石法の如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その1)

今回の記事を書くきっかけは、適時メルマガを送ってくれる森田洋之医師(鹿児島県の開業医)の著書『うらやましい孤独死』(フォレスト出版)を読んだことです。
以前から、頭の中に構想があったのは間違いありませんが、森田氏の著書を読み少しづつ考えがまとまってきました。
 
人生を、70年も生きていると沢山の人間の死に出会います。私の場合、実の両親も養父母もすでに旅立ちこの世におりません。
一番印象に残る死(の出来事)は、肉親のそれらではなく職場の先輩のそれです。その先輩は、当時私より数歳年上の自衛隊幹部で優秀な方でした。
 
その先輩が、仕事を頑張りすぎたのでしょうか?耳下腺ガンを患い闘病生活を送ることになり、数ヶ月の入院生活の後職場に一時復帰出来たのですが、ガンが再発し結局帰らぬ人となりました。
先輩の葬儀に行き、告別式の時に棺桶に花を手向けたのですが、彼の死顔を見て驚きました。その顔は、「とても怒ったようで、かつ無念そう」だったからです。
 
私は考えました、「彼は、何に対して怒っていたのか?」と・・・。もっと生きたかったのに、生きられないことに対する怒りでしょうか?それとも、治癒しないガン治療に対して怒っていたのでしょうか?更には、もっと長く生きてやることを達成出来なかったことに対する怒りでしょうか?
 
私には、彼の怒りの意味・内容が理解出来ませんでしたが、人生の道半ばでこの世を去るということは「それ程までに悔しい」ことなのだと思い知らされました。
全ては、「因縁である」と言ってしまえばそれまでですが、人間の生存とはある意味空しく悲しいものであるということを痛感したのです。
 
日本人の死因のトップはガン死で、毎日約1,000人の方が亡くなっています。皆様は、ガン検診を受けて「早期発見・早期治療」を心がけておられると思いますが、私の場合全く検診は受けておりません。
もともと、東洋医学に興味があり30年以上前瓜生良介(うりゅうりょうすけ)氏の主宰する「快医学」(かいいがく)という自然療法に出会い、千葉県まで講習を受けに行ったことがあります。
 
更に、20年以上前に近藤誠というドクターの書いた『それでもガン検診受けますか?』という本を読み、ガンというものに興味を持ち個人的に色々学んでみました。
私の場合は、西洋医学に全幅の信頼を置いていないので、仮にガンになっても手術は受けませんし抗がん剤治療も一切受けるつもりはありません。
 
2012年に出版された、『どうせ死ぬなら「がん」がいい』(中村仁一・近藤誠共著・宝島社新書)に面白いことが書いています。(以下、引用)
 
「「医療は恫喝産業。不安を煽って患者を増やす」
近藤・・医者はヤクザよりタチが悪いんです。ヤクザは素人衆を殺すことはしないし、素人衆に指を詰めさせることもない。泥棒だって普通は金を取るだけだけど、医者の場合は患者を脅迫して、金を払ってもらった上に、体を不自由にしたり、死なせちゃったりするわけですからね。ほんとにタチが悪い。
 
中村・・医療っていうのは、命を担保にした博打ですよ。どっちへ転ぶかは医者にも分からないんです。ホントのところ。
近藤・・医療は中村さんのおっしゃる恫喝産業でもあるし、不安産業でもありますよね。不安をあおってファンを増やす。
 
中村・・不安をかきたてたら、患者は絶対、来ますからね。「治療しなかったらこうなりますよ」って不安がらせるし、脅すし。検診でも、人間ドックでもそうでしょ。10項目も受けたら、どっか具合悪いって言われますよ。だって基準値そのものが健康な人が「95%に入る範囲」で、前後の2.5%ずつは、はずれるんだから。
 
10項目やったら、ただそれだけでも、ぜんぶ基準範囲におさまる人なんてそうはいなくなる。それに加えてさらにいろいろ、見つかるわけだから、年取ったらなおさらどっか悪いのは普通で、「正常」なんてありえない。だから検診や人間ドックを受けさせるほど、病人は増えますよ。」(以上、引用終わり)



*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。
今回も石法如来から、寄稿して頂きました。
「『穏やかな死』と医療問題」のシリーズは7回の予定だそうです。
楽しみにしてください。

北海道の読者からのメール

北海道の読者からの電話のあと、その概略は昨日のブログに書きましたが、御本人から次のメールを頂きました。「先生のご判断で、いつでもお役立てください。」とありましたので、本文の前後は省略しますが、引用します。

(以下引用)
怨みを捨てようと思ってから、怨みの背景に欲があることが分かったんです。

だからそこの欲(執着)を断てば、原因である欲がなくなるからもう怨めなくなるんですね。

怨みも縁起の上でしか存在できないんですね。

怨みを認識してから後、その怨みを持ったままで、敢えて怨みを捨てようと思ってみるのです。

怨みを捨てようと思ってから後、自分にとって執着している欲情の象徴のようなものが現われたら、

それを観続けるのです。

考えるのではなく、観続けるのです。


私の前に現われたシンボルは美ならざるものでした。

あばたもえくぼと同じようなものであり、

執着している間はそれを美なるものと見ていたと後で知るのです。

しかし今現われているシンボルは美ならざるものなのです。

美ならざるものを観、美ならざるものと知れば、
心はそこにとどまっていられなくなるんです。

心はそこから離れていくようになるんです。

そして怨む対象が、そこにはないと知るようになるのです。

そこに執着して、それを通して相手を見ていたのです。

そうすると相手は憎しみの対象になるんです。

しかし怨んでる相手は、
もうそこにはいないし、
そこを見てないのです。

同じものを観てないし、それはかれらではないのです。

それはたんなる象徴なのです。

相手はもうそこにはいないし、
そこを見てもいない。

今見ているシンボルは、憎む対象であった相手ではない。

そうすると、憎む対象がないって知るようになるんです。

憎む対処じゃないものを見て憎んでいたと知るようになるんです。

そこへの執着が、怨みを生み出していたと知るようになるんですね。

そのように知って来ると、もうしがみつく価値がなくなってくるんですね。

それらは考えてるんじゃなく、心からそう思えるようになってくるんですね。

その憎しみの正体をはっきりと観たなら、

はっきりと知ったならば、

突然、映像化された怨みが凝縮されたドロドロしたみたいのが

リアルタイムにみるみる溶けて消えていく光景をありありと観たのです。

そして完全にそれが消えさる瞬間、同時に怨みが消えてなくなるんです。

この光景は想像したのではなく、はっきりと観たことなのです。

これらは頭で考えてするのでは駄目で、私は観るということをしたのです。

ニンジンが嫌いな人が、ニンジンは美味しいと本に書いてあるのを読んでも、
ニンジンを好きにはならないのです。

頭で考えるのではなく、ただ観るのです。

頭で考えては駄目なのです。

ただ観るのです。

そうすることによって、そこは執着する対象じゃないってことを
心の底から、本心でそう思えるようになったとき
怨みが溶けて消えたのです。

この心の底、本心からそう思うというのは、潜在意識の次元での話を言ってるのです。

潜在意識に蓄えられていた個人の怨みの念が消えたのだと思います。

これをするには考えていてはできないことなのです。

ただ観ることによって、それは起きるのです。

これは表面的なことではなく、内面の変化なのです。

心の底から、本心からそのようになると、

もう心は、かつての怨む相手を追わなくなるんです。

もう許しが完了しているし、手放しているし、

慈悲の心で観ることもできるようになるんです。

これ程まで怨んでいた相手を、一瞬にして慈悲のまなざしで観ることも
できるようになるんです。

シンボルを智慧によって観たとき、怨みは溶け、そして消えてなくなるのです。

それは突然やってくるのです。

(以上引用)