石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その7)

この章では、森田洋之医師の著書『うらやましい孤独死』を参考・引用しながら書き進めて行きますが、森田医師の研修医時代の話です。
 
(以下、参考・引用)
「ある中等度認知症のおばあさんは、食事を誤嚥したことによる発熱(誤嚥性肺炎)を何回か繰り返した後、病院と施設から胃ろうをいれることを勧められたそうです。
 
研修医だった森田医師は、本人の気持ちを聞いてみようとベッドサイドに言って本心を聞いたそうです。そうすると、彼女は言って良いか迷いながらこうつぶやいたと言います。
「本当は、おなかに穴を開けるのは嫌なんですよ。でも、もう決まってしまったことですからねぇ」
 
背筋を伸ばし、重ねた両手を上品に膝に置きながら座るその姿は気品を感じさせました。あれこれと話を聞くうちに、森田医師を信頼してくれたのか、更に話を続けました。
「できれば一度は自宅に帰って、あれこれ済ませておきたいものがあるんですけどね。それもなかなか難しいし・・・。」
 
胃ろうの穴を開けられた彼女はその3ヶ月後、寝たきりになりました。声は細くなり、綺麗に纏められていた髪は日に日に乱れていき、あの気品さは見る影もなく失われていきました。
誤嚥性肺炎を防ぐという名目で開けられたお腹の胃ろうの穴。それにもかかわらず彼女は何度も誤嚥性肺炎を繰り返しました。胃ろうは、一体何だったのでしょう。
 
その一年後、彼女は長期入院の末に亡くなりました。一度は自宅に帰りたいという彼女の希望はついに叶わなかったのです・・・。
 
また別のおじいさんは、3年間病院で寝たきり状態でした。
入院したのは、畑で転んで骨折し救急車で運ばれたことがきっかけだったようです。その後、病院での生活に張り合いをなくしたのか急に気力を失い、リハビリにも力が入らず、まもなくして寝たきりになってしまいました。
 
森田医師が出会ったとき、おじいさんの喉には器官切開の穴が開けられていました。24時間寝たきりで声も出ない、それでも意識はある。食事は胃ろうの管から注入されるだけで口からは何もはいらないのです。
24時間、ただただ天上を見つめるだけの生活でした。・・・喉に挿入されている管の交換作業をするとき、かれはいつも作業する森田医師をじろりと睨みました。
 
その視線は、まるでむこうにある宇宙を見ているかのようでひどく渇いたものでした。その視線に耐えられず、おじいさんととても目を合わすことなど出来なかったのです。」(以上、『うらやましい孤独死』87頁から89頁参考・引用)
 
この短い文章を読んで私は、人間の人生の終末期に「この仕打ち」は酷いなと正直感じました。しっかり自分自身の意思を表さなかった患者(本人)が悪いのか、家族に問題があるのか、管理しやすくした病院側の問題なのか?それは分かりません。
 
私自身も、老人に特化した病院の存在は知っています。考えようによっては、お世話になることもあり得るので、重宝であるとは言えます。
反面、患者の自由は勿論人格などあるはずもありません。病院の、治療・療養・介護という流れ作業に載せられるだけです。
 
今の時代、老人病院と言えど「管理社会」化が進んでおり、収益・効率のためなら患者の自由は(暗黙の中で)我慢してもらうというスタンスに見えて仕方ありません。
 
そう考えたら、私が実際に体験した親族の死はとても「穏やかで幸せなものだった」と言えます。
人間らしく日々過ごし、最後は自宅でゆっくり人生の幕を閉じる。・・・その様な、当たり前とも言える「穏やかな死は、とても贅沢で難しい」ものであるかのように感じるのは、私だけではないと存じます。
 
今回の連載記事は、(その7)で終了です。


*法津如来のコメント

石法如来のこのシリーズは今回で終わります。

石法如来ありがとうございました。

また、新たなシリーズの連載が予定されています。

楽しみです。