石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その4

グレイソン氏にとって最も驚くべき発見だったのは、臨死体験がその体験者達の人生に強い影響を与えていることでした。

「私の精神科医としての本業は、人々の生き方を変える手助けをすることです。生き方を変えるというのは簡単なことではありません。でも、ものの数秒で、人の考え方、価値観、信念、行動を劇的に変えてしまう体験が存在するのだと分かりました」と彼は言います。

この変化が、何十年にもわたって持続することもよくある。ほとんどの場合、「体験者はもはや死に対する怖れはないと悟る。」それはその人の生き方に重大な影響を与えるようです。(記事の抜粋終わり)

私は、この記事を読んでかつて書いた私自身の記事「存在・・・そして慈悲(やさしい)」(2020年2月20日)を思い出しました。そこでは、過去に行っていた瞑想行での体験を書いていたのです。(以下、文書抜粋)

私は61歳から、本格的に瞑想と称する修行を始めましたが全くの自己流です。難しいことは一切おこなわず、ただ坐り呼吸に意識を集中し「深い意識の世界」を目指しました。2年ほど経過したとき、突然地球の成層圏を突き抜けるような感覚を得て、とても静かな世界に到達しました。(深い世界(下向き)を目指したのに、地球を突き抜ける(上向き)とは誠に不思議なことなのですが・・・)

そこは、呼吸の必要もないほど静かで広大な何も無い世界です。そこに感じられるのは、「とても柔らかな慈悲(やさしい)のながれ」があるだけです。それは、「独り子を静かに優しく包みこんで守り育てるようとする母親のこころ」に似たほんのり温かな感覚で、その慈愛に満ちた静かな流れは、とても心地よく感じられました。
その感覚に触れて私は直感したのです。存在とは「慈悲(やさしい)そのものである」と。(以上、抜粋終了)

臨死体験と瞑想の行とは、それが起こる条件がまるで違うようですが内容は似ています。・・・ケンタッキー大学神経科医のネルソン氏はこう言いました。
「臨死体験とは「身体的あるいは心理的に大きな危機が迫ったときに起こる、覚醒状態とレム睡眠の状態という二つの意識状態が混ざったもの」だと考え、多くの臨死体験は「夢のよう」であり、神経学的に言えば「ボーダーランド」(二つの状態が重なりあう部分)で起こっている」と・・・。

要は、臨死体験で「死の怖れを超越」するか瞑想の行で「慈悲の世界」を感じるかの違いですが、不安を払拭し安楽の世界に導くという意味では共通しています。
私は自分自身の記事の中で、一つの経典の言葉を引用しました。『物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』(『スッタニパータ』七五三偈)という言葉です。

この記事のテーマである「輪廻」というものを考えた場合、私の瞑想体験では「私・あなた」などの人物は登場しません。(これは、臨死体験の場合と比較できませんが)しかし、静かでゆっくりとした、大きな平安なるある流れを感じておりました。それは、物質的な形のある世界ではなく、非物質的で形のない世界においてです。

衆生の大きな錯誤は、天国や極楽や地獄などと言う、あたかもこの世と同じ形ある世界が存在するかのような錯覚を持つことです。仮に輪廻に繋がる何か?が存在するにしても、形があるのは物質的領域だけなのです。


私は今、「輪廻」は幻でありこころで描くイメージにしか過ぎないということで記事を書いていますが、釈尊の説かれた経典に興味深い教えがあります。

それは、「世間の集を実の如く正しく知見せば、もし世間無しとする者は有らず。世間の滅を実の如く正しく知見せば、もし世間有りとする者は有ること無ければなり、これを二辺を離れて中道を説くと名ずく。」(『雑阿含経』巻第12(三0一))と。

現代語訳「世間の苦しみの起こる原因(集)を正しく智慧によって見るならば、世界は無常可変であり、人が死ねば後に何も残らないとする考え(断見)はあり得ない。また、世間の消失(滅)を正しく智慧によって見るならば、世界は常住であり人が死んでもその霊魂は不滅であるとする考え(常見)はあり得ない。この極端な二つの考えを捨て、中道を説く」という経典です。


*法津如来のコメント

本日2回目の更新です。

今回の特別寄稿にもいろいろな話題が語られていますが、石法如来が伝えたいことは、「輪廻」は幻でありこころで描くイメージにしか過ぎないということです。


固定的な修行法など何一つ存在していない

ゴータマ・ブッダはダンマパダ271偈、272偈で次のように説かれております。

「わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。 」(中村元訳)

また、SRKWブッダは「仏道の真実++」のなかで次のように述べておられます。
https://76263383.at.webry.info/202009/article_13.html

「繰り返しになるが、この世にはニルヴァーナに至るための固定的な修行法など何一つ存在していない。したがって、読者が本書で具体的な修行法を学びたいと思っているのであるならば、その期待には応えることはできない。」

このように言われると、それならば「どうしたらいいですか?」と言いたくなるでしょう。

多くの修行者は、具体的な修行法を知りたがるのです。

確かにそのように思うのは無理はないのですが、その発想が真実の探求にとっては逆方向なのです。

例えば、幸福になりたいと思う人はどうしたら幸福になれるか知りたがります。

その方法を知りたがるのです。

しかし、その人は幸福が何か知らないのです。

その人は、お金持ちになることが幸福になることだと思って、お金持ちになる方法を知りたがるのです。

しかし、お金持ちになる方法を知って、お金持ちになったとしても、その人は幸福になれるでしょうか?

お金になっても、苦労が増えるだけで、幸福にはなれないことを知るでしょう。

修行者は、方法を求めるのではなく、自分の求めるものは何か明確に知るべきです。

それで瞑想が必要だと思うならば、目的を忘れずに瞑想をやってみるのもよいでしょう。

繰り返しますが、瞑想をすれば覚れるというものではないのです。