石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その4)

現代医学の力をもって行えば、人間を死なない状態にしておくことは不可能ではないようです。この文書を書いていて急に思い出しましたが、日本のマンモス宗教教団S学会の名誉会長I(アイ)氏は今どうしているのでしょう。
「ただ生きているだけの状態」という噂を聞いたことがありますが、もしそうなら「死ぬに死ねない苦しみ」を受けているように思います。
 
かように、すんなりと彼の世界に赴くのは難しいのです。それを、すんなりと成し遂げた養母は凄いなと正直感心しました。
彼女には実の自分の子供はおりませんでしたが、働き者で気持ちが優しく信仰心の厚い人でした。(養子である私たち)子供の前で愚癡をこぼすこともなく、淡々と自分の仕事をこなし、怒った顔など見たことがありません。
 
実家は公衆浴場を経営していたので、町内のお客さんが多く番台に座り接客していましたが、誰からも好かれる人でした。
明治生まれの人間ですから戦争も体験しており、「覚悟を持って生きる」という心構えが自然と備わっていたのだと振り返ります。
 
覚悟ということで、次のような文章を見つけました。(以下、引用)
「「覚悟せよ」。時代小説には良く出てくる言葉です。この覚悟が健康のために大切なのですが、病医院に来る人たちには覚悟がありません。覚悟がないため、風邪をひくと受診し、血圧が高くなると薬を飲まなくてはと騒ぐのです。
では、何に対して覚悟をすればよいのでしょうか。それはあなたの「命」に対してです。
 
あなたが覚悟を決めるには、正しい科学的な知識で「命」を理解することが必要です。それはすなわち、人間は徐々に老化し、いずれ死ぬことが運命づけられている生物であるということと、できうる限り死を回避するために自然治癒力が備わった生物だということです。」(以上、『やっぱり高血圧はほっとくのが一番』松本光正著・講談社+α新書・143~144頁引用)
 
自然治癒力が備わっている以上、人間は簡単に死ぬようには出来ていないし、環境的にも医学の進歩により死ね(な)ないようになっています。
では、人間は何故死ぬのでしょう?・・・ここで、昔聞いたことがある、「人間は病気で死ぬのではない、寿命で死ぬのだ」という言葉が思い出されます。
寿命は避けられません。それを無理に避けようとすると、必要以上に苦しまなければいけなくなるし((その3)の引用例)、周りに迷惑をかけることになります。
 
私の養母の場合、最後に私の顔を見て安心し「もう良い」と心底思えたのではと見ます。その意味では潔い人間ですが、だれもが簡単に出来ることではないでしょう。
「死にたい」と口では言っていても、いざ死ぬとなれば「全てを失い全てを置いて行かねばいけない」のですから決断に迷いが生じます。
 
おそらく、それは不可能に近いくらい難しい決断ですから、常日頃からその様なことを想定し死生観を養っておかなければ実行は難しいのです。
仮に、本人がその気(死ぬ気)になったとしても、(家族や病院の)状況により「胃瘻」(いろう)を装着するなどの延命治療を施そうとなるわけです。
 
病院側にしたら、衰弱して意識朦朧の本人に意思確認は出来ませんし、家族(や身内)から延命を依頼されたら断わることなど出来ません。そう考えたら、生前から家族内で話し合いをして万一の場合はどうするか意思をはっきりと伝えておく必要があると言うことです。
 
今から5年程前、義母(妻の母親)が亡くなった時のことを書きますと、とある有料老人ホームに入所していたのですが、夜中に急に体調不良となり救急病院に運び込まれました。
年齢は九十一歳の高齢で、病院の医師は色々処置してくれたのですが意識が回復しません。妻が担当医に呼ばれ、延命治療の可否を質問されたそうです。
 
妻は、自分の母親が常日頃言っていた「余計な治療はしないで欲しい」という言葉を、そのまま医師に伝えました。そうしたら、特段の治療をせず容体を見守るだけの環境下に置かれ、私たちもその推移を見守りました。
 
呼吸は、一見苦しそうですが(本人は)「そうでもないですよ」とドクターは教えてくれました。そうこうしているうち、呼吸が停止し義母は穏やかに息を引き取りました。


*法津如来のコメント

石法如来は、皆様にお伝えしたい情報がたくさんあるようなので、寄稿の間隔を少し短くしていただきました。