絶対に知らない事実・・・。                                       
 

輪廻について(続き)

今回は、SRKWブッダ著「ブッダの世界観」より、「古典的輪廻説」を引用します。

(以下引用)
この世の真相を明らかにするという観点からは、輪廻について語らないわけにはいか ないであろう。しかしながら、この世で修行し、完成させて、覚りに達するという観点で 言えば輪廻について語る必要は無いこととなる。

折衷して、覚りに向けた修行と輪廻との関係性について語るということを履行するな らば、それは解脱知見に関することがらとして述べることになるだろう。

さて、覚りには大きく四つの階梯があると古典的仏教観では説かれる。すなわち、預 流、一来、不還、および阿羅漢である。このうちの不還および阿羅漢は二度とこの苦悩の 世には戻ってこない覚りであると言う。また、一来は一度だけこの世に戻って解脱を果 たしその後は戻ってこないことが確定している覚りの階梯である。そして、実際にこれ らの階梯に達した人は、自分自身そのことを覚知すると信じられている。

確かに、これらの階梯に達した人はそれが修行の結果として得た階梯であり、人が予め これらの階梯に達した状態でこの世に生まれ出ることなどあり得ないことだと了知して いる。そして、その認知ゆえに輪廻が仮に実在するとしても自分は決してこの世には戻っ てこないことを――一来は一度だけ戻ってくるであろうことを――確信するわけである。
ただし、覚りの階梯に達した修行者といえども輪廻の実在を実感しているわけではな い。何となれば、過去世を想い出したりすることはなく、死後の行き先が見えたりするわ けでもないからである。

実際のところ、自分が死して後に赴くことになるであろうこの世とは別の界の実在は、 この世にこの世ならぬ法の句が出現することによってのみ推認されることである。すな わち、この世には存在しないと確信される法の句が実際に世に出現するという事実を鑑 みて、その出自としてこの世ならぬ別の界の存在が強く示唆されるという構図だからで ある。

また、複数の法の句の内容を吟味することで、法の句の出自たる界(法界と名付けられ る)は、やさしさに満ちた界であって悪がまったく存在しないと考えられ得る。そこで、 法界を諸仏の住み処とも呼ぶのである。

しかしながら、これだけの事由で法界の実在や慧解脱者たるブッダの死後の行き先が 法界であることを断定することはできないであろう。実際、近代における学問の発展や 技術の発達によって地球が太陽系や宇宙の中でどのように位置づけられるのかというこ とが学術的にも撮影された映像としても捉えられて来ているからである。そして、天空 に彼方に目に見える形で天界や法界があるわけでは無く、また地面のずっと下に地獄が 存在しているわけでも無いことは明白な事実となったわけである。

以上のことから、輪廻説は再考されなければなるまい。その具体的なことについては、 次章で詳しく説明したい。
(以上引用)

輪廻について

先ほど掲載した「『輪廻』という幻(イメージ)その6」をもって、石法如来の「輪廻」は幻でありこころで描くイメージにしか過ぎないという見解の解説はおわりました。

そこで、私もこの見解を踏まえて、少し私の見解も述べておきます。

その前に、SRKWブッダはその著書「ブッダの世界観」の中で、「古典的輪廻説」「輪廻説の取り下げ」「寂滅論の提起」についておられることをお知らせします。それについては、後日このブログでも紹介しましよう。

さて、ほとんどの宗教は死後の世界について述べております。

そのために、世界の多くの人々は何らかの形で死後の世界があると集団無意識に刷り込まれているでしょう。

たとえ、強固な唯物論者といえども、彼らが死後の世界はないと言えば言うほど、彼らの潜在意識にその存在が刷り込まれていくでしょう。

輪廻は幻(イメージ)と考えると、輪廻はあることになります。

イメージの世界はなんでもありですから。

そうすると、輪廻は本当に幻(イメージ)なのでしょうか?

それが問題になります。

そこで私も、輪廻は幻(イメージ)だという見解です。

今日はここまでにしておきます。

石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その6

私は、今回の記事(その1)で次のように書きました。
                                   
「因縁とは、ある意味曖昧さのある難しい言葉ですが、そこでは先祖から受け継いだものと前世から受け継いだもの、の二方向を想定して阿含宗では教えを説いていました。
普通に考えたら、今生きている自分という存在は先祖から影響を受けているという事実は疑いようもありません。しかし桐山氏は、先祖から受け継いだ影響を縦軸の線と考え、更にもう一方横軸の線を想定し説いたのです。
 
その横軸の線こそ、過去世から現世・未来世へと永遠に続くいわゆる「輪廻」であるとし、この縦線(先祖からの影響力)と横線(輪廻による影響力)の交点に「自分」というものが存在すると説いたのですが、なかなか面白い説です。」と・・・。                                              
 
そして、私が注目したのはウィルスの働きです。それは、「親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。」という部分です。
 
そこで、ウィルスとは何か?という問題になりますが・・・。(以下、福岡氏のネット記事引用)
「ウイルスとは電子顕微鏡でしか見ることのできない極小の粒子であり、生物と無生物のあいだに漂う奇妙な存在だ。生命を「自己複製を唯一無二の目的とするシステムである」と利己的遺伝子論的に定義すれば、自らのコピーを増やし続けるウイルスは、とりもなおさず生命体と呼べるだろう。
 
しかし生命をもうひとつ別の視点から定義すれば、そう簡単な話にはならない。それは生命を、絶えず自らを壊しつつ、常に作り替えて、あやうい一回性のバランスの上にたつ動的なシステムである、と定義する見方・・・つまり、動的平衡の生命観に立てば・・・、代謝も呼吸も自己破壊もないウイルスは生物とは呼べないことになる。しかしウイルスは単なる無生物でもない。ウイルスの振る舞いをよく見ると、ウイルスは自己複製だけしている利己的な存在ではない。むしろウイルスは利他的な存在である。」(以上、福岡氏の記事引用終わり。)
 
私は、生物学は全くの素人なので何とも言えませんが、「輪廻」に繋がる面白い文章だと感じたのです。インド発の「輪廻」という思想も、生物学的要素が絡んでいても何ら不思議はありませんが、生命活動に関しては「神秘」(しんぴ)としか言いようがありません。
 
丁度、昨今のパンデミック騒ぎでウィルスの働きが着目されていますが、大阪市立大学名誉教授の井上正康氏は「身体の遺伝子の3割以上はウィルス」であり、「ウィルスと大腸菌なくしては人間は存在しない」とまで申しております。
未来において、生命の神秘が解き明かされる日が来たなら、「輪廻とは何か?」という問題も解明される可能性があります。                                 
 
輪廻があると仮定して、その最終到達点は何か?という問題もあります。
私は、今回の記事の(その3)で一つの経典の言葉を引用しました。『物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』(『スッタニパータ』七五三偈)という言葉です。
 
その経典には続きがあります。                     
『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』(『スッタニパータ』七五三偈)という言葉です。そして・・・。
「物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの生存に戻ってくる。しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。」(『スッタニパータ』七五四・七五五偈)と。
 
仏教で「無我」(あるいは非我)の思想を説く以上、「常見(じょうけん・アートマン(自我:霊魂)は永遠に続くもので不滅であるとする見解)」はあり得ません。
仮に、「断見(だんけん・人が一度死ねば断滅して二度と生まれることはないという見解)」であるとしても、生存?の繋がりを証明することは不可能です。
 
「断見」の説における「生存?に繋がる連鎖」の表現法は、古来から伝わる「同じものでもなく、かつ異なったものでもない」となり、現実的には何を言っているのか理解出来ないことになります。
 
「輪廻」に対する私自身の見解は、今回記事に書いた通りですが、本来「覚り」に直接関係がなく特段感心がないというのが正直なところです。
この世を去ったのち解脱者(覚者)の行方は、すでに「涅槃(ねはん・ニルヴァーナ)」に入っているわけですから、古来から説かれる「滅(めつ・寂滅・寂静・(消滅))」という表現は適当といえます。
 
今回の連載記事は、(その6)で終了です。


*法津如来のコメント

今回の連載記事は、(その6)で終了ということですから、私も輪廻についての見解を本日の次のブログ記事で書いてみます。

どのように語るべきか

昨日は才木さん、青木さんコメントありがとうございます。

さて、今日は「ブッダのことば(スッタニパータ)」(岩波文庫)から、どのよう語るべきかを示す偈を引用します。

451 自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。
これこそ実に善く説かれたことばなのである。

452 好ましいことばのみを語れ。その言葉は人々に歓び迎えられることばである。
感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。

自分を苦しめる言葉とは、どのような言葉でしょうか?

自分が言いたくない言葉でしょう。自分の本心と異なる言葉です。

しかし、自分の言いたいことを言ってもいいでしょうか?

そうではありません。相手が言われたくない言葉を言ってはいけないのです。

それが、「自分を苦しめず、また他人を害しないことば」です。

そうすれば、「それは好ましいことば」になるのです。

そのようなことばは人々に歓び迎えられるのです。

しかし、実際にはそのように話すことはなかなか難しいことです。

覚りを目指す修行者にとって、そのように心掛けることは立派な修行になります。

たえず自分の本心に気づき、他人の気持ちを思いやる心構えが必要だからです。

以前、これらの偈について、次のアドレスで解説しましたが、多少は参考になるかもしれません。

https://76263383.at.webry.info/201405/article_8.html

https://76263383.at.webry.info/201405/article_9.html


石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その5

前回の記事で紹介した経典は、『雑阿含経』巻第12(三0一))に説かれているものです。内容的には、「中道」(ちゅうどう)の教えといわれ初転法輪において五人の比丘(出家僧)に、「愛欲快楽を求めるということ・自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ」の二つの極端に近づいてはならないことを教えたものとされています。
 
中道の教えには、その他に2つのものの対立を離れていることとして「断・常の二見」、あるいは「有・無の二辺」を離れた不偏にして中正なる道を説いています。
 
紹介した経典は、「断・常の二見」について説かれたものです。
断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解です。
常見(じょうけん)とは、仏教用語で、「アートマン(自我:霊魂)」は永遠に続くもので不滅であるとする見解のことです。
 
「輪廻」というものを考えた場合、私は「断見」の「人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解」に注目しました。
たしかに、すべて断滅するなら次の生存(存在)に対し何らかのバトンタッチが出来ないからです。最も、その問題は釈尊にすれば「無記」(むき・ある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う)に該当する事柄です。
 
以下の部分は全くの個人的見解ですが、昨年面白い記事を目にしました。それは、法津如来が投稿された「ウィルスは敵ではない」(2020年4月6日)という朝日新聞のネット記事です。
少し長いですが引用します。(以下、記事引用)
 
「今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。まず、ウイルス表面のたんぱく質が、細胞側にある血圧の調整に関わるたんぱく質と強力に結合する。これは偶然にも思えるが、ウイルスたんぱく質と宿主たんぱく質とにはもともと友だち関係があったとも解釈できる。
 
それだけではない。さらに細胞膜に存在する宿主のたんぱく質分解酵素が、ウイルスたんぱく質に近づいてきて、これを特別な位置で切断する。するとその断端が指先のようにするすると伸びて、ウイルスの殻と宿主の細胞膜とを巧みにたぐりよせて融合させ、ウイルスの内部の遺伝物質を細胞内に注入する。かくしてウイルスは宿主の細胞内に感染するわけだが、それは宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動をした結果である。
 
これはいったいどういうことだろうか。問いはウイルスの起源について思いをはせると自(おの)ずと解けてくる。ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。
 
親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。
それゆえにウイルスという存在が進化のプロセスで温存されたのだ。おそらく宿主に全く気づかれることなく、行き来を繰り返し、さまようウイルスは数多く存在していることだろう。
 
その運動はときに宿主に病気をもたらし、死をもたらすこともありうる。しかし、それにもまして遺伝情報の水平移動は生命系全体の利他的なツールとして、情報の交換と包摂に役立っていった。」(「ウイルスは撲滅できない」福岡伸一さんが語る動的平衡)(以上、引用終わり)
 
私が注目したのは、「親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。」という部分です。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。

本文中に「法津如来が投稿された「ウィルスは敵ではない」(2020年4月6日)という朝日新聞のネット記事です。」とありますが、このブログへの投稿ではありません。


言葉にこだわること

昨日、悪魔パピーマンの考えている幸福とゴータマ・ブッダが考えている幸福の違いについて述べました。

同じ幸福という言葉を使っても、人によってその内容が異なるのです。

また、こだわるという言葉も肯定的に使う人も否定的に使う人もいるのです。

ですから、他人の使う言葉の意味は、自分の思っている意味は違うかもしれないと考える必要があります。

自分の思っているように他人が理解するとは限らないのです。

言葉にこだわると他人と対立します。最悪の場合は争いが起こるのです。

私がこのことを知ったのは、かなり大人になってからなのです。

例えば、かなり昔ですが、私は「スナック」は小さな喫茶店くらいの意味だと思っていましたが、友人はお酒を出す店と思っていたのです。

それで言い争いをして、喧嘩になりました。

しかし、その争いは言葉にこだわったからだとは理解していませんでした。

言葉にこだわって争いが起こるのだと理解するまでは、長い時間がかかりました。

この考えを延長させると、人は一人ひとり皆違った人間であり、それぞれ違った思い考えを持っているのです。

ですから、話す言葉も自分と違った意味で話しているかもしれないと思った方がよいのです。

話し言葉でもそうですが、書かれた言葉についても同様です。

自分の思い込みで文章を読んでも、正しく理解できません。


幸福について

昨日、幸福を知らないことについて書きました。

今日は「幸福とは何か?」について、一般人代表として悪魔パーピマンの言葉と賢者代表としてゴータマ・ブッダの言葉を引用します。

悪魔パービマンがいった、「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著するもとのものは喜びである。執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。」
https://76263383.at.webry.info/201305/article_3.html

師は答えた、「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」
https://76263383.at.webry.info/201305/article_4.html

(中村元訳 岩波文庫「ブッダのことば(スッタニパータ)」第1章2ダニヤ33偈、34偈より引用)

悪魔パーピマンは、執著するもとのもののない人は実に喜ぶことがないと言い、喜びが幸福であると言っているのです。

一方、ゴータマ・ブッダは、執著するもとのもののない人は、憂うることがないと言い、憂うることがないことが幸福であると言っているのです。

どちらが正しいかはあなたが検証する他はありません。

その上でどちらかを取るかはあなたの自由です。


石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その4

グレイソン氏にとって最も驚くべき発見だったのは、臨死体験がその体験者達の人生に強い影響を与えていることでした。

「私の精神科医としての本業は、人々の生き方を変える手助けをすることです。生き方を変えるというのは簡単なことではありません。でも、ものの数秒で、人の考え方、価値観、信念、行動を劇的に変えてしまう体験が存在するのだと分かりました」と彼は言います。

この変化が、何十年にもわたって持続することもよくある。ほとんどの場合、「体験者はもはや死に対する怖れはないと悟る。」それはその人の生き方に重大な影響を与えるようです。(記事の抜粋終わり)

私は、この記事を読んでかつて書いた私自身の記事「存在・・・そして慈悲(やさしい)」(2020年2月20日)を思い出しました。そこでは、過去に行っていた瞑想行での体験を書いていたのです。(以下、文書抜粋)

私は61歳から、本格的に瞑想と称する修行を始めましたが全くの自己流です。難しいことは一切おこなわず、ただ坐り呼吸に意識を集中し「深い意識の世界」を目指しました。2年ほど経過したとき、突然地球の成層圏を突き抜けるような感覚を得て、とても静かな世界に到達しました。(深い世界(下向き)を目指したのに、地球を突き抜ける(上向き)とは誠に不思議なことなのですが・・・)

そこは、呼吸の必要もないほど静かで広大な何も無い世界です。そこに感じられるのは、「とても柔らかな慈悲(やさしい)のながれ」があるだけです。それは、「独り子を静かに優しく包みこんで守り育てるようとする母親のこころ」に似たほんのり温かな感覚で、その慈愛に満ちた静かな流れは、とても心地よく感じられました。
その感覚に触れて私は直感したのです。存在とは「慈悲(やさしい)そのものである」と。(以上、抜粋終了)

臨死体験と瞑想の行とは、それが起こる条件がまるで違うようですが内容は似ています。・・・ケンタッキー大学神経科医のネルソン氏はこう言いました。
「臨死体験とは「身体的あるいは心理的に大きな危機が迫ったときに起こる、覚醒状態とレム睡眠の状態という二つの意識状態が混ざったもの」だと考え、多くの臨死体験は「夢のよう」であり、神経学的に言えば「ボーダーランド」(二つの状態が重なりあう部分)で起こっている」と・・・。

要は、臨死体験で「死の怖れを超越」するか瞑想の行で「慈悲の世界」を感じるかの違いですが、不安を払拭し安楽の世界に導くという意味では共通しています。
私は自分自身の記事の中で、一つの経典の言葉を引用しました。『物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』(『スッタニパータ』七五三偈)という言葉です。

この記事のテーマである「輪廻」というものを考えた場合、私の瞑想体験では「私・あなた」などの人物は登場しません。(これは、臨死体験の場合と比較できませんが)しかし、静かでゆっくりとした、大きな平安なるある流れを感じておりました。それは、物質的な形のある世界ではなく、非物質的で形のない世界においてです。

衆生の大きな錯誤は、天国や極楽や地獄などと言う、あたかもこの世と同じ形ある世界が存在するかのような錯覚を持つことです。仮に輪廻に繋がる何か?が存在するにしても、形があるのは物質的領域だけなのです。


私は今、「輪廻」は幻でありこころで描くイメージにしか過ぎないということで記事を書いていますが、釈尊の説かれた経典に興味深い教えがあります。

それは、「世間の集を実の如く正しく知見せば、もし世間無しとする者は有らず。世間の滅を実の如く正しく知見せば、もし世間有りとする者は有ること無ければなり、これを二辺を離れて中道を説くと名ずく。」(『雑阿含経』巻第12(三0一))と。

現代語訳「世間の苦しみの起こる原因(集)を正しく智慧によって見るならば、世界は無常可変であり、人が死ねば後に何も残らないとする考え(断見)はあり得ない。また、世間の消失(滅)を正しく智慧によって見るならば、世界は常住であり人が死んでもその霊魂は不滅であるとする考え(常見)はあり得ない。この極端な二つの考えを捨て、中道を説く」という経典です。


*法津如来のコメント

本日2回目の更新です。

今回の特別寄稿にもいろいろな話題が語られていますが、石法如来が伝えたいことは、「輪廻」は幻でありこころで描くイメージにしか過ぎないということです。


固定的な修行法など何一つ存在していない

ゴータマ・ブッダはダンマパダ271偈、272偈で次のように説かれております。

「わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。 」(中村元訳)

また、SRKWブッダは「仏道の真実++」のなかで次のように述べておられます。
https://76263383.at.webry.info/202009/article_13.html

「繰り返しになるが、この世にはニルヴァーナに至るための固定的な修行法など何一つ存在していない。したがって、読者が本書で具体的な修行法を学びたいと思っているのであるならば、その期待には応えることはできない。」

このように言われると、それならば「どうしたらいいですか?」と言いたくなるでしょう。

多くの修行者は、具体的な修行法を知りたがるのです。

確かにそのように思うのは無理はないのですが、その発想が真実の探求にとっては逆方向なのです。

例えば、幸福になりたいと思う人はどうしたら幸福になれるか知りたがります。

その方法を知りたがるのです。

しかし、その人は幸福が何か知らないのです。

その人は、お金持ちになることが幸福になることだと思って、お金持ちになる方法を知りたがるのです。

しかし、お金持ちになる方法を知って、お金持ちになったとしても、その人は幸福になれるでしょうか?

お金になっても、苦労が増えるだけで、幸福にはなれないことを知るでしょう。

修行者は、方法を求めるのではなく、自分の求めるものは何か明確に知るべきです。

それで瞑想が必要だと思うならば、目的を忘れずに瞑想をやってみるのもよいでしょう。

繰り返しますが、瞑想をすれば覚れるというものではないのです。


第二の脳や第三の脳

昨日は、爬虫類脳(反射脳)、哺乳類脳(情動脳)、人間脳(理性脳)の相互作用で働くとするというポール・マクリーンの「三位一体脳モデル」の名称だけを紹介しました。

爬虫類脳(反射脳)は、脳幹であり、生命維持のための機能を司っています。
哺乳類脳(情動脳)は、大脳辺縁系であり、衝動的な感情を司っています。
人間脳(理性脳)は、大脳新皮質であり、論理的な思考を司っています。

ポール・マクリーンの説については、以上にしておきます。

仏教では、心を受蘊(感覚)・想蘊(想念)・行蘊(潜在意識)・識蘊(認識)および眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)・意識(意覚)に分析しています。

これらの心(意識)は、脳のいろいろな部分の機能と結びついて働いでいます。しかし、脳とだけ結びついてるわけではありません。

例えば、腸は脳からの指令がなくとも自分で働く腸神経系があり、第二の脳であるといわれています。
https://tabi-labo.com/276137/second-brain

また、皮膚は第三の脳などと言われるように、心(意識)は脳に限定して存在しているわけではないのです。面白いことに発生学的に見ると、脳と皮膚は同じ外胚葉からできてものです。
http://lifedesign.ne.jp/?p=3731

これらの知識は省察や観(=止観)の修行に役に立ちますが、これらの知識にこだると、真実の探求の妨げになります。その辺が修行の難しいところです。


脳と心(意識)について

今朝の新聞の折り込み広告に「60代。あなたは『元気脳ですか?」と書いてありました。

もう少し読むと「意外と知られていませんが、脳は水分を除くと約6割がアブラでできていて、このアブラが脳を柔らかく保つことで情報の伝達をスムーズにし、アタマの回転や前向きな気分を維持しているのです。」と書いてあります。

しかし、そのまま信用してはいけません。「脳は水分を除くと」とありますが、水分は7割が水ですから、水分の補給こそ大切なのです。

それはともかくとして、今日は意識と脳の関係について考えてみます。

まずはじめのテーマは、脳が先か心(意識)が先かです。

つまり、折り込み広告の考え方は、脳の成分が心を作っていると思っているようです。

しかし、脳はコンピュータに例えると単なるハードであり、ソフトがなければ動きません。

さらに、それらを動かす意思が必要なのです。

そのように考えると、心(意識)が先であると考えられます。

しかし、脳の研究は重要です。

心(意識)は姿形が見えないために、理解しにくいのです。

しかし、心(意識)は物質世界に作用するためには、脳や神経を通じて作用しています。

そのために、脳や神経の構造や機能の研究は心(意識)の構造や機能を理解するために役に立ちます。

「三つの脳の進化」という本があります。この本は人間の脳は長い生物進化の歴史を内臓し、爬虫類脳(反射脳)、哺乳類脳(情動脳)、人間脳(理性脳)の相互作用で働くとするというポール・マクリーンの「三位一体脳モデル」です。

この説は1990年代に発表されましたが、2000年代に批判されたそうですが、大筋では納得いくものです。

参考になるネットの記事は次の通りです。
https://swingroot.com/triune-brain/

明日はこの説について、もう少し説明します。

石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その3

釈尊という方は極めてリアリストであり、この世の現実をあるがままに観て現実に即した理法を説かれた方であると書きました。
しかしこの世を見渡してみると、衆生が感心あるのは死んだ後どの様な世界に赴くのだろう?という疑問と不安に基づく問いです。当然そこには、霊的な存在の問題があります。

霊的な存在に関して、仏教の教えとは本来全く関係が無いのですが、世間の感心はまるで違います。かつて私が所属していた阿含宗では、「霊障」(れいしょう・霊の障り)の実在を説き「霊障解脱」(れいしょうげだつ)なる修法(しゅうほう)により資金集めをしておりました。
人間という存在は、見えない世界に対し恐怖心を持つものであり、その恐怖心に「霊的な力」が及ぶとそれを「障り」(さわり)と捉え怖れます。

最近、インターネットの動画で「アメリカがいよいよUFO(未確認飛行物体)の情報開示」を行うという情報を目にしました。その中に、「全宇宙の95%は謎」という言葉があり、認識出来る知識以外の現象は知識の外側にあると語っていたのが印象的です。

私達は、非常に狭い範囲の認識世界に生きているという事実がよく理解出来ます。だから、釈尊の説かれた「一切」の教えの中で、この現象世界における問題を現実的に捉え・考え、人間が認識出来る範囲のことを説かれた意味が理解・納得出来るわけです。

阿含宗と霊の関係を少し述べましたが、私の阿含宗在会末期に「独鈷の加持」(とっこのかじ・ 密教で用いる法具を使っての加持祈祷)なる法の伝授がありました。
私は興味がないので受講しませんでしたが、どうやらこれは霊的エネルギーに反応する密教の法らしく、旧知の先輩が受講しました。

退会後、伝え聞いたのはその先輩が「精神的におかしくなった」という話です。霊的エネルギーの存在を全く信じないわけではありませんが、霊的世界に下手に関わるとマイナスの障害を受けることがあるのです。

世間一般、身近に存在するのは低次元の精神・感情エネルギーの残骸ばかりです。例えば、「恨み・憎しみ・苦しみ・悲しみ・強い欲望・執着心」などなど・・・。その様な精神作用を、保持したままこの世を去ると成仏できない(不成仏霊)と古来から語られます。
マイナスのエネルギーに関わると、自分自身の精神も落ち込み場合により回復困難な状態になることもあり得るというのは、先輩の例を見れば明らかです。

奇しくも、この記事を書いている日の前日(2021年4月18日)ヤフーニュースに、「”臨死体験”を50年研究した今、「生命には肉体以外の何かがあると確信しています」」という記事が掲載されました。(以下、参考に抜粋)

アメリカ・バージニア大学の名誉教授で精神科医のブルース・グレイソン氏は臨死体験について人々と対話を重ねて来たという話題です。

麻酔の副作用に見舞われたある患者は、自分の臨死体験について「見たこともない、この世のものとは思えないような、荘厳かつ輝かしい光で照らされていて、草の一本一本も内部に柔らかな火が灯っているように輝いていました」と語ったそうです。
体験談のほとんどに、これと似たような「不思議と心が晴れる至福の感覚」が含まれているとグレイソン氏は言います。

また、私達は三次元で生きているが、「自分が生死の場で見たものは、どこか次元を超越したものだった」として、表現するのは難しいと説明する人もいるようです。

ケンタッキー大学では、神経科医のケヴィン・ネルソン氏がグレイソン氏と同じく、長年にわたり臨死体験の記録をとっています。
ネルソン氏は、臨死体験とは「身体的あるいは心理的に大きな危機が迫ったときに起こる、覚醒状態とレム睡眠の状態という二つの意識状態が混ざったもの」だと考え、多くの臨死体験は「夢のよう」であり、神経学的に言えば「ボーダーランド」(二つの状態が重なりあう部分)で起こっていると論じています。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

輪廻について、難しい問題に入ってきました。

次の展開が楽しみです。

こだわりを無くすこと

個人的こだわりも集団的こだわりも潜在意識に書き込まれいますので、

こだわりを無くそうと思っただけで、なおせません。

ではどうしたらよいか?

そもそも、潜在意識に書き込まれたことは、自分では気づけないのです。

はじめは、探偵や研究者ように始めるとよいでしょう。

しかし、彼らと異なることがあります。

かれらの問題は自分の外部のことがらです。

修行者の問題は自分自身の問題なのです。

問題の原因を外部に求めるのではなく、自分自身に向けるのです。

とは言っても、その際善悪の評価をしてはいけません。そうすると真実が見えなくなります。

もっと具体的に言えば、過去の出来事を思い出して、考察するのです。

そうすると、自分なりにいろいろ思い出して、ある結論がでます。

その結論は、その人の考え方(潜在意識)が反映しています。

私は過去に、いろいろな方のそのような結論を聞いてきましたが、

私から見れば、そのように思わなくても良いのではないかということが多数あります。

それを、私が指摘しても、それはなかなか納得できないのです。

自分自身で納得しなければ意味はないのです。

それに気づくには、何かのきっかけが必要です。

その最大のものが、善知識(善友)の発する法の句です。

それにより、ある時は発心し、ある時は解脱するのです。


個人的こだわりと集団的こだわり

個人的こだわりと集団的こだわりは私の勝手な造語です。

こだわりについて考えていて、4月28日の石法如来の特別寄稿「不安症候群(シンドローム)を乗りこえる。(その2)」を思い出しました。
https://76263383.at.webry.info/202104/article_40.html

個人的こだわりや集団的こだわりはどのように形成されるのでしょうか?

幼少期の親から影響や家庭環境や個人の経験など影響が大きいでしょう。それが個人的なこだわりを形成しています。

また、今回の新型コロナにまつわる出来事は、全世界の人々の心に大きな影響を与え、集団的なこだわりを作っています。

すでに、全人類に与えた歴史的な出来事も集団的こだわりを作っていたのでしょう。

このように考えると、このブログで繰り返し述べている名称(ナーマ)と形態(ルーパ)との関連がわかりやすくなります。

名称(ナーマ)とは個人的こだわりだったのです。

また、形態(ルーパ)とは集団的こだわりだったのです。

このようなこだわりが個人と人類の自由を束縛し、苦しめているのです。

このことがわかれば、次はいかにこれらのこだわりから解放かが問題です。


時間を守ることにこだわること

こだわりについて、考えていて思い出したことがあります。

私がテーラワーダ仏教の比丘(僧侶)であった時の話の話です。

比丘はウポーサタ(布薩)というものを行います。満月の日に、ですから月に一回、地域の比丘たちが戒壇に集まって懺悔の儀式を行うのです。内容は重要な戒律と経典の読み合わせです。

ある時、ウポーサタに参加するためにスリランカ人の後輩の比丘と住んでいる寺から2時間ほど離れた東京八王子にある戒壇に出かけました。

特急電車に乗ってしばらくして腹痛になりました。トイレに行きたくなったのです。途中下車をすると、30分ほど遅刻します。どうしても我慢できなくて、後輩には先に行ってもらって私は途中下車をしました。

私は遅刻することにひどく悩みながら、戒壇に駆けつけました。

しかし、どうでしょう。まだウポーサタはまだ始まっておらず、私より遅れているスリランカの比丘たちもいたのです。私の悩みは何だったのでしょうか。

その時、私は考えました。自分が悩んでいたのは、私が勝手に時間は守らなければいけないと考えて、勝手に悩んでいたんだと。他の人たちはそんなこと何にも気にしていなかったのだと。

また、そうかと思いました。多くの悩みは自分がこうしていけない、ああしてはいけないと勝手に思い込んで、悩んでいるのだと。多くの悩みは自分の一人芝居なのだと。

心配することはないのだ。大丈夫だ。

一つ注釈をしますと、日本人は時間を守ることにこだわりすぎています。スリランカ人は集合時間があると、その時間に家をでます。時間はほとんど気にしません。ですから、他人が遅れることもあまり責めません。もっとも、最近は日本にきているスリランカ人は日本人の影響で時間を守るようになっているようです。

最近の日本では、マスクをかけることを守らなければいけないと思いすぎていて、あらそいまで起こしていることはどんなものでしょうか。

石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その2

望月海慧(もちづきかいえ)氏の「ブッダは輪廻思想を認めたのか」には、色々興味深いことが書いています。輪廻思想に関連する、解脱の問題を考えてみると「解脱というものは、輪廻からの解脱である以上、論理的に常に輪廻思想に縛られたものとなる」と言います。

釈尊の教えが、経典で説かれているように生死に代表される人間の苦しみからの解放を求めるものである限り、「輪廻思想を受容している」と認めざるを得ないとも言います。
それらの考えに基づくならば、当然輪廻から解放された存在形態(いわゆる仏(ブッダ))を目指すこと以外救いは無いことになります。

ここで望月氏は、面白い説を述べます。釈尊(ブッダ)が意図していたのは「むしろ輪廻することからの解脱ではなく、輪廻という存在形態からの解脱、すなわち輪廻という誤った存在形態にとらわれていることからの解放」なのではないかと。
そして、それこそが「輪廻の原因としての無明が明に転換」されることになるのではないかと説くのですが、なかなか面白い説です。

輪廻に関する問題はすべて、解釈する者の主観に従っており、いずれを選ぶかはすべて恣意的(主観的で自分勝手なさまを意味する表現)な問題であると語ります。
望月氏は、釈尊そのものはカルマの理論が支配的な後代の仏教思想に説かれるような輪廻思想に感心を持っていなかったとし、彼にとって最大の関心事は「現在の存在においていかに覚るか」がテーマとなっていたからであると結論づけています。

ここで江戸時代の町人学者、富永仲基の言葉が思い起こされます。彼は、主著(しゅちょ)『出定後語』第八章「神通」の中で、「俗」(ぞく)という文化特性や民族や習俗の傾向のことを語ります。
仲基は、「国に俗あり」と「インドの俗は幻を好む(神秘主義的傾向が強い)」と評しています。インド人の習俗は幻術であり、そうしないと民衆は教えを信用しないのだと述べています。

仏典にしばしば登場する神通も、神通を説くことでインドの人々に受け入れられていった。神通を説かなければなかなか受け入れられない。それが仏典に説かれる正体だと言います。
他にも、経典には幻術の話がとても多いのです。それはインド人が好むからであり、また弟子達も釈尊の言葉であると称して次々自説を立て、加上を重ねていくのも幻術であり、六道輪廻も、過去七仏も梵天勧請もすべて幻術であると述べています。

これも、なかなか面白い説です。その様な視点で経典を読むと、経典には随所に幻術がちりばめられていることがわかります。

釈尊はリアリストであると評され、この世を現実的に観て理法に基づき教えを説かれました。その代表的な教えは、「一切」(いっさい)と題されるお経に表れています。
ここで言う一切とは、「すべて」という意味ですが釈尊は「何を一切となすか?」と、課題を出されそれに自ら解答を与えていくという構成になっています。

その解答とは、「眼(げん)と色(しき)となり。耳(じ)と声(しょう)となり。鼻と香となり。舌と味となり。身と触となり。意と法となり。比丘たちよ、これを名付けて一切となす」とし、詮ずるところ眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(ろっこん)と、色・声・香・味・触・法の六境(ろくきょう)とを、それぞれに組み合わせたものにほかならないと説きます。

つまり、六根をもって表示されたる主観と、六処(ろくしょ・六つの感覚器官・眼耳鼻舌身意の六感官)として語られる客観と、その関わりにおいて成立するところの認識を語って、「これを名付けて一切となす」と結論しているのです。その結論の意味するところは、「その他には何ものも存在しない」ということです。(この項、『原初経典 阿含経』増谷文雄著・筑摩書房181頁引用・参考)

世の中には、一切とはその様なものではなく、あれもこれもあると色々説くものがあるようですが、それはただ言葉の上のことのみで実体は無いのだと説きます。
その教えを聞いただけで、釈尊とは有りもしないことを語る人では無く、極めて現実的なことを語る人であったということが理解出来るのです。


*法津のコメント

本日2回目のブログ更新です。

輪廻に関して、面白い考察が展開されています。

次回の寄稿が待ち望まれます。


「こだわり」について

こだわりには自覚しているものと無自覚なものがあります。

自覚しているこだわりは自分の価値観と結びついています。

多くの場合、そのこだわりを肯定しています。

ですから、そのこだわりを捨てようとは思っていません。

話は変わりますが、以前はこだわりは良くないものと思われていましたが、

いつ頃か、こだわりを肯定的な意味に使うようになっています。

コマーシャルにも、「味にこだわった」などという言葉がでています。

しかし、こだわりは人の自由を束縛しているのです。

こだわりのせいで、苦しんでいることに気づいていません。

こだわらなくてもいいのです。

意見の違いによる葛藤も、こだわらなければ問題になりません。

一人ひとり違うのですから、意見は違っていいのです。

こだわらなければ、対立は生まれません。

対立がなければ、平和です。

一人ひとりは自由です。

しかし、はじめに書いたように無自覚はこだわりもありますから、

自分が何かにこだわっているかも知らないために、こだわってしまうのです。

まず、自分のこだわりを知ることが大切です。

昨日も書きましたが、自分のこだわりは他人との関係においてわかるものです。

他人との人間関係を大切にしてください。


自分のこだわりに気づくことは意外に難しい

今日は5月6日(木)です。連休の中の平日。東京都中野区の外は小雨です。

さて、今日のテーマは「自分のこだわりに気づくことは意外に難しい」です。

前回、自分が公案を解くことにこだわっていたことに気づいたと書きました。

自分がこだわっていることは、自分にとってはそれが当たり前だからです。

それは当たり前でしょうと思ったときは、それが本当に当たり前であるのか、考えた方がよいのです。

しかし、そのようにはなかなか思えません。

それに、気づけるのは他者との関係である場合が多いのです。

他人との意見の違いがあったら、自分の自分の意見の正当性を主張するよりは、自分は何かこだわっていないか考えた方がよいのです。

その時、自分のこだわりに気づけます。

その意味では、自分の異なる意見を持つ他人は自分にとってありがたい存在なのです。

そのような人々は、自分にとって大切な先生なのです。

なぜならば、自分のこだわりが自分の自由を拘束して、自分を苦しめているからです。

もしかしたら、そのことはわかり難いかもしれませんが、よく考えてください。

自分のこだわりのように思わなくてもよいと考えたら、苦しみから離れ、楽になるはずです。


公案について

昨日は kassii 長老の心解脱の経緯を「覚りの境地(2019改訂版)」から引用して、紹介しました。その引用文には続きがあります。

それには公案について述べられていますので、それを今日は引用します。
「覚りの境地(2019改訂版)」(p189~p190)

(以下引用)

具体的に、SRKW ブッダが提示した公案を示そう。

【苦い薬の (準) 公案】 苦い薬があったとき、その苦さも薬効であると考えなければならない。苦ければ苦い ほど薬効も高い。

【一円の公案】 もし人にお金を与えるならば、一円が最もすぐれている。これはなぜであるか?

「苦い薬の (準) 公案」を解けば基本的に預流果を認定する。このような人は、もう仏 道を踏み外すおそれがないからである。そして、「一円の公案」を通過すれば心解脱(初 期)を認定する。「その表象」を得た人だけが、この公案を通過できるからである。そして、心解脱を果たした人を私は” 長老” と呼ぶ。

ところで、ここに注意すべきことがある。私自身、公案を縁として心解脱した事実があ る。それゆえに、公案が心解脱に役立つものであることはもちろん承知している。それ でも、人々 (衆生) に敢えて公案に取り組むことを勧めず、観 (=止観) に取り組むことを 勧めているのは、公案の効力とその危うさの両方を知っているからである。観に比べて、 公案はより具体的である。しかし、それゆえに道に迷ってしまう危険も大い。

公案に 書かれた一つ一つの言葉にとらわれてしまうと名称 (nama) 作用に翻弄されて、公案は決 して解けないばかりか修行者を大いに迷わせる。その挙句、仏教そのものに疑問を抱く 者も現れるかも知れない。公案に心が転じられてしまっては、話にならない。

公案が解脱に役立つものとして成立するのは、公案を縁として心解脱した人が、まさし く公案に縁があって心解脱した場合だけである。そして、公案に取り組む前にその縁を 知ることができないゆえに、修行者が公案に取り組むことは一種の賭けのような側面を 持っている。このような理由で、人々に広く公案を勧めることはできない。どうしても 公案に取り組みたい修行者は、私か、あるいは長老と密に連絡し合って、道に迷うことが ないようにすべきである。

(以上引用)

以上ですが、引用文に書かれている通り、公案には効用と共に危険性もあります。

実は私(法津如来)は、四十数回解答をSRKWブッダに提出しましたが、通過しませんでした。

最後は、公案を解こうと拘っていることに気がついて、公案をやめました。

しかし、公案を取り組むことを通じてSRKWブッダとメールでやり取りをし、親交を深めたことは大きな意味がありました。

引用文中にもありますが、どうしても 公案に取り組みたい修行者は、私(SRKWブッダ)か、あるいは長老( kassii 長老)と密に連絡し合って、道に迷うことが ないようにすべきです。法津如来に密に連絡し合ってもダメです。


石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その1

仏教思想を学ぶ上で、「輪廻」という言葉がよく出て参ります。命(いのち)ある存在は、業(カルマ)に基づき限りなく生と死とを繰り返すというインドの思想がその根底にあり、仏教にもその教義が取り入れられているからです。

また、同じ仏教思想に出てくる「因縁」という言葉を考えた場合、たしかに輪廻という思想を考慮に入れた方が、より容易に理解出来るのは事実です。

私自身、阿含宗に入会し最初は自分自身の能力アップを目指していたのですが、のちに管長である桐山靖雄氏の提唱する「因縁解脱」の方向に舵を切ったことは間違いありません。

本来仏教が目指すものは「覚り」であり、覚りを得たなら「解脱」を達成出来る=「覚り=解脱」と表現されるものですが、桐山氏の説く因縁解脱とは誰もが理解しやすいよう「因縁から解脱する=因縁解脱」という表現法を用いておりました。

因縁とは、ある意味曖昧さのある難しい言葉ですが、そこでは先祖から受け継いだものと前世から受け継いだもの、の二方向を想定して阿含宗では教えを説いていました。
普通に考えたら、今生きている自分という存在は先祖から影響を受けているという事実は疑いようもありません。しかし桐山氏は、先祖から受け継いだ影響を縦軸の線と考え、更にもう一方横軸の線を想定し説いたのです。

その横軸の線こそ、過去世から現世・未来世へと永遠に続くいわゆる「輪廻」であるとし、この縦線(先祖からの影響力)と横線(輪廻による影響力)の交点に「自分」というものが存在すると説いたのですが、なかなか面白い説です。

私自身、阿含宗において因縁解脱を目標として修業し、当然輪廻からの脱却(解脱)を目指していたことは言うまでもありません。
ここでは、実際に輪廻が実在するか否かが問題なのでは無く、輪廻の実在を信じればこそ因縁の実在をも信じられ、そこから解脱することも考え得るということです。

その根底にあるのは、古来から伝えられる悪因苦果・善因善果の教えです。現世における苦しみは、前世以前に悪い行い(悪業)を積み重ねたが故に結果として現れている。その苦しみを解決するには、善業を積み重ねて悪因縁から脱するより他に方法はない・・・という教えです。

輪廻を脱するために、「覚り」を得たいと痛切に感じて修業に専念しましたが、真の「覚り」とは輪廻からの解脱では無く、輪廻は関係ないと知ったのは師(SRKWブッダ)に出合い、真の教えを聞いた後のことでした。

この世において、「覚り」と覚りに至るための修業と輪廻はまるで関係がない。その事実を耳にしてただ驚くばかりですが、私はそれまで一体何を観てきたのでしょう?
それは、「輪廻」という幻(イメージ)であったのだと振り返ります。実在しないものを、さも実在するかのように経典で学び教えられ、自分なりのイメージを作り上げた。しかし、それは教義上も修業上もたいそう都合の良い幻(イメージ)であったことは間違いありません。

表題に用いた、「幻(まぼろし)」とは、「実在しないのに、あるように見えるもの。」であり、「イメージ」とは、「心に思い浮かべる像や情景。」という意味があり、その二つは輪廻というものの不確実性を表すにはぴったりの表現法として使用しました。

学んでみれば、現代では「釈尊の学説は輪廻の存在を否定するものである」という主張が近代仏教学の学者間で議論されているようで、現代日本の仏教者・僧侶・仏教研究者の中には、「釈尊は輪廻の存在を否定した」とする主張が少なくないようです。

ネットで色々調べていて、身延山大学仏教学部教授の望月海慧(もちづきかいえ)氏が書かれた「ブッダは輪廻思想を認めたのか」という文書を見つけました。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

石法如来から、また新たなテーマで寄稿して頂きました。
輪廻について、新しい視点から解説して頂きました。
6回に分けて寄稿して頂けるとのことです。

kassii 長老の心解脱と公案

昨日予告しましたように、今日は kassii 長老について、その心解脱の経緯を「覚りの境地(2019改訂版)」(p187~p189)から引用して、紹介します。

(以下引用)

kassii(ハンドルネーム) は、心解脱(初期)を果たして長老となった。かれは、私の弟 子の一人であるが、私が提示したいわゆる公案を通過して心解脱の証たる「その表象」を 得たのである。

心解脱とは、名称 (nama) の解脱を指す。人が心解脱を果たすと、かれはもう人間関係 で苦悩することがなくなる。名称 (nama) 作用を超えた「その表象」がかれの行為におい て戒として働き、理法に適わない行為を為すことがなくなるからである。

さて、公案とは本来それを通過すれば覚りを開いたと認められる関門を言葉による問 題として提示したものである。しかしながら、公案の発祥の地である中国ではそれに即 した公案はほとんど提示されなかった。と言うのは、中国の修行者たちは未だ解脱して いない者を解脱者だと思いなし、仏でも何でもない俗人や気ちがいを仏だと見なしてし まったからである。

公案は、「仏ならばこのように振る舞う」という具体例を文章化したものであり、その 意味を理解できるのは仏だけ (解脱した人だけ) であるという考えから作られた。中国の 祖師たちが自分の法を弟子に相伝するのに用いようとしたものである。

しかしながら、中 国で真に覚りを開いた人は慧能ブッダだけであり、かれは公案を作ることはなかったの で、中国には実は公案は存在していない。それでも公案に一定の意義があるとすれば、そ の正しくない公案がまぐれ当たり的に公案としての意味を持つものが存在するというこ とである。つまり、公案の作成者の意図とは別にその文章が公案として一応の成立を見 せているものがあるのである。

さて、公案は日本の仏教者たちにも引き継がれた。その 中に公案と呼ぶのに相応しいものがいくつかある。そのような公案をさらに発展させて SRKW ブッダ独自の公案を提示した。それを kassii が解いたので、kassii の心解脱(初期) を認定したのである。これが kassii の心解脱の経緯である。

(以上引用)

kassii 長老は東京在住なので、私も何度かお会いしておりましたが、最近は新型コロナの影響で、それがでいないでご無沙汰しております。普通の勤め人で、子煩悩な好青年です。

六祖壇経と涼風尊者(今は法風如来)の縁

六祖壇経と言えば、SRKWブッダの奥さんである涼風尊者の身解脱の経緯について、昨日と同様に「覚りの境地(2019改訂版)」(p190~p195)から引用します。

(以下引用)

涼風尊者 (2011年当時の呼称) は、私 (SRKW ブッダ) の細君である。彼女は、私が 覚って仏になった後も仏教など特に興味などない女性だった。ただ、自分の夫が仏だと 名乗るので、いわば面白半分にこの10年余り付き合ってきただけである。そんな彼女 が仏教に興味を抱いたのは、先に記した kassii 長老の心解脱の報を聞いてからだと言う。 そして彼女はその後の2ヶ月余りで形態 (rupa) レベルの解脱を得た。すなわち、識別作 用の滅を果たしたのである。その経緯を述べよう。なお、その数年後、彼女はさらに慧解 脱を果たして仏(現在は法風如来と称している)となったが、その経緯については本書で は割愛する。

さて、kassii 長老が「一円の公案」を通過して心解脱を果たしたのは2011年5月2 8日のことであった。その報を私から直接聞いた細君は、一種のおどろきを感じたと言 う。kassii 長老は心解脱前に二度ほど我が家を訪れており、当然細君も面識があった。そ の面識がある彼が世に滅多に現れない心解脱者となったという報を聞いて、心が震えたら しい。そして、細君は自分も修行すれば心解脱くらいは達成出来るのではないかと思っ たと言う。

しかし、細君が実際に取り組んでみると私 (=SRKW ブッダ) のホームページ『覚りの 境地』を見ても内容が難しくて理解できず、かと言って釈尊の原始仏典は読む気がしな かったらしい。そんな彼女の頭をよぎったのは六祖壇経であったそうだ。

六祖壇経は、私 がそれを読んでいて覚った経緯があるその経典であり、読めば覚れるという可能性を感 じたと言う。また、慧能は文字が読めないのに仏になった人だと伝えられているが、そん な人でも仏になったのだから自分もできるのではないかと思ったと言う。単純に、慧能 になぜか親しみを感じたとも言う。ところが、我が家にかつてあった六祖壇経はすでに 他の人に差し上げていて手元には無かった。したがって、読もうにも読むことができな いと知って細君は途方に暮れたそうだ。

そんなとき、その当の六祖壇経が我が家に戻ってきた。差し上げていた人が、自分には 不要だからと添え書きして約一年ぶりに送り返して来たのだ。それが同年の6月10日 のこと。細君は読みたかった経典を手に入れてめずらしく真剣に読んでいたことを私も 憶えている。と言っても、彼女は寝る前に15分ほど経典に目を通し、眠くなったらその まま床に入るというやり方であった。

そんなことを続けていた7月20日、すなわち六祖壇経を読み始めてから6週間ほど 経った日、細君は珍しく昼間に六祖壇経を読み始めた。するとしばらくして寝室の窓か ら涼しい風が吹いてきて、一瞬に心が晴れたと言う。住んでいる住宅の前を通過する新 幹線のけたたましい音がなぜか急に気に障らなくなったと言う。これが彼女に起きた形 態 (rupa) の解脱の瞬間であったようだ。
細君は、そのことをその当日には言わず次の日の朝になってから私に告げた。一定の 境地を得たことをしばらく様子をみて確認したかったらしい。そして彼女は言った。
『新幹線の音が昨日から静かだけど、そうなの?』
私には新幹線が走る音に前日以前との違いは見いだせなかった。これはどういうこと か。つまり、細君は新幹線の音に煩うことが無くなっていたのである。

さらに彼女が言う。『珈琲の味がおかしい。唯の苦いお湯にしか感じない。』これもま た識別作用が滅したことを示していた。そしてついには『干物を焼いた臭いが臭くない』 と言い出した。私はこれを聞いて細君は識別作用が滅したのかも知れないと思った。す なわち形態 (rupa) レベルでの解脱を果たしていると直感した。その後数日間チェックし たが、細君の解脱は間違いなさそうだとの結論に達した。そして尊者を認定した。呼称 は、解脱時の経緯を勘案して” 涼風尊者” と名付けた。あの日から数年経過した時点でも 細君の識別作用は滅したままであった。

さて、細君に何が起きたのだろう。一言で言えば名称 (nama) の解脱を飛び越えて形態 (rupa) の解脱を果たしたということである。つまり、心解脱無しに一足飛びに識別作用 の滅を達成したことになる。ただし、これは智慧の解脱ではない。解脱に際して善知識 を見ていないからである。しかし形態 (rupa) レベルで解脱を果たせば阿羅漢果を達成し たと認めなければならない。

こんなことが現実に起こるとは予想していなかったが、実際に起きたことである。し かも、女性が形態 (rupa) レベルでいきなり解脱するなどあり得ないことだとそれまで考 えていた。しかし、事実を曲げることはできない。つまり、女性も男性と何ら変わりなく 阿羅漢になれることが実証されたということである。多くの女性にとって、これは朗報 となるだろう。細君が行った修行は、次のように要約できよう。

1 知人が心解脱したことを聞いて、発心した。
2 縁のある経典 (六祖壇経) が、まるで魔法を使ったかのように手元に戻ってきた。 3 縁のある経典を、寝転びつつ読んだ。 4 ある日、突然に涼しい風が吹いて、形態 (rupa) が解脱した。
まるでふざけた言い方だが、一言で言えばこうなるだろう。

~果報は寝て待て
細君が解脱する以前、いつどのように功徳を積んだのかを思い出すことはできない。し かしながら、功徳を積んでいたので阿羅漢果を果たしたことは間違いない。思うに、私 (=SRKW ブッダ) という如来の傍に9年間以上居て決して仏教を蔑ろにしなかった。そ れが功徳を積むことに繋がったのかも知れない。

(以上引用)

以上でありますが、引用文中の kassii 長老については、ご存知ない方もおられるでしょうから、明日のブログで紹介いたします。


六祖壇経とSRKWブッダの慧解脱

昨日、金剛般若経に関連して六祖慧能の開悟の話が出ましたが、その話は「六祖壇経」にありました。

その「六祖壇経」を縁にして、SRKWブッダは慧解脱をされたのです。その話は「覚りの境地(2019改訂版)」(p179~p182)に記載されています。少し長いですが、具体的に知るために、引用します。

(以下引用)

私 (=SRKW ブッダ) が覚りの境地に至ったのは、西暦2001年12月19日の真夜 中、午前1時5分のことであった。私は若い頃から仏教に興味があったとはいえ、このこ とについての真実の意味での始まりは解脱のしばらく前に遡るに過ぎない。なぜならば、 それこそが私の発心であり、発心後の歩みこそが仏道の実質的歩みであったと考えられ るからである。以下に、私が覚りに至った経緯とその後のことを書き記す。

さて、ときは私が覚りの境地に至る3ヶ月ほど前に遡る。そのとき私は当時勤めてい た会社の同僚達と新しい研究開発事案の立ち上げのために勤務地を離れていわゆる温泉 場にて合宿を行っていた。

もちろん遊びではない。ただ夜は無礼講である。客先でもある共同研究員とわれわ れで食事をして、さらに二次会へ。そこではじめて入った宿泊所ちかくのパブの中では ちょっぴり破廉恥なドンチャン騒ぎが行われた。彼女たちは100kmほど離れた都市 からこの温泉場に営業遠征でやって来て、客と戯れるのだと言う。そんな中、私は少し酔 いが回ったのも手伝って、しかしそれはいつものことで、釈尊の話を面白おかしく話して いた。そんな話をするのはこのときばかりではない。何の話題でも楽しく話をして場を 盛り上げる・・・それが私の飲み会スタイルだった。

その中の一人の若い女性 (もちろん若くなくては営業遠征できないのであるが・・・) が私に言うのである。「どうやって勉強したのぉ」私はいろんな仏教書を読んだことをや や自慢げに話した。そのあとで、彼女は驚くべき一言を発したのである。彼女が口にし た言葉をここに書くことは敢えてしないが、それは世にも不可思議な一言であった。た だ私はそのときには酔っていたし、その言葉についても別段気に留めず、店を後にしてか らもさらに別のパブに繰り出す始末であった。

しかし、それから数日経ってふと私は思った。先日の彼女の言葉はとても気高い言葉 だった。今まで聞いたことがない不可思議な一言だった。彼女の言葉を思い返していた 私は急に恥ずかしくなった。彼女の方が仏教に対して私より遙かに真剣で真摯な気持ち を持っているように思えたからだ。

そこで私は、青年の頃からそれまで独学で細々と手がけてきた仏教の勉強についても う一度真剣に取り組んでみようと思い立った。そして、その再度の取り組みの手始めと して、この数年来、順不同に取り組んで来て、自分では既に解いたと考えていた (世間で よく知られている) 禅の公案群を再吟味することにしたのである。そして、その再吟味の 過程の中で、私はそれまで知らなかった「基本的公案」という公案に出会った。この基本 的公案は、(故) 久松真一氏 (日本人) によって提唱された公案であり、同氏によれば17 00則以上あるといわれる様々な禅の公案の最終的な一関として位置づけられているも のである。それを、FAS協会という臨済宗系統の京都大学派のホームページにアクセスすることで知ったのが、2001年11月始め頃のことであったと記憶している。

そ して、この基本的公案もそれから約1ヶ月半経過した2001年12月17日に解くに 至った。しかし、それだけで覚りの境地に至ることはなく、このため、その時点では「禅 の公案というものは、詰まるところある種の哲学的見解の帰結である」というそれまで私 が抱いていた見解を何ら変えるものではなかった。つまり、この基本的公案も世間的に よく知られたその他の公案とさして変わらないものに過ぎず、総じてそれらはいわば頭 の体操のようなものであるのだという結論に相変わらず落ち着いていたのである。

ところが、その翌日のこと、すなわち12月18日の夜から19日にかけて、六祖慧能 の著作とされる六祖壇教の「法達の参門」の箇所を読んでいたところ、不意に無分別智を 生じ、覚りの境地に至ることを得たのである。ここで無分別智を生じたというのは、” あ れこそが善知識の言葉 (=法の句) であるのだ” ということにまごうことなく思い至ったと いうことである。それは、具体的には、たとえば法華経でいうところの” 諸仏が世に現れ 出た瞬間” なのだとはっきりと理解したということである。そして、その言葉 (私が得た 善知識の言葉) とは、覚りの境地に至る数週間ほど前に、わずか6歳の子供が彼の友達に 向けてぽつりと言った一言であった。

私はそのとき、自分がそれまで勉強してきたつもりの何某かの仏教的見解などは、善 知識が発する善知識 (法の句) の足下にも及ばないのだとはっきりと理解した。すなわち、 人が作為するところのあらゆる分別智は、人が作為せざるところから世に出現する無分 別智にまったくかなわないのだと心の底から思い知ったのである。

なぜならば、この世 における決定的なことについての対応は、わずか6歳の子供にさえかなわないことがあ るのだとはっきりと知ったからである。私は、自分が40年以上この世を生きてきて、少 しは物事が分かった気になっていたが、本当は何も分かっていないのだと心の底から気 づいた。私は、自分が何か根本的な勘違いをしているに違いないと (説明できなかったが 確かに) 思い至った。そしてそのとき、私の解脱は確かに起こった。

このとき、解脱の瞬間は、時間にして僅かに2~3分間の出来事であり、今になって思 えば六祖慧能がその著書で語った頓悟そのものであった。しかしながら、覚りの境地に 至ったその夜は、自分では覚りの境地に至ったとは気づかずにいつも通りに眠りについ たのである。

しかし、翌朝になって目が覚めたとき、私自身根本的に何かが変わったこと に気づかされた。それは、それまでの人生で一度も感じたことの無い、生まれて初めて の味わう独特の不思議な感じであった。そして私は、台所で朝食の用意をしている細君 に向かって「覚ったかも知れない・・・」と言ったことを憶えている。さらに、朝食を終 え、自家用車で通勤していると、前日までとはうって変わって、

● まったくいらいらしない
● まったく恐怖しない

自分に気づいたのである。もちろん、通勤時にそのようなやすらかな気持ちに落ち着い ていることは初めてのことであった。ここに至り、私は本当に覚ったのだということをはっきりと理解した。

(以上引用)

以上が、SRKWブッダの慧解脱の経緯ですが、法の句と「六祖壇経」が重要な役割をはたしています。

引用文中の「法達の参門」は、中川孝訳註「六祖壇経」(タチバナ教養文庫)では「法華の持者法逹の大悟」となっています。


金剛般若経について

昨日で無分別智の解説は終わりましたが、最後に金剛般若経の言葉が話題になりました。

金剛般若経は、岩波文庫「般若心経・金剛般若経」(中村元・紀野一義訳注)に収載されています。

その『金剛般若経』解題には次のように記されています。

(以下引用)

『金剛経』または『金剛般若経』というのは略称であって、詳しくいうと漢訳で『金剛般若波羅蜜経』また

は『能断金剛般若波羅蜜多経』として伝えられている経典である。諸の般若経典うちで最も簡潔でひろく読

まれているのが『般若心経』であり、それに続いて広く読まれているのが『金剛経』である。

(以上引用)

この『金剛般若経』の一句を聞いて開悟したと六祖慧能の説法録である『六祖壇経』に書いてあります。

その一句とは、昨日掲載した「まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし (応無所住而生其心)」だったのです。

また、この金剛般若経の霊験はあらたかで、慧能ブッダから1300年後にも、不肖私が解脱知見を得る縁となったのです。