石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その3)

「法」(ダルマ)とは、「たもつもの」特に「人間の行為をたもつもの」を原意とするが、この現象の世界を「たもつもの」が、この因と縁ということになります。
 
しかし、この因は原因そのものであるから当然、人間の力ではどうすることもできないものです。ゆえに仏教では、この因を助成する事情や条件という間接的原因である縁を問題にするのです。
 
古来からある、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」という言葉は、如実にそのことを物語っています。
しかしこの法は、微妙にして見がたいものであり、成道後釈尊は「われが今、甚だ深いこの法を、はっきりとさとすのは難しい。全く難しい。覚りを知るところは難しく、思惟も可能にあらず。」(『増壱阿含経』巻第十(一))と、説法を躊躇されたとあります。
 
では、法(ダルマ)としての縁起とは一体どの様なものなのでしょうか。
経典には、縁起の相互依存関係性(相依性)を蘆束(あしたば)にたとえて説いています。
「たとえば三蘆の空地に立つには展傳(てんでん・順次に)して相依りて、竪立(じゅりつ・真っ直ぐ立つ)することを得るが如し。若し其(そ)の一を去るも、二も亦(ま)た立たず、若し二を去るも、一も亦た立たざるなり。展傳して相依りて、竪立することを得るなり。」(『雑阿含経』巻第十二(二八八))と。
 
また、「縁によってすでに生じた」ものを「縁巳生」(えんいしょう)と呼びますが、生じたものは「法」であり、「法」とは縁起したものをいう。すなわち、「存在」とはどんなものでも「法」と呼ばれるのではなく、因縁所生の存在だけが「法」と呼ばれるのです。
原始仏教経典における「法」説では、五蘊説と六入説とが最も重要であり、最も多く用いられます。
 
五蘊(ごうん)は、存在というものを「色受想行識」の五つの集まりを、六入(ろくにゅう)は精神活動がそれを通じて起こった六つの領域(眼耳鼻舌身意)を言います。
また、原始仏教の法を語る場合重要なのは、「法印」(ほういん・仏の教えのしるし)と言われる「無常・苦・無我(非我)」(三法印)の概念であり、原始仏教経典には頻繁に登場します。
 
そこにおいて、原始仏教の理論が実践と深く繋がっていることが知れます。そこで、前述した「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」とは具体的にどのようなことを言うのか、法印(三法印)説と縁起説とを対比させて考察してみましょう。
 
まず「無常」とは、「ありとあらゆるものが移り変わって、少しも止まらないこと。」であり、経典には「色は無常なり、若(にゃく・または)は因に若は縁によりて生ぜられる。」と、色もまた無常であり諸々の因縁によって形成された諸要素の集合体に他ならないことが説かれています。
 
また「苦」とは、単なる肉体的もしくは生理的な苦痛ではなく、日常的な不安または苦悩でもない。それは阿含経に説かれるものを換言して現代語に置き換えるならば、「自己の欲するままにならぬこと。」、「思いどおりにならぬこと。」と解釈され、経典には五蘊における苦の集積は、縁起に基づいて起こることが説かれています。
 
そして「無我」とは、我の否定であり、ときには「非我」(ひが)と訳される。縁起によって成立する世界には、固定的な自我というものは存在しない。自我はそのような性質としての存在ではないために、絶えず変化する世界においては、真実の存在たりえないとされる。経典では、愚癡(ぐち)にして無聞の凡夫は「我」に対し、如何に間違った見解を抱いているかを教えています。
 
「愚癡無聞の凡夫は無明を以ての故に、色(肉体)は是れ我なり異我なり相在すと見、我は真実なりと言って、捨てず。捨てざるを以ての故に、諸々の根増長す。諸根長じ巳つて、諸々の觸を増す。六触入處に觸せらるるが故に、愚癡無聞の凡夫は苦楽の覺を起す。」(『雑阿含経』巻第二(四五))
 
現代語訳:「愚かにして仏の教えを聞かない凡夫は智慧がないから、肉体(色)はこれ我・我と異ならざる形であると見て、我の真実を言っても捨てることがない。捨てずに用いるが故に、諸々の機根(能)が増長し、諸々の機能ははなはだ長ける。諸々の接触は増加し、六つの接触により入るところの接触作用が起こる故に、愚癡無聞の凡夫は苦と楽という感受(感覚)を起こすのである。」
 
そして、正しい無我の認識こそ「無明の滅」に繋がる正しい智慧であると説くのです。