石法如来の特別寄稿:新型コロナウィルスとADE(その1)

この記事を書くきっかけとなったのは、法津如来のブログ読者Hさんからからの一通のメールです。そこに、「新型コロナウイルスの’悪玉抗体’発見の波紋-ワクチンはやはり危ない?」という紹介記事がありました。
 
法津如来が、私にも関係しているということでメールを転送して頂き、早速記事を拝見致しましたら内容が重要なので記事を書くことにしました。
表題は、「新型コロナウィルスとADE」としましたが、この「ADE(抗体依存性感染増強)」こそいずれクローズアップされるコロナ問題であるという観点から名付けました。
 
ただ、内容的には難しく適切に表現出来かねますが、何度も文章を読まれたり動画を見られると「ただならぬこと」が起きていると感じることが出来るはずです。
 
因みにADEとは、「抗体依存性感染増強」を指します。本来、ウイルスなどから身体を守るはずの抗体が、あろうことか免疫細胞などへウイルス感染を促進するよう働き、ウイルスに感染した免疫細胞が暴走し更に症状を悪化させてしまうという現象を言います。なお、ADEの詳細なメカニズムについては未だ不明のようです。
 
Hさんから紹介された記事は、大阪大学の研究グループによって新型コロナウィルスに存在する「悪玉抗体」が突き止められたというニュースです。この発見は世界初の快挙であり、研究成果は2021年5月24日米国科学雑誌CeLLに掲載された模様です。                                                              
現在日本では、国を挙げてコロナワクチン接種を推進しておりますが、上記の研究事実からワクチン接種により抗体が生成されたからと言って、手放しで喜んでよい状況には無いと考えられます。
 
抗体には、ウィルスからの感染を促進したり更に病状を悪化させてしまう「悪玉抗体」が存在しており、研究グループは6種類の悪玉抗体を発見したと報じています。
その悪玉抗体は、新型コロナウィルスのスパイク部分(王冠部分のトゲトゲに例えられる)の先端部分を変質させ、受容体(ACE2)との結合力を3倍強めてしまうようです。
 
もしそうなら、普通に考え感染力は3倍強まると言うことで、この現象は現在日本で騒がれている「変異株」の感染力アップの理屈によく似ています。
肝心な箇所は、重症化された人(重症化した人)ほどこの「悪玉抗体を保有している」率が高いようで、重症化と悪玉抗体の関係性がエビデンス(証拠・根拠)を伴って半ば証明されたも同然と考えられるということです。
 
「感染増強抗体による感染性の増加」は、抗体によるスパイクタンパク質への直接的な影響であり、今までに知られていた「抗体依存性感染増強(ADE)」とは全く異なる新たなメカニズムが存在することが判明しました。(詳しいことは分かりませんが、そういうことみたいです。)
 
非感染者においても、低レベルの感染増強抗体を持っている人が存在することが明らかになりました。既に感染増強抗体を持っている人では、「感染やワクチンの接種」により感染増強抗体の産生が高まる可能性が考えられるようです。
 
感染増強抗体の認識部位は、現行のワクチン抗原にも含まれているので「感染増強抗体の産生を誘導しないワクチン抗原を開発することが望ましい」と述べられています。(たしかに、その方がはるかに安全です。)
また、本研究で明らかになった感染増強抗体の認識部位を改変することで、「感染増強抗体の産生を誘導しないワクチン開発が可能になる」と期待が述べられています。
 
参考文献・動画
 
https://blog.goo.ne.jp/kuranishimasako/e/7cc5909ee694691745d9cba3b7f72ee5
新型コロナウィルスの悪玉抗体発見の波紋-ワクチンはやはり危ない?
万国時事周覧さんの記事です。
 
https://www.youtube.com/watch?v=7KBifXemcjg
大阪大学が解明したADEのメカニズム
JPsikahaunter(北海道札幌市在住の開業医)さんの動画です。
 
https://www.youtube.com/watch?v=v_ukp6Fp5Vk
まーてるちゃんねる♬ 第5世代までの動物実験の公表してないのはおかしい!
沖縄・宮城歯科クリニック院長・宮城正照氏


*法津如来のコメント

ADE(抗体依存性感染増強)とは、何か難しいそうな言葉ですが、今多くの人々が打ちたがっている新型コロナウイルスのワクチンで、この現象が起こるのであれば、確かに「ただならぬこと」です。

ですから、無視せずに知る必要があるのです。

このテーマは3回氏シリーズになるそうです。


「空腹」こそ最強のクスリ

おととい、ブッダは食に関して、ブッダは次のように述べていると書きました。

「人はつねにみずから懸念して
 量を知って食をとるがよい
 さすれば、苦しむことすくなく
 老いゆることおそく、寿を保たん」

この科学的理由が、2016年のノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅栄誉教授の「オートファジー」の研究で明らかになりました。
https://www.titech.ac.jp/news/2016/036467

時間のない方には、「【10分でわかる】「空腹」こそ最強のクスリ 【オートファジー最強】」という動画もあります。
https://www.youtube.com/watch?v=6uIm_Xp1X-k

私が理解した概要は、次の通りです。

体内では1日におよそ200gのタンパク質が作られます。

材料となるアミノ酸は、食べ物から消化・吸収するのですが、人間が摂取しているタンパク質の量は70 gほどです。

足りない分は、一体どこから調達しているのでしょうか?

その答えを解くカギのひとつが、「オートファジー」です。

細胞は自らの細胞質成分(合成したタンパク質など)を食べて分解することでアミノ酸を得るのです。

この機能を、細胞内の「リサイクルシステム」とも言われる「オートファジー」なのです。

また、オートファジーという機能は、空腹により活性化するというのです。

オートファジーが活性化すれば、古くなった細胞成分は再活用されますが、そうでなければ、体の老廃物になって、体に蓄積されて、毒になり、病気になるのということです。

というわけで、食べ過ぎは病気の原因になり、空腹は健康のために必要なことなのです。


石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その7)

この章では、森田洋之医師の著書『うらやましい孤独死』を参考・引用しながら書き進めて行きますが、森田医師の研修医時代の話です。
 
(以下、参考・引用)
「ある中等度認知症のおばあさんは、食事を誤嚥したことによる発熱(誤嚥性肺炎)を何回か繰り返した後、病院と施設から胃ろうをいれることを勧められたそうです。
 
研修医だった森田医師は、本人の気持ちを聞いてみようとベッドサイドに言って本心を聞いたそうです。そうすると、彼女は言って良いか迷いながらこうつぶやいたと言います。
「本当は、おなかに穴を開けるのは嫌なんですよ。でも、もう決まってしまったことですからねぇ」
 
背筋を伸ばし、重ねた両手を上品に膝に置きながら座るその姿は気品を感じさせました。あれこれと話を聞くうちに、森田医師を信頼してくれたのか、更に話を続けました。
「できれば一度は自宅に帰って、あれこれ済ませておきたいものがあるんですけどね。それもなかなか難しいし・・・。」
 
胃ろうの穴を開けられた彼女はその3ヶ月後、寝たきりになりました。声は細くなり、綺麗に纏められていた髪は日に日に乱れていき、あの気品さは見る影もなく失われていきました。
誤嚥性肺炎を防ぐという名目で開けられたお腹の胃ろうの穴。それにもかかわらず彼女は何度も誤嚥性肺炎を繰り返しました。胃ろうは、一体何だったのでしょう。
 
その一年後、彼女は長期入院の末に亡くなりました。一度は自宅に帰りたいという彼女の希望はついに叶わなかったのです・・・。
 
また別のおじいさんは、3年間病院で寝たきり状態でした。
入院したのは、畑で転んで骨折し救急車で運ばれたことがきっかけだったようです。その後、病院での生活に張り合いをなくしたのか急に気力を失い、リハビリにも力が入らず、まもなくして寝たきりになってしまいました。
 
森田医師が出会ったとき、おじいさんの喉には器官切開の穴が開けられていました。24時間寝たきりで声も出ない、それでも意識はある。食事は胃ろうの管から注入されるだけで口からは何もはいらないのです。
24時間、ただただ天上を見つめるだけの生活でした。・・・喉に挿入されている管の交換作業をするとき、かれはいつも作業する森田医師をじろりと睨みました。
 
その視線は、まるでむこうにある宇宙を見ているかのようでひどく渇いたものでした。その視線に耐えられず、おじいさんととても目を合わすことなど出来なかったのです。」(以上、『うらやましい孤独死』87頁から89頁参考・引用)
 
この短い文章を読んで私は、人間の人生の終末期に「この仕打ち」は酷いなと正直感じました。しっかり自分自身の意思を表さなかった患者(本人)が悪いのか、家族に問題があるのか、管理しやすくした病院側の問題なのか?それは分かりません。
 
私自身も、老人に特化した病院の存在は知っています。考えようによっては、お世話になることもあり得るので、重宝であるとは言えます。
反面、患者の自由は勿論人格などあるはずもありません。病院の、治療・療養・介護という流れ作業に載せられるだけです。
 
今の時代、老人病院と言えど「管理社会」化が進んでおり、収益・効率のためなら患者の自由は(暗黙の中で)我慢してもらうというスタンスに見えて仕方ありません。
 
そう考えたら、私が実際に体験した親族の死はとても「穏やかで幸せなものだった」と言えます。
人間らしく日々過ごし、最後は自宅でゆっくり人生の幕を閉じる。・・・その様な、当たり前とも言える「穏やかな死は、とても贅沢で難しい」ものであるかのように感じるのは、私だけではないと存じます。
 
今回の連載記事は、(その7)で終了です。


*法津如来のコメント

石法如来のこのシリーズは今回で終わります。

石法如来ありがとうございました。

また、新たなシリーズの連載が予定されています。

楽しみです。


食べ過ぎ(大食)

食べ過ぎ(大食)について、ゴータマ・ブッダが述べたことを、増谷文雄編訳「阿含経典2」(ちくま学芸文庫)409p〜410p から引用します。

(以下引用)
大食

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なるアナータピンディカの園にましました。

そのころ、コーサラ国のパセナーディ王は、1ドーナ(大量の単位)の飲食を食することをつねとしておった。

そして、その時、コーサラ国のパセナーディ王は、食事を終わったばかりで、大息をつきながら世尊を訪ねられた。訪ねると、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。

すると、世尊は、そのコーサラ国のパセナーディ王が、食事を終わったばかりで、大息をついている姿を見て、その時、つぎのような偈を歌いたもうた。

「人はつねにみずから懸念して
 量を知って食をとるがよい
 さすれば、苦しむことすくなく
 老いゆることおそく、寿を保たん」

その時、ウッタラという少年が、コーサラ国のパセナーディ王のうしろに立っていた。すると、パセナーディ王は、その少年をかえりみていった。

「ウッタラよ、汝は、世尊のいまの偈を諳(そら)んじて、わたしの食事の時にいつも誦するがよい。そうすれば、わたしは、毎日百銭ずつ汝に与えるであろう」

「大王よ、かしこまりました」

ウッタラはそのように答えた。そして、世尊のその偈を諳んじ、それからは、王の食事のたびにその偈を唱えた。

「人はつねにみずから懸念して
 量を知って食をとるがよい
 さすれば、苦しむことすくなく
 老いゆることおそく、寿を保たん」

かくて、パセナーディ王は、しだいに1ナーリ(少量の単位)の飲食にて満足するようになった。

かくて、パセナーディ王は、しだいに身体もすこやかとなり、ある時のこと、その手をもってその身体を撫しながら、歓喜の声をあげていった。

「まことに、世尊は、二つの利益をもってわたしを恵みたもうた。わたし、世尊によって、現在の利益と、未来の利益とをうることができた」
(以上引用)

その他、ダンマパダ185偈には次のように、食事に関する注意が述べられています。

「罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。___これがもろもろのブッダの教えである。」(中村元訳)


石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その6)

日本の医療は、「市場原理」に委ねられておりシステム的にそれが全て悪いとは言えません。ただ、現在の日本のような緊急事態下において全く力が発揮されないのという状態は大きな問題です。
 
日常、私たちは自分自身の健康を守るために医療に色々お世話になっていますが、私は病院の医療行為に対して懐疑的な意見を持っています。
その事案を示すような文章がありますので引用します。(以下、引用)
 
「「医者は治療をすすめる」これは永遠に変わらない。
中村・・しかし人の意識ってなかなか変わらないですよね。
近藤・・10年のスパンじゃなかなか変わらないけど、30年後、50年後にどうなっているか。ただ「医者は治療をすすめる」。これは永遠に変わらないと思いますよ。そうしないと自分の食いぶちがなくなっちゃうんですから。本気で医療を信じている医者は、知識がないか、そう思い込みたいんでしょうね。
 
中村・・医療は素晴らしいものだって信じないと、つまらなくなっちゃうから考えないようにするんです。変な情報に毒されないように、接しないようにして。
近藤・・そうじゃないと医者としての迫力も、説得力も、なくなりますからね。
中村・・そうそう、不思議なもので、本人が信じてると言い方ひとつでも、ものすごく迫力があるでしょう。患者はその迫力に「ハハ~ッ」となっちゃう。
 
近藤・・新興宗教の教祖みたいなもので。
中村・・ぼくらみたいな医者は、迫力ないから患者にとっては不幸だ(笑い)。
 
近藤・・それにしても健診・検診は病人を作りだす、実にすぐれたシステムですよ。がん検診には意味がない、というデータが山ほどあるのに有効だと言い張ってがん健診を推進している。
医者の数はどんどん増えているけど、医療を必要とする患者さんの数は、そう増えない。だから、元気で、ごはんもうまいと思っている健康な人から病気を見つけ出そうとするんです。「ちゃんとがん対策をやっているように見せたい」という行政の思惑もあって。
 
中村・・行政がからんでいるから、事業所へはやかましく言いますよね。健診を受ける従業員のパーセンテージが低かったら、老人への拠出金が増えるとかあるから。
まあ、抗がん剤で治るがんもないわけではないから、早すぎる死を防がなきゃいけない繁殖期の人間はしょうがないでしょうけどね。
 
近藤・・しかし医学的には、働き盛りの人も健診を受けない方が長生きするんですよ。一例を上げると、フィンランドで境遇の似た中年男性を最初の5年間、600人は健診を受けさせて、体重、血圧、血糖値、コレステロールなどをぜんぶ理想の数値になるように管理して、別の600人を自由にさせた。すると15年後、健診組のほうが病死、事故死、自殺とも多かったというデータがあります。
原因は管理のストレスや、薬害ではないかと言われています。」(以上、『どうせ死ぬなら「がん」がいい』中村仁一・近藤誠共著・宝島社新書・114頁から116頁引用)
 
この会話のような出来事は、日本中の医療現場で実際に行われていると考えたほうが良さそうです。森田洋之医師も著書の中で、「集患」(しゅうかん・病院の利益確保のために患者をあつめる)が病院では当然のように行われていると書いています。
 
その中で、「集患」の対象となるのは高齢者だ・・・と。高齢者は、複数の疾患を抱え次第に要介護状態になり、最終的には死に至るからです。
本人の状態や思い・家族の介護力など総合的な判断で治療方針は決まると一般論では言いますが、医療・介護の素人である患者側の発言力は弱く、医師をはじめとした医療・介護従事者の判断が優先されがちになるのは事実です。
 
医者から、「この病気には、この治療が必要なのです」などと言われたらそれを拒否できる人は少ないでしょう。そう考えたら、病院・医者優位でこれほど「収益確保」がしやすい業界はほかにないと言えるのです。


*法津如来のコメント

まったく、この通りです。

私の鼻の下の小さなおできを、それは食べ過ぎですと診断してくれる医者は日本に何人いるでしょうか?

そう言ってくれる医者がいれば、その医者は間違いなく名医です。


鼻の下に小さなできもの

2ヶ月ほど前に、時々鼻の下に小さなできものができていました。

カミソリ負けかなと考えて、毎日剃っていた髭剃りを1日間隔にし、鼻の下はできものが治るまでは剃るのをやめました。

しかし、できものもは一旦消えますが、また再発するのです。

何が原因かよくわからなかたのですが、私は身体の作用は全て身体の自然治癒力の一貫だと考えていますので、これも身体に必要な作用だと考えると、身体が何か悪いものを出そうとしているのだと考えました。

では、何が問題なのだろうか?

食生活というものは家族の平和を保つために必要な共同生活と考えていますので、妻と一緒に朝、昼、夕と同じものをしっかりと食べてきました。また、小腹がすくと、バナナなどを間食していました。

以前、比丘(テーラワーダ仏教の僧侶)の時は、正午過ぎの食事は禁止されていましたから、基本1日2食の生活でした。

それが1日3食の食事は私にとって多過ぎたののでしょう。

そこで、妻との合意で、私は朝は少量の果物だけ、昼は妻は出かけることが多いので、私は自家製の豆乳ヨーグルトと梅干し一個とさつまいも或いはオートミルと納豆、夕食は妻が作る肉か魚を含む料理、漬物、サラダ、味噌汁とご飯一杯にしました。

ちなみに、食事の後片付けはすべて、私がやります。

また、間食はすべてやめました。

しばらくすると、できものは消えて、再発することはなくなったのです。

鼻の下のできものは食べ過ぎが原因だったのです。


石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と穏やかな死(その5)

森田洋之氏の著書、『うらやましい孤独死』を読むと色々興味深い話がでています。著者の森田氏は変わった経歴の持ち主で、一般大学を6年ほど通った後に医科大学に入学、卒業後初期研修(2年間)後期研修(3年間)を経て夕張市に赴く決意をします。
 
財政破綻した夕張市に行くきっかけとなったのは、先に夕張市で医療に従事していた村上智彦医師の書いた『村上スキーム』という著書で、予防医学や終末医療など病院医療に頼らない患者中心の地域医療というものに感心を持ったことがきっかけだったようです。
 
実際に夕張市に赴いたのは、財政破綻して2年後の2009年だったようで、夕張市の医療は私立総合病院171床から市立診療所19床に大幅に縮小されていたと言います。
夕張市は、莫大な負債(年40億円規模の税収に対して、約600億円の負債)を抱え、医療体制にも潤沢な資金を提供できる状態にはなかったようです。
 
約4年間、夕張市の医療に関わって学んだことは、①、総病床数が171床から19床に激減した。②、高齢化率は(日本一の)50%を超えた。③、それにも関わらず、夕張市民の総死亡率は変わらなかった。④、病死は減った、その代わり老衰死が増えた。⑤、救急出動が半減した。⑥、一人当たり高齢者医療費が減った。等々・・・。
 
森田医師は、財政破綻して病院がなくなった夕張市で起こったことは、決して悪いことばかりではなかったと言います。むしろ、これから超高齢化社会を迎える日本の道しるべとなるような良いデータが出ていると言います。
 
この著書の、この文章を読んで私は自分の娘の嫁ぎ先であるスウェーデンのことを思い浮かべていました。どうやら、財政破綻した夕張市と医療の環境が似ているようです。
話でしか聞いていませんが、スウェーデンでは日本のように病院が乱立している訳ではなく、緊急を要する患者を除き診療は予約制だと言います。
 
まず電話で、緊急性・病状などを告げると看護師が今後の処置を回答してくれるそうです。普通は、そこで電話予約して通院する手はずを整えます。
スウェーデンの場合は、医療費が無料の範囲も広く有料になっても収入により上限が決められており、医療費の負担は日本よりずっと少ないと言います。
 
日本人のように、簡単に病院にかかることが出来ないので多少不安はあるようですが、スウェーデン在住も10年を越え、今ではすっかりそのシステムに慣れたようです。
 
本当に大事なのは、日本の医療システムです。日本全国の病床数は150万もあり、一人当たりの病床数は世界で最も多い部類に入ります。
そんな世界有数のベット数を持つ日本が、現在流行中の新型コロナ感染症で「医療崩壊」がなぜ叫ばれているのか?という疑問が生じます。
 
その答えは、日本の場合は医療提供を国が管理するのではなくて、各病院の裁量に任せている=「市場原理」に任せている・・・というところにあるようです。
市場原理に任せると、たしかに病院同士は競争関係にあります。だから、どこかの県のどこかの病院が医療崩壊しそうだと言っても、応援するために医師や機材を他県から搬入するなどということを行ったりしません。
 
新型コロナ騒動で有名になった人工呼吸器は全国推計で4万5千台あり全装備数の1%弱をコロナに、ECMO(エクモ)は全国に総数414台ありコロナでの使用率は2%と言われます。これだけ、連日日本中で大騒ぎしているのに使われている機材は、日本の全ての医療供給能力の数%であるというのが実情のようです。
 
ちなみに海外の先進国、欧州では病院と言えばほとんどが国立・公立で、国が医療全体を掌握・管理しているので病床の融通がきくようです。
つまり多くの主要先進国では、病院を警察や消防と同じ国の安全保障の一環と位置づけているのに、日本では各病院の自由経営に任せており、協力関係が構築されることなく緊急事態にも迅速に対応するように作られていないということです。


*法津如来のコメント

いよいよ、医療問題に入りましたね。


カリキュラム的な修行法

一昨日、「どうしたらよいか?」という題の記事を書きました。

そこで、SRKWブッダの「ここで、固定的な修行法が存在しないというのは、要するに、『これを履修せよ』などというようなカリキュラム的な修行法が存在していないということである。」という言葉を引用しました。

これは本当のことで、これが納得できないならば、本格的に修行に取り組めないということになります。

本格的に修行に取り組めない方は、カリキュラム的な修行法に取り組んで、それではだめだと体験する以外はないのです。

私もこのことがわからず、カリキュラム的な修行法を求めていました。

私は47歳くらいから修行を始めましたが、それは曹洞宗系の禅の修行で、正法眼蔵を学び、坐禅をするものです。ほぼ2年くらいです。

しかし、そこでは悟りは求めるものではなく、修行することが悟りだというような考え方でした。

私はできれば悟りたいと考えていましたから、そこから離れて、ちょうどその頃「悟りの意味」という本を出された指導者に出会い、そこで修行しました。

そこでは、説法の他に、瞑想も行いましたが、武術的な修行が多くの部分を占めていました。

中年の私としては身体を使った修行にはじめは違和感をかんじましたが、それでも楽しく行なっていました。

しかし、そこで7年くらいして、修行がマンネリになり、進歩が感じられなくなったのです。

これから、どうするかと考え始めたのです。

この辺のことがらを詳しく書くと長くなりますので省略します。

その頃、テレビの「心の時代」という番組で、スリランカ人のスマナサーラ長老が、ヴィパッサナー瞑想法の指導を放映していたのを見たのです。

これは面白いと思い、早速、日本テーラワーダ仏教協会に入会して、そこで修行を始めました。それは57歳の時でした。

それから、3年して、本格的(この時は本格的と考えていたのです。)に修行をするために出家しました。
それは60歳です。

しかし、ここでもカリキュラム的な修行を行っていました。

2014年、SRKWブッダを知ることになり、本格的は修行が始まりました。


石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その4)

現代医学の力をもって行えば、人間を死なない状態にしておくことは不可能ではないようです。この文書を書いていて急に思い出しましたが、日本のマンモス宗教教団S学会の名誉会長I(アイ)氏は今どうしているのでしょう。
「ただ生きているだけの状態」という噂を聞いたことがありますが、もしそうなら「死ぬに死ねない苦しみ」を受けているように思います。
 
かように、すんなりと彼の世界に赴くのは難しいのです。それを、すんなりと成し遂げた養母は凄いなと正直感心しました。
彼女には実の自分の子供はおりませんでしたが、働き者で気持ちが優しく信仰心の厚い人でした。(養子である私たち)子供の前で愚癡をこぼすこともなく、淡々と自分の仕事をこなし、怒った顔など見たことがありません。
 
実家は公衆浴場を経営していたので、町内のお客さんが多く番台に座り接客していましたが、誰からも好かれる人でした。
明治生まれの人間ですから戦争も体験しており、「覚悟を持って生きる」という心構えが自然と備わっていたのだと振り返ります。
 
覚悟ということで、次のような文章を見つけました。(以下、引用)
「「覚悟せよ」。時代小説には良く出てくる言葉です。この覚悟が健康のために大切なのですが、病医院に来る人たちには覚悟がありません。覚悟がないため、風邪をひくと受診し、血圧が高くなると薬を飲まなくてはと騒ぐのです。
では、何に対して覚悟をすればよいのでしょうか。それはあなたの「命」に対してです。
 
あなたが覚悟を決めるには、正しい科学的な知識で「命」を理解することが必要です。それはすなわち、人間は徐々に老化し、いずれ死ぬことが運命づけられている生物であるということと、できうる限り死を回避するために自然治癒力が備わった生物だということです。」(以上、『やっぱり高血圧はほっとくのが一番』松本光正著・講談社+α新書・143~144頁引用)
 
自然治癒力が備わっている以上、人間は簡単に死ぬようには出来ていないし、環境的にも医学の進歩により死ね(な)ないようになっています。
では、人間は何故死ぬのでしょう?・・・ここで、昔聞いたことがある、「人間は病気で死ぬのではない、寿命で死ぬのだ」という言葉が思い出されます。
寿命は避けられません。それを無理に避けようとすると、必要以上に苦しまなければいけなくなるし((その3)の引用例)、周りに迷惑をかけることになります。
 
私の養母の場合、最後に私の顔を見て安心し「もう良い」と心底思えたのではと見ます。その意味では潔い人間ですが、だれもが簡単に出来ることではないでしょう。
「死にたい」と口では言っていても、いざ死ぬとなれば「全てを失い全てを置いて行かねばいけない」のですから決断に迷いが生じます。
 
おそらく、それは不可能に近いくらい難しい決断ですから、常日頃からその様なことを想定し死生観を養っておかなければ実行は難しいのです。
仮に、本人がその気(死ぬ気)になったとしても、(家族や病院の)状況により「胃瘻」(いろう)を装着するなどの延命治療を施そうとなるわけです。
 
病院側にしたら、衰弱して意識朦朧の本人に意思確認は出来ませんし、家族(や身内)から延命を依頼されたら断わることなど出来ません。そう考えたら、生前から家族内で話し合いをして万一の場合はどうするか意思をはっきりと伝えておく必要があると言うことです。
 
今から5年程前、義母(妻の母親)が亡くなった時のことを書きますと、とある有料老人ホームに入所していたのですが、夜中に急に体調不良となり救急病院に運び込まれました。
年齢は九十一歳の高齢で、病院の医師は色々処置してくれたのですが意識が回復しません。妻が担当医に呼ばれ、延命治療の可否を質問されたそうです。
 
妻は、自分の母親が常日頃言っていた「余計な治療はしないで欲しい」という言葉を、そのまま医師に伝えました。そうしたら、特段の治療をせず容体を見守るだけの環境下に置かれ、私たちもその推移を見守りました。
 
呼吸は、一見苦しそうですが(本人は)「そうでもないですよ」とドクターは教えてくれました。そうこうしているうち、呼吸が停止し義母は穏やかに息を引き取りました。


*法津如来のコメント

石法如来は、皆様にお伝えしたい情報がたくさんあるようなので、寄稿の間隔を少し短くしていただきました。


 

どうしたらよいか?

今日は、ブログに何を書こうか少し考えました。

そこで、最近よく考えていることを素直に書くことにしました。

SRKWブッダは修行について次のように述べています。
https://76263383.at.webry.info/202008/article_6.html

(以下引用)
 仏道を歩み始めたばかりの人は、修行することが道の歩みそのものであろうと考えているかも知れない。もちろん、それはその通りなのであるが、知っておかなければならないことは、この世には固定的な修行法など何一つ存在していないという事実である。そして、この点がおそらく仏道を歩もうとする人を混乱させる一つの要因となっているのであろう。ここで、固定的な修行法が存在しないというのは、要するに、「これを履修せよ」などというようなカリキュラム的な修行法が存在していないということである。では、修行の実際とは何であるのか。読者は、知りたいであろう。

 仏道を歩むための修行は、「遍歴修行」と呼ばれるものである。これについては後の章で詳しく述べるが、人をしあわせの境地に導く真理を求めてさまざまに研鑽したり考究したりすることが遍歴修行の意味するところである。したがって、修行は基本的に本人の自由な意思に任されており、要するに知りたいところから学びを進めて行けば良いということである。このため、その学びは必然的に紆余曲折を伴うものとなるのであるが、それが修行の遍歴となるわけである。そして、人と世の真実を見極めようと努力する中で次第次第に功徳が積まれることになる。そして、あるときに機縁を生じ、ついに覚りに達することを得る。これが、覚りに向けた修行の全貌である。
(以上引用)

この通りでありますが、修行法のサンプルは示したらどうかということです。

私はすでに修行は完了しましたので、格段すべきことはありません。

時間的な余裕はかなります。そのため、他宗教の修行など、ユーチューブの動画などを見ております。

皆さまも、それなりに修行に必要な情報を収集しておられると思いますが、私が選択した情報を知るのも役に立つでしょう。

ただ、注意すべきは、それらの情報を自分でその時の自分の立場で判断すべきです。

むやみに、真似したり、盲信すべきではないと言うことです。

後日適宜、修行法のサンプルを紹介します。