石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その1

仏教思想を学ぶ上で、「輪廻」という言葉がよく出て参ります。命(いのち)ある存在は、業(カルマ)に基づき限りなく生と死とを繰り返すというインドの思想がその根底にあり、仏教にもその教義が取り入れられているからです。

また、同じ仏教思想に出てくる「因縁」という言葉を考えた場合、たしかに輪廻という思想を考慮に入れた方が、より容易に理解出来るのは事実です。

私自身、阿含宗に入会し最初は自分自身の能力アップを目指していたのですが、のちに管長である桐山靖雄氏の提唱する「因縁解脱」の方向に舵を切ったことは間違いありません。

本来仏教が目指すものは「覚り」であり、覚りを得たなら「解脱」を達成出来る=「覚り=解脱」と表現されるものですが、桐山氏の説く因縁解脱とは誰もが理解しやすいよう「因縁から解脱する=因縁解脱」という表現法を用いておりました。

因縁とは、ある意味曖昧さのある難しい言葉ですが、そこでは先祖から受け継いだものと前世から受け継いだもの、の二方向を想定して阿含宗では教えを説いていました。
普通に考えたら、今生きている自分という存在は先祖から影響を受けているという事実は疑いようもありません。しかし桐山氏は、先祖から受け継いだ影響を縦軸の線と考え、更にもう一方横軸の線を想定し説いたのです。

その横軸の線こそ、過去世から現世・未来世へと永遠に続くいわゆる「輪廻」であるとし、この縦線(先祖からの影響力)と横線(輪廻による影響力)の交点に「自分」というものが存在すると説いたのですが、なかなか面白い説です。

私自身、阿含宗において因縁解脱を目標として修業し、当然輪廻からの脱却(解脱)を目指していたことは言うまでもありません。
ここでは、実際に輪廻が実在するか否かが問題なのでは無く、輪廻の実在を信じればこそ因縁の実在をも信じられ、そこから解脱することも考え得るということです。

その根底にあるのは、古来から伝えられる悪因苦果・善因善果の教えです。現世における苦しみは、前世以前に悪い行い(悪業)を積み重ねたが故に結果として現れている。その苦しみを解決するには、善業を積み重ねて悪因縁から脱するより他に方法はない・・・という教えです。

輪廻を脱するために、「覚り」を得たいと痛切に感じて修業に専念しましたが、真の「覚り」とは輪廻からの解脱では無く、輪廻は関係ないと知ったのは師(SRKWブッダ)に出合い、真の教えを聞いた後のことでした。

この世において、「覚り」と覚りに至るための修業と輪廻はまるで関係がない。その事実を耳にしてただ驚くばかりですが、私はそれまで一体何を観てきたのでしょう?
それは、「輪廻」という幻(イメージ)であったのだと振り返ります。実在しないものを、さも実在するかのように経典で学び教えられ、自分なりのイメージを作り上げた。しかし、それは教義上も修業上もたいそう都合の良い幻(イメージ)であったことは間違いありません。

表題に用いた、「幻(まぼろし)」とは、「実在しないのに、あるように見えるもの。」であり、「イメージ」とは、「心に思い浮かべる像や情景。」という意味があり、その二つは輪廻というものの不確実性を表すにはぴったりの表現法として使用しました。

学んでみれば、現代では「釈尊の学説は輪廻の存在を否定するものである」という主張が近代仏教学の学者間で議論されているようで、現代日本の仏教者・僧侶・仏教研究者の中には、「釈尊は輪廻の存在を否定した」とする主張が少なくないようです。

ネットで色々調べていて、身延山大学仏教学部教授の望月海慧(もちづきかいえ)氏が書かれた「ブッダは輪廻思想を認めたのか」という文書を見つけました。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

石法如来から、また新たなテーマで寄稿して頂きました。
輪廻について、新しい視点から解説して頂きました。
6回に分けて寄稿して頂けるとのことです。

kassii 長老の心解脱と公案

昨日予告しましたように、今日は kassii 長老について、その心解脱の経緯を「覚りの境地(2019改訂版)」(p187~p189)から引用して、紹介します。

(以下引用)

kassii(ハンドルネーム) は、心解脱(初期)を果たして長老となった。かれは、私の弟 子の一人であるが、私が提示したいわゆる公案を通過して心解脱の証たる「その表象」を 得たのである。

心解脱とは、名称 (nama) の解脱を指す。人が心解脱を果たすと、かれはもう人間関係 で苦悩することがなくなる。名称 (nama) 作用を超えた「その表象」がかれの行為におい て戒として働き、理法に適わない行為を為すことがなくなるからである。

さて、公案とは本来それを通過すれば覚りを開いたと認められる関門を言葉による問 題として提示したものである。しかしながら、公案の発祥の地である中国ではそれに即 した公案はほとんど提示されなかった。と言うのは、中国の修行者たちは未だ解脱して いない者を解脱者だと思いなし、仏でも何でもない俗人や気ちがいを仏だと見なしてし まったからである。

公案は、「仏ならばこのように振る舞う」という具体例を文章化したものであり、その 意味を理解できるのは仏だけ (解脱した人だけ) であるという考えから作られた。中国の 祖師たちが自分の法を弟子に相伝するのに用いようとしたものである。

しかしながら、中 国で真に覚りを開いた人は慧能ブッダだけであり、かれは公案を作ることはなかったの で、中国には実は公案は存在していない。それでも公案に一定の意義があるとすれば、そ の正しくない公案がまぐれ当たり的に公案としての意味を持つものが存在するというこ とである。つまり、公案の作成者の意図とは別にその文章が公案として一応の成立を見 せているものがあるのである。

さて、公案は日本の仏教者たちにも引き継がれた。その 中に公案と呼ぶのに相応しいものがいくつかある。そのような公案をさらに発展させて SRKW ブッダ独自の公案を提示した。それを kassii が解いたので、kassii の心解脱(初期) を認定したのである。これが kassii の心解脱の経緯である。

(以上引用)

kassii 長老は東京在住なので、私も何度かお会いしておりましたが、最近は新型コロナの影響で、それがでいないでご無沙汰しております。普通の勤め人で、子煩悩な好青年です。