やっぱり賢明な人はワクチン打たない

今日は、「植草一秀の『知られざる真実』」とういブロクの記事を引用させて頂きました。
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-0d397c.html

(以下引用)
やっぱり賢明な人はワクチン打たない

菅内閣がワクチンキャンペーンに懸命。
コロナ騒動の最大目的はワクチン販促にあると見られる。
日本のコロナ被害状況を踏まえると、現在のワクチン騒動は異常。
日本のこれまでの累計コロナ陽性者数は79.6万人。
全人口否比0.6%。
全人口の99.4%はコロナに感染していない。
コロナ死累計は14669人。
コロナ死の確率は0.012%。
インフルエンザを直接の原因とする死亡ならびにインフルエンザによる基礎疾患悪化による死亡の数は毎年約1万人と厚労省は発表している。
上記のコロナ死にもコロナを直接の原因とする死亡と基礎疾患悪化による死亡が含まれている。
新型コロナの死者数と通常のインフルエンザの死者数に大きな差は存在しない。
新型コロナは通常のインフルエンザ並みの感染症であると言える。
この状況に対して、政府が国費を投入して全員にワクチン接種する理由は見当たらない。
国民の大半がワクチン接種を受けて集団免疫を獲得するとの考え方があるが、ワクチンによる免疫能力付与の期間が長くはないこと、ウイルス有効性を下げる変異株が出現することを踏まえると、ワクチン接種による集団免疫獲得は実現しない可能性が高い。
それにもかかわらず、ヒステリックなワクチン販促活動が展開されている。

そもそも、今回のコロナ騒動の最大の目的がワクチン販促にあると考えられる。
注目されるのは、ワクチンメーカーの経営最高責任者(CEO)が株価急騰局面で保有株式を大量に売り抜けていること。
ワクチンの重要性、有用性がますます高まるなら、慌てふためいて株式を売り抜ける必要がない。
メーカー経営者は
「一過性の濡れ手に粟ビジネス」
であることを認識しているのだろう。
ワクチンに関しては不正確な情報が多数流布されている。
ワクチン販促連盟は、世に出回る間違った情報だけをピックアップして「ワクチンデマ」を攻撃する宣伝活動にいそしむ。
世に出回る情報にウソが多い。
そのウソだけをピックアップして、ワクチンに疑問を投げかける情報全体を封殺しようとしている。
テレビ各局も政府のワクチン販促活動に全面協力している。
重要なことは多数の誤情報が氾濫するなかで、真実の重要情報を人々に伝えること。
ワクチンに警鐘を鳴らす情報のなかに無視するべきでない重要な指摘が含まれている。
真実とフェイクを丹念により分けて、真実の重要情報を広く周知させることが必要だ。

ワクチン販促に芸能会社が活用される。
芸能会社はテレビ番組に芸人を出演させて、政府の意向に沿うコメントを提示させる。
その芸能会社に血税が注がれる。
悪質な政官業の癒着である。
こうしたなかで新潟大学名誉教授の岡田正彦氏が冷静な視点から有用な情報を提供している。
しかし、googleで「岡田正彦」と検索しても岡田氏のサイトは表示されない。
「岡田正彦 新型コロナのエビデンス」
で検索すると岡田氏サイトにたどり着くことができる。
https://okada-masahiko.sakura.ne.jp/

このサイトではワクチン販促連盟がワクチン推進のために取り上げるフェイク情報も取り上げている。
正確な情報の提供に腐心していることが分かる。
サイトはQ&A方式で多くの疑問に答える。
テレビメディアはこうした有用情報を紹介するべきだ。
ワクチン絶対善VSワクチン警戒論絶対悪の構図で番組を編成している点がいびつ。
岡田氏は「なぜ医師はワクチンについて正しい知識を持てないのか?」の問いに答える。
医師と製薬業界との癒着の深刻さが指摘される。
私たちは新型コロナワクチンに対する正確な知識をもってワクチンに対応する必要がある。
(以上引用)


*法津如来のコメント

すでに石法如来が特別寄稿で何度か新型コロナワクチンの危険性について警告されていましたが、今回は植草一秀氏の記事はわかりやすいので引用させて頂きました。

「無意識がわかれば人生が変わる」

「無意識がわかれば人生が変わる」という本を読みました。

慶應義塾大学大学院教授前野隆司氏と合同会社CCC代表由佐美加子氏の共著でワニ・プラスから2020年6月に出版された本です。

この本の目次は次の通りです。

まえがき 心はどこに行くのか
第1章 メンタルモデルと無意識
第2章 無意識を支配する4通りのプログラム
第3章 分離から統合へ
第4章 無意識を整えるこれからの学び
終章  メンタルモデルは無意識を知り、生を取り戻す4つのレンズ
あとがき 進化のときが来た

この本の帯には次のようなことが書かれています。

「現実」は4つのメンタルモデルから作り出される
なぜ、こんなことが起こるんだろう・・・
生きている不安、恐怖、仕事や人間関係の悩み・葛藤を抱えるすべての人へ。
そんな「不本意が現実」を生じさせているのは、無意識のメカニズムです。

4つのメンタルモデルとは次の通りです。

1 価値なしモデル
  「やっぱり自分には価値がない」→ 他人軸で生きるため、自分がなくなる

2 愛なしモデル 
  「やっぱり自分は愛されない」→ 人に過剰に尽くして自分の真実をいきられない

3 ひとりぼっちモデル
  「しょせん自分はひとりぼっちだ」
   → 常に自分や人、世界を割り切って捉え、なくならない孤独を抱える

4 欠陥欠損モデル
  「やっぱり自分はダメだ」→ 人のなかで安心して自分でいられない。心の平安がない

さらに、この本は「人間は、小さいころに体験した『痛み』を避けるための信念を無自覚に持っている。その信念から、人生におけるすべての行動が自動的につくり出されている。しかし、その自覚はなく、自分が日々やっていることを「良いことだ」「意味のあることだ」と頭で正当化している。」と述べています。

この本の結論は、このような無意識のメカニズムを受容してすること、これが統合ということのようですが、それで人生は楽になり、幸せになるということです。

最後に、法津如来のコメントが必要でしょう。

あなたの無意識はこのモデルの通りではないでしょうが、あなたの無意識を発見する参考になります。

無意識は自覚できないので無意識なのですが、それを発見し、克服することが仏教でいう修行です。

また、このブログで何度も言及した「名称(ナーマ)と形態(ルーパ)」で言えば、名称(ナーマ)の克服ということになります。


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その4)

このように縁起とは、前述したように苦の生起(順観)と滅尽(逆観)という表裏一体の二方向を包含する法そのものであり、それと理論としての一切法(五蘊・十二処・十八界)が密接に融合して、仏教の法体系を作り上げているといえます。
 
それはまた、原始仏教経典の中では究極の教えとされる四種の真理(四聖諦)にも対応しています。四聖諦とは、第一には「迷いの中にあっては全ては苦しみである。」という真理で、これを苦聖諦という。第二には、「その苦しみを集め起こすところの原因は無明(仏教真理の無自覚)と渇愛(かつあい・求めて飽くなき我執)とである。」という真理で、これを苦集聖諦という。
 
第三には、「その苦しみを滅した境地こそが覚りの世界である。」という真理で、これを苦滅聖諦という。第四には、「その覚りの世界に至るのには八つの聖道に従って正しい生活をしなくてはならない。」という真理で、これを苦滅道諦と言います。
 
このように、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」の法とは、「因あり縁ありて世間を集め、因あり縁ありて世間集まり、因あり縁ありて世間を滅し、因あり縁ありて世間滅す。」(『雑阿含経』巻第二(五三))とあるように、「世界のものはすべて相依相関の関係において成立している。」ということであり、「生起する法は、また滅の法である。」と言うことが出来るのです。
 
まさに縁起とは、「仏がこの世界に現れても、現れなくても、不変であり、不変に存続することわりでありさだめなるもの」であり、法住(ほうじゅう・法として存在し)・法空(ほうくう・実体はなく)・法如(ほうにょ・法そのものの姿であり)・法爾(ほうじ・法として定まっている)なる性質を有するもの、すなわち縁起とは縁によって生じた(縁生)法そのものと言えるのです。
 
第二章 十二支縁起の成立と意義
第一節 縁起支の考察
 
釈尊の説かれた十二支縁起の法は、智慧の象徴であり甚深にして理解が難しいです。それは、自分のこころを観るようなものです。それを、「縁によって起こるものに従う、縁によって生ずる法」(『雑阿含経』巻第十二(二九六))と名づけるのです。
本節では、順観の順序に従って十二にわたり縁起支の考察を試みてみます。
 
1 無明(むみみょう)-無明とは、癡(愚癡・無知・ものの道理がわからないこと)とも言われ、経典には様々なことに対する無知が説かれています。
すなわち、「過去のこと、未来世のこと、初めの端と終わりの端、内心、外、内外、行為、行為の結果、業の果報、仏、法、相、四諦・・・など、これらに対する無知を愚癡無明暗黒の無明と言う。」(『縁起経』第巻一)のです。
 
2 行(ぎょう)-行には三種ある。すなわち自分自身(身)による、言葉(語・口)による、こころ(意)による人間のなす行為をいい、縁起説における行は業と同じ意味内容のものと言えます。
 
3 識(しき)-識とは、身体における六つ(眼・耳・鼻・舌・身・意)の認識作用を言い、経典では「もし眼なし色なし眼識(以下、耳聱耳識・鼻香鼻識・舌味舌識・身触身識・意法意識)なくば、触あらず無なり。」(『長阿含経』巻第十(十三))と、その認識作用の成立を教えています。
 
4 名色(みょうしき)-名色は、名と色の二種に区分される。名とは、四つの物質を超えた受・想・行・識という集まり(蘊・うん)であり、色とは、複数の物質をもち一切を構成する四大元素(地・水・火・風)をいう。この二種を要略して名色となすが、この五つの集まりは、我々の存在を含めて、あらゆる存在を五つの集まり(五蘊)の関係において捉える見方でもある。
 
5 六入処(ろくにゅうしょ)-六内入処とも言い、眼入処・耳入処・鼻入処・舌入処・身入処・意入処をさす。それは、精神活動がそれを通じて起こる六つの領域であって、苦の生起の原因ともなるのです。この六つの識・触・受・想・思身という存在ゆえに、未来世に生老病死という苦しみが生ずるのです。(『雑阿含経』巻第十二(二九五))
 


認識の四段階

昨日、書いた「負けるが勝ち」について、少し整理すると次のようになるでしょう。

第一段階、勝ちと負けが別々のものと認識している。勝ちは嬉しい。負けは悲しい。

第二段階、勝ちと負けが別々のものではないと認識する。勝ちは負けがあるからある。負けがなければ勝ちはない。勝ちは負けによって成り立っている。勝ちは負けのおかげである。

第三段階、そもそも勝ちとは何か? 負けとは何か? 勝ちに不変の何かがあるのか? 負けに不変の何かがあるのか? そんなものは何もない。

このままであると、ニヒリズム(虚無主義)になりますが、第四段階があるのです。

第四段階、第三段階が何ものにも価値をおかずに認識できると、無一物中無尽蔵ということが実感できるのです。すべてのものがありがたく、感謝です。

このことは人間関係にも言えることです。

職場に嫌な上司がいます。私は彼を嫌いです。これは第一段階です。

自分が何者かわからないことに悩んでいたが、私は彼のような人が嫌いなのだとわかる。彼の何が嫌いなのか? 彼は細かずぎて、うるさいのです。私は自分の細かずぎる性質が嫌と思っている。彼は自分と同じ性質を持っていたのでした。

実際にはこれほど単純ではないでしょうが、彼のおかげで自分のことがわかってきたのです。

上司と自分の関係について、いろいろ考察していると、彼にも良いところあるのでした。彼が細かく、うるさいのは、自分のために心配していたからだとわかります。これは、第二段階です。

少し経過を端折りますが、上司には上司の生き方があり、自分には自分の生き方があることがわかります。それぞれ自由なのだということです。これが第三段階です。

第四段階は覚った人の人間関係ですが、これについては、いずれ話すことにします。



負けるが勝ち

先日、近所の図書館に行って書棚の本を見ていたら、

「『負けるが勝ち』の生き残り戦略 なぜ自分のことばかり考えるやつは滅びるのか」とう本が目に入りました。

この「負けるが勝ち」を見て、四十数年前のことを思い出しました。

子供達が喧嘩をしているときに、「負けるが勝ち」だからと言って、年上の子供に喧嘩をやめさせるために、

「負けてやりなさい」と言ったのでした。

兄の方は「どうして負けるが勝ちなのか?」と聞き返してきました。

その時、若い父である私は答えられなかったのです。

さて、今ならば、私は何と答えるでしょうか?

辞書的には、「一時は相手に勝ちを譲り、しいて争わないのが、結局は勝利をもたらすということ。」などと書いてあります。

しかし、いろいろな解釈が可能です。

ですから、これが正解だとはいえません。

その解釈は、その人の認識の深さに関係しています。

つまり、その人の境地によるのです。あなたは、どのように解釈しますか? 

少し考えて下さい。

ヒントになる考え方を示しましょう。例えば、親と子供で将棋をするとしましょう。

親は子供に将棋を教えるのが目的です。親はわざと負けるのです。子は勝って喜びます。

子供はまた将棋をやろうといいます。この時、親は目的を達したので、勝ったのです。

しかし、親が真剣になって、子供に勝ったとします。子供は将棋はつまらなくなって、将棋をやめます。

この時、親は負けたのです。

また他の考え方は、勝負に勝った者は喜びますが、負けた者は悲しみます。

勝った者は、油断して、次は負けてしまうかもしれません。

負けた者は悔しいので、なぜ負けたのか考えて、次は強くなれます。

ですから、負けるが勝ちなのです。

さらに、次のような考え方もあります。

勝者は敗者によって成り立っていることを知ることです。

敗者がいなければ勝者はいないのです。

そもそも、勝者も敗者もいないのです。

ただ、勝者だとか、敗者だとかと思っているだけなのです。

勝者が幸せで、敗者が不幸だということもないのです。

いかがでしょうか?

あなたはどのように考えるのでしょうか?


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その3)

「法」(ダルマ)とは、「たもつもの」特に「人間の行為をたもつもの」を原意とするが、この現象の世界を「たもつもの」が、この因と縁ということになります。
 
しかし、この因は原因そのものであるから当然、人間の力ではどうすることもできないものです。ゆえに仏教では、この因を助成する事情や条件という間接的原因である縁を問題にするのです。
 
古来からある、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」という言葉は、如実にそのことを物語っています。
しかしこの法は、微妙にして見がたいものであり、成道後釈尊は「われが今、甚だ深いこの法を、はっきりとさとすのは難しい。全く難しい。覚りを知るところは難しく、思惟も可能にあらず。」(『増壱阿含経』巻第十(一))と、説法を躊躇されたとあります。
 
では、法(ダルマ)としての縁起とは一体どの様なものなのでしょうか。
経典には、縁起の相互依存関係性(相依性)を蘆束(あしたば)にたとえて説いています。
「たとえば三蘆の空地に立つには展傳(てんでん・順次に)して相依りて、竪立(じゅりつ・真っ直ぐ立つ)することを得るが如し。若し其(そ)の一を去るも、二も亦(ま)た立たず、若し二を去るも、一も亦た立たざるなり。展傳して相依りて、竪立することを得るなり。」(『雑阿含経』巻第十二(二八八))と。
 
また、「縁によってすでに生じた」ものを「縁巳生」(えんいしょう)と呼びますが、生じたものは「法」であり、「法」とは縁起したものをいう。すなわち、「存在」とはどんなものでも「法」と呼ばれるのではなく、因縁所生の存在だけが「法」と呼ばれるのです。
原始仏教経典における「法」説では、五蘊説と六入説とが最も重要であり、最も多く用いられます。
 
五蘊(ごうん)は、存在というものを「色受想行識」の五つの集まりを、六入(ろくにゅう)は精神活動がそれを通じて起こった六つの領域(眼耳鼻舌身意)を言います。
また、原始仏教の法を語る場合重要なのは、「法印」(ほういん・仏の教えのしるし)と言われる「無常・苦・無我(非我)」(三法印)の概念であり、原始仏教経典には頻繁に登場します。
 
そこにおいて、原始仏教の理論が実践と深く繋がっていることが知れます。そこで、前述した「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」とは具体的にどのようなことを言うのか、法印(三法印)説と縁起説とを対比させて考察してみましょう。
 
まず「無常」とは、「ありとあらゆるものが移り変わって、少しも止まらないこと。」であり、経典には「色は無常なり、若(にゃく・または)は因に若は縁によりて生ぜられる。」と、色もまた無常であり諸々の因縁によって形成された諸要素の集合体に他ならないことが説かれています。
 
また「苦」とは、単なる肉体的もしくは生理的な苦痛ではなく、日常的な不安または苦悩でもない。それは阿含経に説かれるものを換言して現代語に置き換えるならば、「自己の欲するままにならぬこと。」、「思いどおりにならぬこと。」と解釈され、経典には五蘊における苦の集積は、縁起に基づいて起こることが説かれています。
 
そして「無我」とは、我の否定であり、ときには「非我」(ひが)と訳される。縁起によって成立する世界には、固定的な自我というものは存在しない。自我はそのような性質としての存在ではないために、絶えず変化する世界においては、真実の存在たりえないとされる。経典では、愚癡(ぐち)にして無聞の凡夫は「我」に対し、如何に間違った見解を抱いているかを教えています。
 
「愚癡無聞の凡夫は無明を以ての故に、色(肉体)は是れ我なり異我なり相在すと見、我は真実なりと言って、捨てず。捨てざるを以ての故に、諸々の根増長す。諸根長じ巳つて、諸々の觸を増す。六触入處に觸せらるるが故に、愚癡無聞の凡夫は苦楽の覺を起す。」(『雑阿含経』巻第二(四五))
 
現代語訳:「愚かにして仏の教えを聞かない凡夫は智慧がないから、肉体(色)はこれ我・我と異ならざる形であると見て、我の真実を言っても捨てることがない。捨てずに用いるが故に、諸々の機根(能)が増長し、諸々の機能ははなはだ長ける。諸々の接触は増加し、六つの接触により入るところの接触作用が起こる故に、愚癡無聞の凡夫は苦と楽という感受(感覚)を起こすのである。」
 
そして、正しい無我の認識こそ「無明の滅」に繋がる正しい智慧であると説くのです。
 


意外なところの、意外なものが人間の精神に大きな影響をあたる

意外なところの、意外なものが人間の精神に大きな影響をあたえています。

それは腸内に存在する細菌群なのです。

それらは腸内フローラ(腸内細菌叢)と呼ばれて、総数100兆個、約1.5Kgあると言われています。

それらは、その機能から大きく「善玉菌」「日和見菌」「悪玉菌」の3つに分類されています。

これらの理想的なバランスは善玉菌2割、悪玉菌1割、日和見菌7割です。

日和見菌は優勢な方に味方するので、善玉菌が多ければ腸内は健康な状態をたもちます。

逆に、悪玉菌が多ければ、腸内は不健康な状態になるのです。

腸内フローラが人間の精神に影響をおよぼす理由は、幸せホルモンとも呼ばれるセロトニンの9割が腸管で作られるからなのです。

セロトニンは、興奮物質であるノルアドレナリンやドーパミンの暴走を抑え、目覚めをよくしたり、やる気を起こさせたり、幸福感を与えるホルモンなのです。このホルモンは腸内が健康な状態の時に作られるのです。

すなわち、腸内環境がよい(善玉菌が多い)ときは、精神が安定するのです。

ではどうすれば、腸内環境が良くなるのでしょうか?

これは、知識がなければできません。

無知であれば、腸内細菌をコントロールすべがないからです。

今では科学的な研究で、多くのことが明らかになっていますので、自分で調べれば腸内細菌をコントロールすることができます。

簡単に結論を言えば、食べるものをコントロールすることです。

これは、腸内細菌のエサをコントロールすることになるのです。

善玉菌の好きな食事を取れば善玉菌が増えて、悪玉菌が好きな食事をすれば悪玉菌が増えるというわけです。

つまり、食生活を整えることは、修行になるということです。

今回のこの文章は主に、医学博士 江田クリニック院長 日本消化学会専門医 江田証 著「あたらしい腸の教科書 健康なからだは、すべて腸から始まる」という本を参考にして書きました。

年配者には、順天堂大学教授 白澤卓二 著「脳の老化を止める ココナッツオイル健康法」という本も参考になります。


遺伝子の作用によって覚るのか?

ほとんどの生命は遺伝子の作用によって生きていますが、それについては自覚されません。

遺伝子の作用は無意識の世界での働きなのです。

しかし、持っている遺伝子の全ての機能が働いているわけではなく、遺伝子の一部の機能しかオンしてないと言われています。

多くの遺伝子の機能は眠っていて、例えば危機的な状況に遭遇するとき、眠っていた機能がオンするのだと言われています。

そのことを、人間が覚るということと結びつけて考えると、覚りに必要な遺伝子が目覚めるということになるのでしょう。

このことに関してはもう少し複雑で、通常の人間の遺伝子はなんとしてでも生きるために作用するのですが、覚るためには、誤解を恐れずに言えば、なんとしてでも生きるということを放棄するようなことをするのです。

これは、生きることへの執着を離れるということです。

しかしいずれにせよ、遺伝子の作用をオンにしたり、オフしたりすることは、無意識の世界のことでありますから、人間の恣意的な思いではできないのです。

ではどうしたらよいのでしょうか?

般若心経には、般若波羅蜜多、すなわち仏の智慧によって、覚ると述べられています。

これをSRKWブッダは、善知識(善友)の発する「法の句」を聞いて覚ると述べています。

般若波羅蜜多、仏の智慧、「法の句」などが、一大事の因縁により遺伝子に作用するのでしょう。


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その2)

それは釈尊が、輪廻と業の思想の中で「生死は何に従い何を縁として有るや」という、人間苦の存在に対する大いなる疑問への解答であり、その原因と条件とを思惟した時、「智が生じ、眼が生じ、明が生じ、通が生じ、慧が生じ、證(あかり)が生じた。」(『長阿含経』巻第一(一))ものなのです。
 
すなわち、「所謂(いわゆる)、無明を縁じて行あり、行を縁じて識あり、(以下名色、六入處、觸、受、愛、取、有とつづく)、有を縁じて生あり、生を縁じて老死憂悲悩苦あり。」(『雑阿含経』巻第十二(二九三))と。
その苦悩の生起を辿り人間の存在とは、「純粋にして大いなる苦のあつまりの集積(純大苦聚集)」であることを知るのです。
 
このように、無明から老死に至るまで、苦の生起を辿ることを「順観」(じゅんかん)の縁起といいます。「此有故彼有。此起故彼起。(これが有るが故にかれ有り。これ起こるが故にかれ起こる。)」という、前段のフレーズは順観の縁起を指し、簡単な図式を以て表示するならば、「無知(無明)~執着~苦しみ」【順観】ということであり、これを論理的に分析すると、
 
(1)人間存在の根底には、無明(根本的な無知)が潜在する。
(2)それに基づいて、渇愛(かつあい・妄執)が起こる。
(3)渇愛という誤ったはげしい欲求により、取著(しゅじゃく)という実際行動が起こる。
(4)それ故に有(生存)が終息せず、生老病死の苦しみが生起する。
ということになります。
 
このように、人間苦の生起に対する大いなる疑問の解答を得た釈尊は、次に「何等無きが故に老死無く、何等滅す故老死滅す。」と、その思索を人間苦の滅尽に向けるのです。
 
そして、「生無きが故に老死無し、生滅するが故に老死滅す、有無きが故に生無し、有滅するが故に生滅す。(以下、取、愛、受、觸、六入、名色、識、行とつづく)、癡(ち・無明)無きが故に行無し、癡滅するが故に行滅す。」と、純粋にして大いなる苦の集まりは滅する(純大苦聚滅)性質のものであることを知るのです。それに基づき、「此無故彼無、此滅故彼滅。(これ無きが故にかれ無し。これ滅するが故にかれ滅す。)」(『長阿含経』巻第一(一))という後段のフレーズが生まれます。
 
このように、老死・生・有と逆に観を修することを「逆観」といいますが、これも簡単な図式を以てすれば、「無知なし(無明なし)~執着なし~苦しみなし」【逆観】ということになります。
釈尊は、この順逆の縁起の中に苦の成立と集と滅と滅道跡を見て、「我れ此の法に於いて、自ら知り自ら覚り、等正覚を成じた。」(『雑阿含経』巻第十二(三八七))と、自らの「さとり」の成就を声高らかに宣言されたのです。
                                     
特に、この逆観の縁起思想の中から、「無始の生死に於いて無明に覆われ愛結に繋せられ、長夜に輪廻して苦の本際を知らず。」と、無限に輪廻する存在である衆生が、現世における修行の実践において、「純大苦聚滅」(苦の滅尽、すなわち輪廻からの解脱)が可能であるということと、
 
釈尊が自ら解脱を成就し、「なすべきことをなし終え、再び後の生存を受けない。」(『雑阿含経』巻第十(二七二))という自覚を得たとする、仏教史上極めて重要な二つの論理的根拠を読み取ることができ、それらから輪廻と業の超越を目指す仏教の理論と実践は、全てこの「十二支縁起の覚りが出発点になっている。」と考える事が出来るのです。
 
 
第2節 十二支縁起と法(ダルマ)
 
前述したように、釈尊のさとりし縁起とは全ての存在は因と縁との結合によって成立していると考えることです。
因とは、「原因になっているもの。結果をつくるもの。もとになるもの。」であり、縁とは、「すべてのものに因果の法則が支配しているのであるが、その果を生ずる因を助成する事情、条件、すなわち間接的原因を縁という。」ことです。
 
この縁における因果とは、「原因があれば必ず結果があり、結果があれば必ず原因があるというのが因果の理、あらゆるものは因果の法則によって生滅変化する。」ということであり、ここに仏教の説く「法」(ダルマ)の何たるかが理解されるのです。


*法津如来のコメント

今回のこのコメントは、石法如来の特別寄稿とは関係なにのですが、次のようなコメントを頂きましたのでここに、記載いたします。

「庵治歳
2021/06/21 21:49

ワンギーサ様、輪廻と細菌の関係について・・・たのしく読ませていただきました。 紫陽花の花の色づき始めたこのごろ、年のせいか徒然にほとけを想います。 仏陀の説かれた悟りとは、二度と母体に戻らないこと(輪廻しないこと) とお聞きした覚えがありますが もしも、もしもですよ 無菌室のようなところで余生を過ごすことができれば 二度と輪廻せずに済むのではありませんか? 形式ばった、カリキュラムじみた修行より 科学が効果があるということでしょうか。 残り少ない人生、寄り道なく悟れればこんな幸せはありません。 ほとけの腕の中で幼子のように眠れれれば 凡夫の私など百点満点ではないかとも思うのですが。」

以上です。
庵治歳様、コメントありがとうございます。


輪廻転生にウイルス関与の可能性はあるか?

昨日、「輪廻転生にはウイルスが関与しているのではないか?」と書きましたが、どういうことかと疑問に思われている方も多いでしょうから、私なりの説明をしましょう。

ウイルスは簡単にいえば遺伝子(DNAまたはRNA)が膜で覆われているものです。

両親の遺伝子が生殖細胞によって、子供に伝播することは、輪廻とは言わず、単なる遺伝と言います。

そうではなくて、ある個人の情報が、その個人の肉体が死滅した後に、次の世代に伝播することができれば、それは輪廻転生したと言えるのではないでしょうか。

生前に、あるウイルスがある個人の遺伝情報を取り込み、それをコピーして、増殖して、他の生命に伝播したならば、それは輪廻転生と言えるのではないかということです。

輪廻が有るか無いかの検証のために、幼い子供の記憶のなかに、その子の生まれる前の出来事があったのならば、それを輪廻の証拠とする調査がいくつか発表されています。

そのような記憶をウイルスが伝播してる可能性があるのではないかということです。

これは、いわゆる魂が生まれ変わるのではないのですが、生前の個人の情報が、死後に他の生命に伝播することになるのではないでしょうか。

遺伝子情報の発現は、身体の中で行われている現象ですが、意識できないことで、無意識の働きなのです。

ただし、輪廻転生はいかなるものであろうとも、覚りに至る修行とは直接関係ありません。


輪廻転生にはウイルスが関与しているのではないか?

コロナ禍の中で、ウイルスについて考えることが多くなりました。

ウイルスといえば、新型コロナウイルスやインフレエンザウイルスの他、麻疹のウイルス、帯状疱疹のウイルス、ノルウイルスなど病気を引き起こすウイルスを思いだします。

しかし、多くのウイルスは人間や動植物には無害で共存しているのです。

そうでなければ、他の動物や植物や細菌の細胞のなかで増殖するウイルスは、宿主が死んでしまうために、生存できなくなるからです。

実は、ウイルスは私たちのまわりにいっぱい存在していると言われています。空気中にも水中に浮遊しているし、人間の皮膚にも髪の毛にも付着しているし、体内に兆単位で存在していると言われています。

ウイルスより桁違いに大きい細菌ですら、アンナ・コリンは著書「あなたの体は9割が細菌」(河出書房新社)で、細菌の数の多さを述べていますが、ウイルスの数はそれ以上に多いのは当然でしょう。

それらのウイルスは、自分の子孫をつくる仕組みを持たないで、他の生物の機能を活用して、自分のコピーを増殖する遺伝子だけの存在なのです。

ただそれだけであるならば、そのような存在は、多くの寄生生物の存在が知られていますから、納得できますが、ウイルスにはそれ以上のことがあるのです。

2003年、十数年がかりの国際プロジェクトで、約30億という膨大な塩基対を読み取って、ヒトゲノム(ヒトのDNA塩基配列)が解読されました。

その結果、ヒトゲノム全体の半分以上がウイルスに由来するのではないかと考えられる塩基配列であることが判明されたということです。
(武村政春著「ヒトがいまあるのはウイルスのおかげ!」さくら舎、より)

さらに、その著者は次のように述べています。

「ヒトゲノムの半分以上がウイルス由来というならば、ヒトは『雑多なウイルスの遺伝子の寄せ集め』といえるわけですが。」

「通常、遺伝子は親から子へと同じ種のなかで伝わるものですが、まったく無関係の、他の生物種へ遺伝子へ遺伝子が移動する『水平移動(水平伝播)』という現象が知られています。これは生物進化の原動力のひとつであり、どうやらウイルスが関与しているようです。」

ここからは、私の憶測ですが、輪廻転生にはウイルスが関与しているのではないか?と思えるのです。


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その1)

第一章 十二支縁起の「さとり」
第一節 苦の生起と滅尽
 
私は過去、佛教大学の卒業論文として『十二支縁起の考察』を書きました。今回は、その論文を読みやすく理解しやすいよう少しアレンジして書いてみたいと存じます。
ただ内容的には、原始仏教経典による仏教理論に基づく解説でありやや難解です。また、SRKWブッダの説く「覚りにいたる教え」とすべて同調するものではありません。
 
※以下本文
釈尊が活躍した、2500年前のインドでは初期のウパニシャッドにおいて、人間の死後の再生を問題にした「輪廻(りんね)」の思想が定着した時代であり、様々な説をのべる宗教的指導者(沙門・自由思想家)が数多く登場していました。
 
インド人はもともと宗教的な民族でありましたが、ガンジス河畔に定着して以後は、輪廻転生の信仰をいだき、人間を含む生類は永久に流転輪廻の生涯を繰り返すと考え、しかもその信仰を切実に身に感じていたのです。
 
このような考えを受け原始仏教においても、人間が生まれ老い死ぬこと、そしてこの過程を無限に繰り返すこと・・・それを「輪廻」(流転・生死)と呼んでいました。そして、この輪廻の姿を如実に知り、生死を超越した人こそブッダ(目覚めた人)であるとしたのです。
 
「あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼし尽くすに至った人、かれを〈目覚めた人〉(ブッダ)という。」(『スッタニパータ』五一七)
 
更に、この輪廻説が人々の間に浸透するにつれて、次の生存を規定する要因は何かが問われるのは必然の勢いでありました。
ある者はよい境遇に再生し、ある者は好ましくない境遇に再生するのはどのような要因が働くのか。この問いに対する答えとして、業(ごう・カルマ・行為)の思想が成熟したのです。
 
「世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし行ける者は業(行為)に束縛されている。・・・進みゆく車が轄(くさび)に結ばれているように。」(『スッタニパータ』)六五四)
 
このように、輪廻説・業説に基づく釈尊の全ての教説は、仏教の人生観上最も意義を帯びるもので、これを離れては人生の種々相を説明することも出来なければ、進んではその理想の帰結をも明らかに出来ぬほどの意味があると考えられたのです。
 
では、釈尊はブッダガヤ-の菩提樹の下で何を「覚った」のか。実に、この問題については諸説ありはっきりしません。
しかし経典に、「その時、菩薩逆順に十二因縁を観じ、如実に知り如実に見るのみ、すなわち座上において、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい(ほとけのさとり))を成ず。」(『長阿含経』巻第一(一))とあることから、「さとり」と「縁起」とは密接な関連があることは間違いありません。
 
縁起とは、「他との関係が縁となって生起すること。(Aに)縁って(Bが)起こること。よって生ずることの意で、すべての現象は無数の原因(因)や条件(縁)が相互に関係しあって成立しているものであり、独立自在のものではなく、諸条件や原因がなくなれば、結果もおのずとなくなるということ。」と表現出来ます。
 
では、菩提樹下で釈尊がさとった縁起とは一体どの様なものであったのでしょうか。
その問いに対する答えは、縁起を簡潔に表現するフレーズ「此有故彼有。此起故彼起。此無故彼無。此滅故彼滅。(これが有るが故にかれ有り。これ起こるが故にかれ起こる。これが無きが故にかれ無し。これ滅するが故にかれ滅す)」の中にあるのです。


*法津如来のコメント

今回の石法如来の特別投稿「(十二支)縁起の考察」は、13回に分けての連載になる予定です。

三日おきの投稿なる予定だそうです。

また、この連載をお楽しみください。



 

砂糖には麻薬なみの依存性あり

昨日、「特に甘いものの取りすぎは、いろいろ問題があります。」と書きましたが、その具体例として、

「砂糖は麻薬並みの依存性あり! ジュースの飲みすぎは危険!?」という記事を紹介します。
https://www.mrso.jp/colorda/medical/3115/

この記事は白澤卓二氏、アンチエイジング研究の第一人者で、順天堂大学院医学研究科で教鞭を取っている方です。

コーラなどの炭酸飲料やスポーツドリンクに含まれる砂糖や果糖などの糖質は肥満を引き起こし、歯を溶かすことはよく知られていること。

砂糖の多いソフトドリンクは、WHO(世界保健機関)/FAO(国連食糧農業機関)の2003年のレポートでも肥満と虫歯が増加すると指摘されている。しかも飲料水中の砂糖の濃度が一定濃度を超えると中毒症状を示し、麻薬並みの依存性が発生することが動物実験で示されたとしています。

さらに、砂糖中毒により、人間の行動や社会性が変容する可能性もある。実際、米国では炭酸飲料水の飲み過ぎで若者が「攻撃的」になっている可能性が指摘されているのだと述べています。

要略は以上ですが、砂糖などの糖質が人間の精神に与える影響を考察します。

脳が血糖値低下を感知すると、副腎、膵臓、下垂体、甲状腺に働きかけ、副腎はアドレナリンとコルチソールを、膵臓はグルカゴンを、下垂体は成長ホルモンを、甲状腺は甲状腺ホルモンを分泌して、すばやく血糖値を正常にもどします。

血糖値の低下は生命の危機なので、アドレナリンなどの五種類のホルモンが分泌されるのですが、これは精神の興奮状態を作るのです。これがいわゆるキレやすい人間をつくるのです。

血糖値が高くなるとインシュリンが分泌されますが、インシュリンの本来の目的は、血糖値を下げるというよりは、体に余分は糖質を脂肪に変えて蓄積するためのものです。(人類の長い歴史の中では、高血糖という状態はほとんどなかったのです。)

それでも血糖値が上昇すると、インシュリンが分泌されますので、血糖値が下がり、そうするとアドレナリンなどが分泌され、体と精神が興奮するのです。アドレナリンは怒りのホルモンというべきものなのです。

この異常な繰り返しは、インスリン抵抗性という現象をひきおこします。

すい臓からインスリンが血液中に分泌されていても肝臓、骨格筋、脂肪組織でのインスリンに対する反応が鈍くなっている(感受性低下)ために、インスリンの血糖を下げる働きが十分に発揮されない(インスリンの効きが悪い)状態のことです。

空腹時に甘いものを食べると、血糖値が急上昇し、インシュリンが過剰に分泌され、アドレナリンなどのホルモンが過剰に分泌され、精神の安定がそこなわれます。

血糖値の安定は精神の安定に繋がるのです。



食生活を改善すること

身体には自分の意思で動かせる部分と自分の意思では動かせない部分があります。

この自分の意思では動かせない部分でも、身体全体の調和を保つために機能しています。

例えば、身体にバイ菌やウイルスが入るとそれらの悪影響を排除するために、免疫作用が働いて、発熱したりたり、咳がでたり、吐いたり、下痢をすることがあります。

このような、身体にとって異常事態でなくても、身体の恒常性をたもつために、自分で意識しなくとも、無数と言ってもいいほどの機能が働いています。

それほど、難しいことを考えなくとも、いつでも呼吸して、いつでも心臓は動いています。

これらは、無意識が働いているのです。

無意識が心を支配していると書きましたが、心が無意識を支配することがあるのです。

例えば、心に怒りを持つと、呼吸が荒くなり、心拍数が上がり、消化器の機能は停止します。

逆に心が穏やかになり、呼吸落ち着き、心拍数も少なくなり、消化器は働き始めるのです。

これらのことは、いろいろなホルモンの作用と関連していることが明らかにされています。

無意識に直接作用して、無意識を変えることはできませんが、間接的に無意識を変えることはできそうです。

今私が考えていることは、食生活を改善することです。

暴飲暴食では、心の平静はたもてません。

もう一つ、特に甘いものの取りすぎは、いろいろ問題があります。

以前、「甘いもの(糖分)は毒だ」について書いた記憶があります。


過去は変えられる

「過去は変えられる」など、できないことだと思っているでしょう。

しかし、実はそうではないのです。

過去はどのように存在するのでしょうか?

記憶の中に存在するのです。

過去とは体験や経験の記憶だと言ってよいでしょう。

ですから、記憶が変われば、過去は変わるということです。

ここで、いくつか問題があるのです。

そもそも、記憶は変えられるでしょうか?

他人にいろいろ言われても、自分の体験や経験はそんなに簡単に変えられません。

体験や経験にはその時の体感や感情が結びついているからです。

また、多くの記憶は忘れるということがあります。
忘れてしまえば、過去はなくなるのでしょうか?

ここでは顕在意識という言葉を使いますが、顕在意識では忘れていても、潜在意識は忘れていないのです。

潜在意識の記憶は忘れずにその人を支配します。

これが昨日書いた、無意識が心を支配しているということです。

ただ、無意識の記憶は正しいのでしょうか?

上で、「体験や経験にはその時の体感や感情が結びついている」と書きましたが、その時の感情は事実の誤認や解釈の誤りからも起こるのです。

例えば、父親の怒られて、父親は自分を憎んでいるのだと思って心に傷をもった子供が、実は父親は自分を愛しているので怒ったのだと知ったとき、無意識の記憶も変わるのです。

これが過去が変わったということです。

人は、いろいろなこだわりを無意識に溜め込んで、自分や他人や世界を解釈しますから、多くの場合間違っているのです。そのことを知る必要があります。


わかちゃいるけど、やめられない

「わかちゃいるけど、やめられない」という言葉があります。

一方、「三日坊主」という言葉もあります。これは良いとわかっていても、やめてしまうということです。

前者はやめられないということですが、後者はやめてしまうということです。

しかし、どちらも自分の意思と反対の結果になってしまうということです。

なぜでしょうか?

それは心は自分の意思とは異なるものに支配されているからです。

心を支配しているものとは何でしょう。

それは無意識と言われるものです。

無意識という言葉の定義はいろいろありますが、潜在意識や深層意識と言われるものです。

それに対する言葉としては意識、顕在意識、表層意識となります。

厄介なことに、無意識ですから、自分では意識できないのです。

ということで、「わかちゃいるけど、やめられない」では、意識はやめたいと思っているが、無意識はやめたいと思っていないということです。

また、「三日坊主」は無意識はやりたくないから三日でやめるのです。

ですから、意識できない無意識は何をしたいのか知ることが大切です。

それは本当の自分の気持ちを知ることなのです。

ただ、ここには少し複雑な事情があります。

まず本当の気持ちは無意識ですから、なかなか知ることができないのです。

無意識は、自分に不都合な事実は隠し、捻じ曲げるのです。

また、その気持ちは無意識の未熟な判断によって作られたものなのです。

それはほとんど間違っているのです。

間違った判断によって支配されれば、人ば苦しむことになるのです。

ですから、人が苦しんでいるのは、自分の無意識の間違った判断によって苦しんでいるのだと知る必要があるのです。

そのことが理解できれば、自分の無意識を探求するのです。

無意識は自分の背中のようなもので、自分には見えませんが、他人にはある程度見える場合があります。

信頼できる人に、自分の癖や自分の長所や短所を聞いてみるのです。

聞かなくとも、自分の言行に対して他人がどのように反応するのか注意深く観察すればある程度わかります。しかし、この判断は自分の主観的な判断ですから、おうおうにして間違います。

また、自分の過去の言行を思い出してみるのです。過去の出来事ですから、少し客観的に考察できます。
これは、省察や観(=止観)につながります。

善知識(=善友)の発する法の句は、自分の無意識を知り、それを改善する最高のものです。

石法如来の特別寄稿:「新型コロナウィルス」という詐欺?

現在巷では、新型コロナウィルスなるものが流行っていると騒いでおりますが本当でしょうか?私は、昨年の早い時期から今回のパンデミックを追っていて、当初最悪のことを想定し心底こわいものが出現したと怖れましたが、時間の経過とともにそれは杞憂であったと考えを改めました。
 
日本において、新型コロナウィルスで死亡されたとされる方は、累計で14,044人(6月12日現在)です。この死亡者数に関して、様々な思いはあると存じますが(日本におけるコロナ)死亡ランキンクは30数位であり、断とつ1位のガン死者数(一日)約1,000人から見たら相当見劣りします。それを、「新型コロナ以外病気にあらず」位の勢いでマスコミは連日大騒ぎしています。
 
何より、コロナ死とされ数えられる死者の中には、仮に交通事故で亡くなったとしても死亡後の(PCR)検査でコロナ陽性が確認されたら「コロナ死」と算定されるので、その数は相当水増しされていると想像出来ます。
 
今回、記事の表題を「新型コロナウィルスという詐欺?」とやや誇張したものにしましたが、それには理由があります。それは、新型コロナウィルスの存在に関し(世界的に)明確な証明が存在していないという事実です。
この話は、以前紹介したことがある徳島大学名誉教授・大橋眞氏の動画の中でも同じことが語られております。
 
今回、参考動画として挙げたNOVOクリニック院長の龍見昇(たつみのぼる)氏の動画「567(コロナ)の存在はまだ証明されていない」は、とても理解しやすい内容になっております。
内容的には、大橋名誉教授と大体同じですが真実を発信している人が、それなりに存在するという事実こそ重要だと考えます。
 
騒動の大元である、新型コロナウィルスの存在そのものが疑問なのに「なぜ、この様な大きな騒ぎになっているのか?」、全く頭を傾げざるを得ませんが新型コロナウィルス以外の原因により「原因不明の病気が発生?」し、感染者・死者が出ているとしか考えられません。(よく分かりませんが・。)
 
新型コロナウィルス存在の明確な証明が出来ないなら、PCRにおける検査も新型コロナワクチン接種も全く意味を成さなくなります。
今流行の、「変異株」という概念も同じことです。原型となるウィルスの存在が未確認なのに、変異株なるものの存在?など何の意味も持ちません。
 
この様な事実を鑑みて、「新型コロナウィルスは詐欺?」と表現しているのです。
 
参考動画の紹介
 
https://www.youtube.com/watch?v=oSQgld5aklg
567の存在はまだ証明されていないNCTV#080
NOVOクリニック:龍見昇氏
 
https://www.bitchute.com/video/4nZ7mCblGjwf/
最も重要なCOVIDワクチンビデオ(世界医師連盟に属する33名の医師の訴え)
※この動画は以前も紹介しましたが、新型コロナウィルスの存在が明確ではないという観点をもち拝聴すると、更に良く内容が理解出来ます。
 
https://www.youtube.com/watch?v=PYfNnh5b0wE
元ファイザー副社長、マイケル・イードン氏の訴え「私を信じてください」


*法津如来のコメント

「新型コロナウィルス」という詐欺?・・・というかなり過激な題名も参考動画を見れば納得できます。

特に、三番目の「元ファイザー副社長、マイケル・イードン氏の訴え『私を信じてください』」という動画は、科学者である元ファイザー副社長が、コロナワクチンをいう言葉を使わずに、この言葉を使うとユーチューブの動画は消去されるからですが、彼の良心からの必死の叫びを感じることができます。

石法如来の言説を受け入れられない読者も一度だけでも、これらの動画を見てください。その上で、どのように判断するかは、もちろん、あなた方の自由です。


別のある読者からのメール

今日は少し話題を変えて、またある読者からのメールを引用します。
数日前に、ある方から電話を頂きました。彼は私のブログのことで聞きたいことがあるということでした。そのことはともかくとして、話がはずんで2時間ほど話しました。彼は大阪に住まわれているということですが、今は新型コロナの影響で出身地の北海道帯広に居られるということです。66歳だそうです。

いろいろ話しましたが、現在の境地をまとめてメールをしてくださいとお願いしたところ、次のようにメールしてくれました。それを掲載します。もちろん彼の了承済みです。

(以下引用)
あれから閃くままに記しました。此れをキリスト教徒は神の造物、仏教徒は御縁と言うのではないでしょうか。

なんにもないという事を理性で論理的に理解する。これは万人に可能である。辻褄合わせだからである。そして、何にもないという事実を体で体感する。この体感が理性に於ける論理的理解の証拠になる。また、無の体感の完全なる証拠は苦行放棄である。放棄を滅却、止滅の語彙に置き換えても何ら差し障りがない。

信心とは信用、信じる等の響きを利用して仏陀の自内証を知的位相の低い人々のために考案された方便である。すなわち、近づけるためである。仏陀の内証は仏陀自信も解らないからである。忘我だからである。

仏教理解に頭入らない。あるとないが解ればいい。

此れは鬱、苦のの暴流である。此れが涅槃の暴流である。
亦、彼も亦、常楽我浄の暴流である。彼とは眼界である。

涅槃寂静とは一点に於ける集中の先に起こる忘却である。忘却だから、その時はその一点の意識は意識されない。忘却だから。が、忘却が去ると一点が意識される。これが涅槃寂静の周辺である。しかしながら、確実な事が的確に言える事実証拠がある。この時、微塵の苦悩も認められない。菩提薩埵は此れを究竟とする。亦、三世諸仏は涅槃寂静の周辺に住する。だから、得阿耨多羅三藐三菩提無上正等覚となり上が無い正しい等、すなわちなどの覚といわれる。などとは一点の意識と一点の忘却である。

他人の幸せが身悶えするほど妬ましい。亦。他人の姿は身悶えするほど苦しい。だから、苦滅を実行し他人になる。他人とは勝利、富、乞食、等等、数多く存する。

道元が言う自己習うと言うは境界相、能見相、無明業相、根本煩悩等を四心不乱に思惟観想する事を言う。が、道元はこの一部分の習うである。
道元の習う自己はは自燈明法燈明である。前記に従えば根本煩悩境界相の二心不乱の観想である。不乱だから一心の一でもよい。

唯識と大乗起信論、前者は輪廻の主体として、阿頼耶識にその特色としての性格をあたえた。論師のある意図がある。唯識は迷いから悟りである。菩薩の命がけの瑜伽行の心の支えである。奥深い猛獣の存する山林にて瑜伽行が行じられるからである。空腹の虎への釈迦の供養が釈迦前世の成仏の必須条件としての善業が菩薩の取捨身命の一大決心を余儀なくするからである。だから、阿頼耶識は輪廻の主体として信受されるのである。ここに命懸けの、否、命を捨てた瑜伽行の姿がある。

 亦、起信論に於いては輪廻の主体は無い。その代わり西方極楽浄土が落ちこぼれの受け皿になっている。このための起信である。華厳に仏凡夫衆生無差別とある。だから、起信でもいいし不起信でもいい。依言真如に如実空如実不空があるのと同義である。が、凡夫はそうはいかん。だから起信なのだ。どちらでもいい。何ら問題は無い。大乗でも良いし阿弥陀仏への起信による西方極楽浄土往生でもいいのだ。起信の姿勢が最重要眼目なのである。この姿勢があれば落ちこぼれは全く関係ない。仏教が実践の行為のと言われる所以である。大乗仏教にはあらゆる仏様が救済の目を光らせている。死してさえその受け皿が用意されているではないか。何を狼狽えているのだ。大船に乗った気分でおれば良い。当に大乗である。死して仏になるも、生きながら成仏するも何ら変わりはない。生きて仏になれば此処が西方極楽浄土である。

 法津如来に幸あれ

(以上引用)

メールの最後に可愛い絵文字が記されていたのですが、残念ながらこのブログでは表示されませんでした。


石法如来の特別寄稿:新型コロナウィルスとADE(その3)

ADE(抗体依存性感染増強)は、新型コロナウィルス騒動で今後着目されるであろう重要な事象なので、もう一度おさらいします。
 
参考動画として紹介している、「新型コロナウィルス 11 ADE」-悪玉抗体は何をするのか【KOZOの超植物チャンネル】の字幕を文字起こししましたので何度もお読み下さい。 
                                     
(以下、文字起こし)
「交叉免疫とは、過去に別の病気で高まった免疫力が、新型コロナにも効いてくるというもの。ADE(抗体依存性感染増強)とは、その逆のことが起こるという話です。新しく入ってきたウィルスを、より異常に暴れさせる。侵入時に、ウィルスを抑えてくれない・・・それが、ADE現象です。
 
普通は、ウィルスが入ると抗体が出来て、もう一度同じものが入るとそのウィルスを抑えるが、変なものが出来るとウィルスを増殖するように働く・・・これを感染増強抗体と言います。いわゆる、悪性(悪玉)抗体のことです。
 
ウィルスを抑えてくれるのは中和(善玉)抗体、悪性の抗体が出来てくると何が起こるか?・・・普通抗体はウィルスにくっついて、ウィルスが細胞に侵入しないようにして、ウィルスの働きを止めてくれる。あるいは、ウィルスにマーキングしてくれるので、免疫細胞がそれを頼りにウィルスを捕食しにきたり、攻撃のターゲットにしたりする。
 
悪性の抗体はそのようには働かないで、逆に感染を助長するように働くところが、この(悪玉抗体)の狂ったところです。
ウィルスについた悪性の抗体が、体の中の細胞にどんどん感染するし、場合によると免疫細胞にも感染していく方向に働く。
 
白血球などの免疫細胞がウィルスに感染すると、白血球の中にウィルスが侵入してそこでウィルスが増殖している状態で、その白血球が体の中を攻撃していく。何種類かのパターンがあるようだが、わかりやすく言うと抗体や白血球の免疫系の部分は、体を守るための警察や軍隊のようなものなのに、そういうところに感染していって敵方に寝返らせてしまう。これが起こると手に負えない。
 
人間としては、免疫系をウィルスに乗っ取られてしまう。これが起こると急激に重症化する。新型コロナで、これが起きているかは研究途上であり、このメカニズム自体よく分かっていないところもあるが、エボラウィルスではADEは典型的に確認されている。あるところまで、メカニズムは分かっている。
 
エボラウィルスが入ってきたときに出来る抗体が、中和抗体とADEと両方出来上がる。中和抗体はウィルスを抑えるが、ADEの方は暴れる方向に動く。出来上がった抗体に、ADEが多いと全体に暴走が起こる。新型コロナでも、どうもこういうことが起きている可能性がある。また、この先にサイトカインストームが起きる可能性もある。
 
こういう悪性の抗体が非常に厄介だ。何回か前にも触れたが、獲得免疫で出来上がってくる抗体には、悪性の抗体と良性の中和抗体と役なし抗体のような関係のない抗体が(三種類)ある。
AIDSウィルスの時は、悪性でも中和でもない無関係なものがどんどん出来上がってくる。中和抗体が出来ないで、それ以外の抗体が出来るのは、これは大問題だ。
 
ウィルスがバックに霊的なものを抱えているとすると、この免疫系も人間の霊的エネルギー体の下部構造だが、それを狂わされてしまうという話なので、現在研究が進んでいるようだが、おそらく重症な状況にはADEも関係しているのではないか。どういう時に、これが起こりやすいかはまた別の話がある。
 
交叉免疫の話は、関係ないものが手伝ってくれるという全てハッピーな話だが、反逆するものがいるという話なので、人間社会を見ているようで、人間の世界を映して働いているようなところがある。
そういう話です。」(以上、文字起こし終わり)
 
参考動画
 
https://www.youtube.com/watch?v=OI4k5GG5rPo
第65回 「新型コロナウィルス 11 ADE」-悪玉抗体は何をするのか  
【KOZOの超植物チャンネル】                                       
 
最近、とても重要な動画がアップされていましたので紹介します。
https://www.youtube.com/watch?v=cT2XzSCLbfU
ファイザーの治験はまだ終わっていない
龍見 昇(たつみのぼる)氏・・・(NOVOクリニック院長:姫路市)
 
https://www.youtube.com/watch?v=zTrHel8ZnmQ
特番『今の検査は”おみくじ”だ!憲法13条違反!?』ゲスト:徳島大学名誉教授 医学博士 大橋眞氏 
                                                                                        
今回の連載記事は、(その3)で終了です。


*法津如来のコメント

今回、なぜ石法如来は、参考動画の「新型コロナウィルス 11 ADE」-悪玉抗体は何をするのか【KOZOの超植物チャンネル】の字幕を文字起こししましたのか疑問でしたが、この動画を見ればよくわかりました。

確かに、新型コロナウィルスワクチンについて知れば知るほど、それを摂取することが危険なことかわかります。



石法如来の特別寄稿:新型コロナウィルスとADE(その2)

紹介した参考動画、「大阪大学が解明したADEのメカニズム」に、次のような警告がされています。「ワクチンで、感染増強抗体が出来てそれが身体に残っている。感染増強抗体を持つようになると、何回も何回もワクチンを打ち続けなければならなくなり、細胞破壊が起こる怖れがある」と・・・。
 
新型コロナウイルスのワクチン開発については、この感染症がパンデミック化した初期の段階から危ぶむ声が出ていました。その理由は、新型コロナウイルスが一本鎖プラス鎖のRNAウイルスであり、同タイプのウイルスにあってワクチン開発に成功した事例が全くなかったからです。
 
SARS(サーズ)もMARS(マーズ)も、それに対するワクチン開発は中長期的には深刻な抗体依存性免疫増強(ADE)が発生し、承認・実用化するには至りませんでした。
こうした前例がありましたので、誰もが短期間で新型コロナウイルスワクチンが登場してくるとは思いもしなかったのです。
 
ところが、新型コロナウイルスのパンデミック化から1年も経ずして、ファイザー社やモデルナ社・さらにはアストラゼネカ社など、アメリカ、イギリス、中国、ロシアといった軍事大国の大手製薬会社は相次いで新型コロナウイルスのワクチン開発に成功し、救世主の如く華々しく表舞台に登場して来たのです。
 
抗体依存性免疫増強(ADE)の現象は、自然感染の場合にも発生しますし遺伝子ワクチンであれ不活化ワクチンであれ、あらゆるタイプのワクチンにおいて発生するそうです。
いわば、ウイルスから分解生成される抗原に対する人体の抗体生成反応において生じる問題のようで、おそらく個々の体質によって善玉抗体(中和抗体)・悪玉抗体(AED抗体)、並びに、役なし抗体の出現比率が違っているのでしょう。
 
少なくとも「抗体」とは、全てがウイルスの細胞への感染を妨害する善玉とは限らず、その構成比率あるいは、出現比率よってウイルスへの対抗能力に違いが生じるらしいのです(なお、この比率は、時間の経過によって変化するらしく、仮に変化するものであれば、長期的な治験は不可欠なはず…)。このため、感染であれワクチン接種であれ全員とは言わないまでも一部の人々は、同ウイルスに接した際に3倍感染し易くなることが予測されます。
 
報道によりますと、日本国内でワクチン接種後に亡くなられた方は既に85名(5月26日現在)にも上っているようですが、政府は一向にワクチン接種推進の方針を見直す気配は見られません。
ワクチンと死亡者との関連性も政府が認めるとは思えず、結局政府も製薬会社も何らの責任を取ることもなく、煽られるままに摂取した国民の自己責任ということで片づけられてしまいそうです。
 
自らの判断による任意の接種であればこそ、国民はマイナス情報をも積極的に収集し、賢明なる判断をすべきです。
 
最後に、インドでコロナウィルスの感染爆発が報道され、興味を持っておりましたが急激に感染・死者数が減少してきているようです。
その理由は、日本発の治療薬「イベルメクチン」の投与にあるようで、今後世界的なコロナ騒動の救世主になるのではないか?と注目されていますので、参考動画・文献を掲載しました。
 
参考動画の紹介
 
https://www.youtube.com/watch?v=gpHRtvGQEp0
2021.05.28【ワクチン】ノーベル賞生物学者らが警鐘‼️「変異種はワクチンよって作られた!ワクチン接種で感染悪化・重症化、そして2年以内に…?」及川久幸氏
 
https://www.youtube.com/watch?v=KDkBGoSQ0Xc
コロナ イベルメクチンがやっぱり効く 大村智教授 ノーベル賞受賞 オンコセルカ症 重い副作用がない アフリカ事例 死者数に13倍の差 死亡率74%改善 37億人に投与済み
社長のメンター・さかうえひとし・坂上仁志
 
https://dot.asahi.com/dot/2021052600033.html?page=1
日本発「イベルメクチン」 インドがコロナ治療で感染者数減もWHO「反対」のナゼ
AERA・ドットメルマガ


*法津如来のコメント

私も一つ、新型コロナワクチンの問題点に関するわかりやすい動画を見つけましたので、ご紹介します。
💖😙教えて徳先生💞🐱
https://www.youtube.com/watch?v=IatKbgGvpgc


石法如来の特別寄稿:新型コロナウィルスとADE(その1)

この記事を書くきっかけとなったのは、法津如来のブログ読者Hさんからからの一通のメールです。そこに、「新型コロナウイルスの’悪玉抗体’発見の波紋-ワクチンはやはり危ない?」という紹介記事がありました。
 
法津如来が、私にも関係しているということでメールを転送して頂き、早速記事を拝見致しましたら内容が重要なので記事を書くことにしました。
表題は、「新型コロナウィルスとADE」としましたが、この「ADE(抗体依存性感染増強)」こそいずれクローズアップされるコロナ問題であるという観点から名付けました。
 
ただ、内容的には難しく適切に表現出来かねますが、何度も文章を読まれたり動画を見られると「ただならぬこと」が起きていると感じることが出来るはずです。
 
因みにADEとは、「抗体依存性感染増強」を指します。本来、ウイルスなどから身体を守るはずの抗体が、あろうことか免疫細胞などへウイルス感染を促進するよう働き、ウイルスに感染した免疫細胞が暴走し更に症状を悪化させてしまうという現象を言います。なお、ADEの詳細なメカニズムについては未だ不明のようです。
 
Hさんから紹介された記事は、大阪大学の研究グループによって新型コロナウィルスに存在する「悪玉抗体」が突き止められたというニュースです。この発見は世界初の快挙であり、研究成果は2021年5月24日米国科学雑誌CeLLに掲載された模様です。                                                              
現在日本では、国を挙げてコロナワクチン接種を推進しておりますが、上記の研究事実からワクチン接種により抗体が生成されたからと言って、手放しで喜んでよい状況には無いと考えられます。
 
抗体には、ウィルスからの感染を促進したり更に病状を悪化させてしまう「悪玉抗体」が存在しており、研究グループは6種類の悪玉抗体を発見したと報じています。
その悪玉抗体は、新型コロナウィルスのスパイク部分(王冠部分のトゲトゲに例えられる)の先端部分を変質させ、受容体(ACE2)との結合力を3倍強めてしまうようです。
 
もしそうなら、普通に考え感染力は3倍強まると言うことで、この現象は現在日本で騒がれている「変異株」の感染力アップの理屈によく似ています。
肝心な箇所は、重症化された人(重症化した人)ほどこの「悪玉抗体を保有している」率が高いようで、重症化と悪玉抗体の関係性がエビデンス(証拠・根拠)を伴って半ば証明されたも同然と考えられるということです。
 
「感染増強抗体による感染性の増加」は、抗体によるスパイクタンパク質への直接的な影響であり、今までに知られていた「抗体依存性感染増強(ADE)」とは全く異なる新たなメカニズムが存在することが判明しました。(詳しいことは分かりませんが、そういうことみたいです。)
 
非感染者においても、低レベルの感染増強抗体を持っている人が存在することが明らかになりました。既に感染増強抗体を持っている人では、「感染やワクチンの接種」により感染増強抗体の産生が高まる可能性が考えられるようです。
 
感染増強抗体の認識部位は、現行のワクチン抗原にも含まれているので「感染増強抗体の産生を誘導しないワクチン抗原を開発することが望ましい」と述べられています。(たしかに、その方がはるかに安全です。)
また、本研究で明らかになった感染増強抗体の認識部位を改変することで、「感染増強抗体の産生を誘導しないワクチン開発が可能になる」と期待が述べられています。
 
参考文献・動画
 
https://blog.goo.ne.jp/kuranishimasako/e/7cc5909ee694691745d9cba3b7f72ee5
新型コロナウィルスの悪玉抗体発見の波紋-ワクチンはやはり危ない?
万国時事周覧さんの記事です。
 
https://www.youtube.com/watch?v=7KBifXemcjg
大阪大学が解明したADEのメカニズム
JPsikahaunter(北海道札幌市在住の開業医)さんの動画です。
 
https://www.youtube.com/watch?v=v_ukp6Fp5Vk
まーてるちゃんねる♬ 第5世代までの動物実験の公表してないのはおかしい!
沖縄・宮城歯科クリニック院長・宮城正照氏


*法津如来のコメント

ADE(抗体依存性感染増強)とは、何か難しいそうな言葉ですが、今多くの人々が打ちたがっている新型コロナウイルスのワクチンで、この現象が起こるのであれば、確かに「ただならぬこと」です。

ですから、無視せずに知る必要があるのです。

このテーマは3回氏シリーズになるそうです。


「空腹」こそ最強のクスリ

おととい、ブッダは食に関して、ブッダは次のように述べていると書きました。

「人はつねにみずから懸念して
 量を知って食をとるがよい
 さすれば、苦しむことすくなく
 老いゆることおそく、寿を保たん」

この科学的理由が、2016年のノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅栄誉教授の「オートファジー」の研究で明らかになりました。
https://www.titech.ac.jp/news/2016/036467

時間のない方には、「【10分でわかる】「空腹」こそ最強のクスリ 【オートファジー最強】」という動画もあります。
https://www.youtube.com/watch?v=6uIm_Xp1X-k

私が理解した概要は、次の通りです。

体内では1日におよそ200gのタンパク質が作られます。

材料となるアミノ酸は、食べ物から消化・吸収するのですが、人間が摂取しているタンパク質の量は70 gほどです。

足りない分は、一体どこから調達しているのでしょうか?

その答えを解くカギのひとつが、「オートファジー」です。

細胞は自らの細胞質成分(合成したタンパク質など)を食べて分解することでアミノ酸を得るのです。

この機能を、細胞内の「リサイクルシステム」とも言われる「オートファジー」なのです。

また、オートファジーという機能は、空腹により活性化するというのです。

オートファジーが活性化すれば、古くなった細胞成分は再活用されますが、そうでなければ、体の老廃物になって、体に蓄積されて、毒になり、病気になるのということです。

というわけで、食べ過ぎは病気の原因になり、空腹は健康のために必要なことなのです。


石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その7)

この章では、森田洋之医師の著書『うらやましい孤独死』を参考・引用しながら書き進めて行きますが、森田医師の研修医時代の話です。
 
(以下、参考・引用)
「ある中等度認知症のおばあさんは、食事を誤嚥したことによる発熱(誤嚥性肺炎)を何回か繰り返した後、病院と施設から胃ろうをいれることを勧められたそうです。
 
研修医だった森田医師は、本人の気持ちを聞いてみようとベッドサイドに言って本心を聞いたそうです。そうすると、彼女は言って良いか迷いながらこうつぶやいたと言います。
「本当は、おなかに穴を開けるのは嫌なんですよ。でも、もう決まってしまったことですからねぇ」
 
背筋を伸ばし、重ねた両手を上品に膝に置きながら座るその姿は気品を感じさせました。あれこれと話を聞くうちに、森田医師を信頼してくれたのか、更に話を続けました。
「できれば一度は自宅に帰って、あれこれ済ませておきたいものがあるんですけどね。それもなかなか難しいし・・・。」
 
胃ろうの穴を開けられた彼女はその3ヶ月後、寝たきりになりました。声は細くなり、綺麗に纏められていた髪は日に日に乱れていき、あの気品さは見る影もなく失われていきました。
誤嚥性肺炎を防ぐという名目で開けられたお腹の胃ろうの穴。それにもかかわらず彼女は何度も誤嚥性肺炎を繰り返しました。胃ろうは、一体何だったのでしょう。
 
その一年後、彼女は長期入院の末に亡くなりました。一度は自宅に帰りたいという彼女の希望はついに叶わなかったのです・・・。
 
また別のおじいさんは、3年間病院で寝たきり状態でした。
入院したのは、畑で転んで骨折し救急車で運ばれたことがきっかけだったようです。その後、病院での生活に張り合いをなくしたのか急に気力を失い、リハビリにも力が入らず、まもなくして寝たきりになってしまいました。
 
森田医師が出会ったとき、おじいさんの喉には器官切開の穴が開けられていました。24時間寝たきりで声も出ない、それでも意識はある。食事は胃ろうの管から注入されるだけで口からは何もはいらないのです。
24時間、ただただ天上を見つめるだけの生活でした。・・・喉に挿入されている管の交換作業をするとき、かれはいつも作業する森田医師をじろりと睨みました。
 
その視線は、まるでむこうにある宇宙を見ているかのようでひどく渇いたものでした。その視線に耐えられず、おじいさんととても目を合わすことなど出来なかったのです。」(以上、『うらやましい孤独死』87頁から89頁参考・引用)
 
この短い文章を読んで私は、人間の人生の終末期に「この仕打ち」は酷いなと正直感じました。しっかり自分自身の意思を表さなかった患者(本人)が悪いのか、家族に問題があるのか、管理しやすくした病院側の問題なのか?それは分かりません。
 
私自身も、老人に特化した病院の存在は知っています。考えようによっては、お世話になることもあり得るので、重宝であるとは言えます。
反面、患者の自由は勿論人格などあるはずもありません。病院の、治療・療養・介護という流れ作業に載せられるだけです。
 
今の時代、老人病院と言えど「管理社会」化が進んでおり、収益・効率のためなら患者の自由は(暗黙の中で)我慢してもらうというスタンスに見えて仕方ありません。
 
そう考えたら、私が実際に体験した親族の死はとても「穏やかで幸せなものだった」と言えます。
人間らしく日々過ごし、最後は自宅でゆっくり人生の幕を閉じる。・・・その様な、当たり前とも言える「穏やかな死は、とても贅沢で難しい」ものであるかのように感じるのは、私だけではないと存じます。
 
今回の連載記事は、(その7)で終了です。


*法津如来のコメント

石法如来のこのシリーズは今回で終わります。

石法如来ありがとうございました。

また、新たなシリーズの連載が予定されています。

楽しみです。


食べ過ぎ(大食)

食べ過ぎ(大食)について、ゴータマ・ブッダが述べたことを、増谷文雄編訳「阿含経典2」(ちくま学芸文庫)409p〜410p から引用します。

(以下引用)
大食

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なるアナータピンディカの園にましました。

そのころ、コーサラ国のパセナーディ王は、1ドーナ(大量の単位)の飲食を食することをつねとしておった。

そして、その時、コーサラ国のパセナーディ王は、食事を終わったばかりで、大息をつきながら世尊を訪ねられた。訪ねると、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。

すると、世尊は、そのコーサラ国のパセナーディ王が、食事を終わったばかりで、大息をついている姿を見て、その時、つぎのような偈を歌いたもうた。

「人はつねにみずから懸念して
 量を知って食をとるがよい
 さすれば、苦しむことすくなく
 老いゆることおそく、寿を保たん」

その時、ウッタラという少年が、コーサラ国のパセナーディ王のうしろに立っていた。すると、パセナーディ王は、その少年をかえりみていった。

「ウッタラよ、汝は、世尊のいまの偈を諳(そら)んじて、わたしの食事の時にいつも誦するがよい。そうすれば、わたしは、毎日百銭ずつ汝に与えるであろう」

「大王よ、かしこまりました」

ウッタラはそのように答えた。そして、世尊のその偈を諳んじ、それからは、王の食事のたびにその偈を唱えた。

「人はつねにみずから懸念して
 量を知って食をとるがよい
 さすれば、苦しむことすくなく
 老いゆることおそく、寿を保たん」

かくて、パセナーディ王は、しだいに1ナーリ(少量の単位)の飲食にて満足するようになった。

かくて、パセナーディ王は、しだいに身体もすこやかとなり、ある時のこと、その手をもってその身体を撫しながら、歓喜の声をあげていった。

「まことに、世尊は、二つの利益をもってわたしを恵みたもうた。わたし、世尊によって、現在の利益と、未来の利益とをうることができた」
(以上引用)

その他、ダンマパダ185偈には次のように、食事に関する注意が述べられています。

「罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。___これがもろもろのブッダの教えである。」(中村元訳)


石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その6)

日本の医療は、「市場原理」に委ねられておりシステム的にそれが全て悪いとは言えません。ただ、現在の日本のような緊急事態下において全く力が発揮されないのという状態は大きな問題です。
 
日常、私たちは自分自身の健康を守るために医療に色々お世話になっていますが、私は病院の医療行為に対して懐疑的な意見を持っています。
その事案を示すような文章がありますので引用します。(以下、引用)
 
「「医者は治療をすすめる」これは永遠に変わらない。
中村・・しかし人の意識ってなかなか変わらないですよね。
近藤・・10年のスパンじゃなかなか変わらないけど、30年後、50年後にどうなっているか。ただ「医者は治療をすすめる」。これは永遠に変わらないと思いますよ。そうしないと自分の食いぶちがなくなっちゃうんですから。本気で医療を信じている医者は、知識がないか、そう思い込みたいんでしょうね。
 
中村・・医療は素晴らしいものだって信じないと、つまらなくなっちゃうから考えないようにするんです。変な情報に毒されないように、接しないようにして。
近藤・・そうじゃないと医者としての迫力も、説得力も、なくなりますからね。
中村・・そうそう、不思議なもので、本人が信じてると言い方ひとつでも、ものすごく迫力があるでしょう。患者はその迫力に「ハハ~ッ」となっちゃう。
 
近藤・・新興宗教の教祖みたいなもので。
中村・・ぼくらみたいな医者は、迫力ないから患者にとっては不幸だ(笑い)。
 
近藤・・それにしても健診・検診は病人を作りだす、実にすぐれたシステムですよ。がん検診には意味がない、というデータが山ほどあるのに有効だと言い張ってがん健診を推進している。
医者の数はどんどん増えているけど、医療を必要とする患者さんの数は、そう増えない。だから、元気で、ごはんもうまいと思っている健康な人から病気を見つけ出そうとするんです。「ちゃんとがん対策をやっているように見せたい」という行政の思惑もあって。
 
中村・・行政がからんでいるから、事業所へはやかましく言いますよね。健診を受ける従業員のパーセンテージが低かったら、老人への拠出金が増えるとかあるから。
まあ、抗がん剤で治るがんもないわけではないから、早すぎる死を防がなきゃいけない繁殖期の人間はしょうがないでしょうけどね。
 
近藤・・しかし医学的には、働き盛りの人も健診を受けない方が長生きするんですよ。一例を上げると、フィンランドで境遇の似た中年男性を最初の5年間、600人は健診を受けさせて、体重、血圧、血糖値、コレステロールなどをぜんぶ理想の数値になるように管理して、別の600人を自由にさせた。すると15年後、健診組のほうが病死、事故死、自殺とも多かったというデータがあります。
原因は管理のストレスや、薬害ではないかと言われています。」(以上、『どうせ死ぬなら「がん」がいい』中村仁一・近藤誠共著・宝島社新書・114頁から116頁引用)
 
この会話のような出来事は、日本中の医療現場で実際に行われていると考えたほうが良さそうです。森田洋之医師も著書の中で、「集患」(しゅうかん・病院の利益確保のために患者をあつめる)が病院では当然のように行われていると書いています。
 
その中で、「集患」の対象となるのは高齢者だ・・・と。高齢者は、複数の疾患を抱え次第に要介護状態になり、最終的には死に至るからです。
本人の状態や思い・家族の介護力など総合的な判断で治療方針は決まると一般論では言いますが、医療・介護の素人である患者側の発言力は弱く、医師をはじめとした医療・介護従事者の判断が優先されがちになるのは事実です。
 
医者から、「この病気には、この治療が必要なのです」などと言われたらそれを拒否できる人は少ないでしょう。そう考えたら、病院・医者優位でこれほど「収益確保」がしやすい業界はほかにないと言えるのです。


*法津如来のコメント

まったく、この通りです。

私の鼻の下の小さなおできを、それは食べ過ぎですと診断してくれる医者は日本に何人いるでしょうか?

そう言ってくれる医者がいれば、その医者は間違いなく名医です。


鼻の下に小さなできもの

2ヶ月ほど前に、時々鼻の下に小さなできものができていました。

カミソリ負けかなと考えて、毎日剃っていた髭剃りを1日間隔にし、鼻の下はできものが治るまでは剃るのをやめました。

しかし、できものもは一旦消えますが、また再発するのです。

何が原因かよくわからなかたのですが、私は身体の作用は全て身体の自然治癒力の一貫だと考えていますので、これも身体に必要な作用だと考えると、身体が何か悪いものを出そうとしているのだと考えました。

では、何が問題なのだろうか?

食生活というものは家族の平和を保つために必要な共同生活と考えていますので、妻と一緒に朝、昼、夕と同じものをしっかりと食べてきました。また、小腹がすくと、バナナなどを間食していました。

以前、比丘(テーラワーダ仏教の僧侶)の時は、正午過ぎの食事は禁止されていましたから、基本1日2食の生活でした。

それが1日3食の食事は私にとって多過ぎたののでしょう。

そこで、妻との合意で、私は朝は少量の果物だけ、昼は妻は出かけることが多いので、私は自家製の豆乳ヨーグルトと梅干し一個とさつまいも或いはオートミルと納豆、夕食は妻が作る肉か魚を含む料理、漬物、サラダ、味噌汁とご飯一杯にしました。

ちなみに、食事の後片付けはすべて、私がやります。

また、間食はすべてやめました。

しばらくすると、できものは消えて、再発することはなくなったのです。

鼻の下のできものは食べ過ぎが原因だったのです。


石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と穏やかな死(その5)

森田洋之氏の著書、『うらやましい孤独死』を読むと色々興味深い話がでています。著者の森田氏は変わった経歴の持ち主で、一般大学を6年ほど通った後に医科大学に入学、卒業後初期研修(2年間)後期研修(3年間)を経て夕張市に赴く決意をします。
 
財政破綻した夕張市に行くきっかけとなったのは、先に夕張市で医療に従事していた村上智彦医師の書いた『村上スキーム』という著書で、予防医学や終末医療など病院医療に頼らない患者中心の地域医療というものに感心を持ったことがきっかけだったようです。
 
実際に夕張市に赴いたのは、財政破綻して2年後の2009年だったようで、夕張市の医療は私立総合病院171床から市立診療所19床に大幅に縮小されていたと言います。
夕張市は、莫大な負債(年40億円規模の税収に対して、約600億円の負債)を抱え、医療体制にも潤沢な資金を提供できる状態にはなかったようです。
 
約4年間、夕張市の医療に関わって学んだことは、①、総病床数が171床から19床に激減した。②、高齢化率は(日本一の)50%を超えた。③、それにも関わらず、夕張市民の総死亡率は変わらなかった。④、病死は減った、その代わり老衰死が増えた。⑤、救急出動が半減した。⑥、一人当たり高齢者医療費が減った。等々・・・。
 
森田医師は、財政破綻して病院がなくなった夕張市で起こったことは、決して悪いことばかりではなかったと言います。むしろ、これから超高齢化社会を迎える日本の道しるべとなるような良いデータが出ていると言います。
 
この著書の、この文章を読んで私は自分の娘の嫁ぎ先であるスウェーデンのことを思い浮かべていました。どうやら、財政破綻した夕張市と医療の環境が似ているようです。
話でしか聞いていませんが、スウェーデンでは日本のように病院が乱立している訳ではなく、緊急を要する患者を除き診療は予約制だと言います。
 
まず電話で、緊急性・病状などを告げると看護師が今後の処置を回答してくれるそうです。普通は、そこで電話予約して通院する手はずを整えます。
スウェーデンの場合は、医療費が無料の範囲も広く有料になっても収入により上限が決められており、医療費の負担は日本よりずっと少ないと言います。
 
日本人のように、簡単に病院にかかることが出来ないので多少不安はあるようですが、スウェーデン在住も10年を越え、今ではすっかりそのシステムに慣れたようです。
 
本当に大事なのは、日本の医療システムです。日本全国の病床数は150万もあり、一人当たりの病床数は世界で最も多い部類に入ります。
そんな世界有数のベット数を持つ日本が、現在流行中の新型コロナ感染症で「医療崩壊」がなぜ叫ばれているのか?という疑問が生じます。
 
その答えは、日本の場合は医療提供を国が管理するのではなくて、各病院の裁量に任せている=「市場原理」に任せている・・・というところにあるようです。
市場原理に任せると、たしかに病院同士は競争関係にあります。だから、どこかの県のどこかの病院が医療崩壊しそうだと言っても、応援するために医師や機材を他県から搬入するなどということを行ったりしません。
 
新型コロナ騒動で有名になった人工呼吸器は全国推計で4万5千台あり全装備数の1%弱をコロナに、ECMO(エクモ)は全国に総数414台ありコロナでの使用率は2%と言われます。これだけ、連日日本中で大騒ぎしているのに使われている機材は、日本の全ての医療供給能力の数%であるというのが実情のようです。
 
ちなみに海外の先進国、欧州では病院と言えばほとんどが国立・公立で、国が医療全体を掌握・管理しているので病床の融通がきくようです。
つまり多くの主要先進国では、病院を警察や消防と同じ国の安全保障の一環と位置づけているのに、日本では各病院の自由経営に任せており、協力関係が構築されることなく緊急事態にも迅速に対応するように作られていないということです。


*法津如来のコメント

いよいよ、医療問題に入りましたね。


カリキュラム的な修行法

一昨日、「どうしたらよいか?」という題の記事を書きました。

そこで、SRKWブッダの「ここで、固定的な修行法が存在しないというのは、要するに、『これを履修せよ』などというようなカリキュラム的な修行法が存在していないということである。」という言葉を引用しました。

これは本当のことで、これが納得できないならば、本格的に修行に取り組めないということになります。

本格的に修行に取り組めない方は、カリキュラム的な修行法に取り組んで、それではだめだと体験する以外はないのです。

私もこのことがわからず、カリキュラム的な修行法を求めていました。

私は47歳くらいから修行を始めましたが、それは曹洞宗系の禅の修行で、正法眼蔵を学び、坐禅をするものです。ほぼ2年くらいです。

しかし、そこでは悟りは求めるものではなく、修行することが悟りだというような考え方でした。

私はできれば悟りたいと考えていましたから、そこから離れて、ちょうどその頃「悟りの意味」という本を出された指導者に出会い、そこで修行しました。

そこでは、説法の他に、瞑想も行いましたが、武術的な修行が多くの部分を占めていました。

中年の私としては身体を使った修行にはじめは違和感をかんじましたが、それでも楽しく行なっていました。

しかし、そこで7年くらいして、修行がマンネリになり、進歩が感じられなくなったのです。

これから、どうするかと考え始めたのです。

この辺のことがらを詳しく書くと長くなりますので省略します。

その頃、テレビの「心の時代」という番組で、スリランカ人のスマナサーラ長老が、ヴィパッサナー瞑想法の指導を放映していたのを見たのです。

これは面白いと思い、早速、日本テーラワーダ仏教協会に入会して、そこで修行を始めました。それは57歳の時でした。

それから、3年して、本格的(この時は本格的と考えていたのです。)に修行をするために出家しました。
それは60歳です。

しかし、ここでもカリキュラム的な修行を行っていました。

2014年、SRKWブッダを知ることになり、本格的は修行が始まりました。


石法如来の特別寄稿:「穏やかな死」と医療問題(その4)

現代医学の力をもって行えば、人間を死なない状態にしておくことは不可能ではないようです。この文書を書いていて急に思い出しましたが、日本のマンモス宗教教団S学会の名誉会長I(アイ)氏は今どうしているのでしょう。
「ただ生きているだけの状態」という噂を聞いたことがありますが、もしそうなら「死ぬに死ねない苦しみ」を受けているように思います。
 
かように、すんなりと彼の世界に赴くのは難しいのです。それを、すんなりと成し遂げた養母は凄いなと正直感心しました。
彼女には実の自分の子供はおりませんでしたが、働き者で気持ちが優しく信仰心の厚い人でした。(養子である私たち)子供の前で愚癡をこぼすこともなく、淡々と自分の仕事をこなし、怒った顔など見たことがありません。
 
実家は公衆浴場を経営していたので、町内のお客さんが多く番台に座り接客していましたが、誰からも好かれる人でした。
明治生まれの人間ですから戦争も体験しており、「覚悟を持って生きる」という心構えが自然と備わっていたのだと振り返ります。
 
覚悟ということで、次のような文章を見つけました。(以下、引用)
「「覚悟せよ」。時代小説には良く出てくる言葉です。この覚悟が健康のために大切なのですが、病医院に来る人たちには覚悟がありません。覚悟がないため、風邪をひくと受診し、血圧が高くなると薬を飲まなくてはと騒ぐのです。
では、何に対して覚悟をすればよいのでしょうか。それはあなたの「命」に対してです。
 
あなたが覚悟を決めるには、正しい科学的な知識で「命」を理解することが必要です。それはすなわち、人間は徐々に老化し、いずれ死ぬことが運命づけられている生物であるということと、できうる限り死を回避するために自然治癒力が備わった生物だということです。」(以上、『やっぱり高血圧はほっとくのが一番』松本光正著・講談社+α新書・143~144頁引用)
 
自然治癒力が備わっている以上、人間は簡単に死ぬようには出来ていないし、環境的にも医学の進歩により死ね(な)ないようになっています。
では、人間は何故死ぬのでしょう?・・・ここで、昔聞いたことがある、「人間は病気で死ぬのではない、寿命で死ぬのだ」という言葉が思い出されます。
寿命は避けられません。それを無理に避けようとすると、必要以上に苦しまなければいけなくなるし((その3)の引用例)、周りに迷惑をかけることになります。
 
私の養母の場合、最後に私の顔を見て安心し「もう良い」と心底思えたのではと見ます。その意味では潔い人間ですが、だれもが簡単に出来ることではないでしょう。
「死にたい」と口では言っていても、いざ死ぬとなれば「全てを失い全てを置いて行かねばいけない」のですから決断に迷いが生じます。
 
おそらく、それは不可能に近いくらい難しい決断ですから、常日頃からその様なことを想定し死生観を養っておかなければ実行は難しいのです。
仮に、本人がその気(死ぬ気)になったとしても、(家族や病院の)状況により「胃瘻」(いろう)を装着するなどの延命治療を施そうとなるわけです。
 
病院側にしたら、衰弱して意識朦朧の本人に意思確認は出来ませんし、家族(や身内)から延命を依頼されたら断わることなど出来ません。そう考えたら、生前から家族内で話し合いをして万一の場合はどうするか意思をはっきりと伝えておく必要があると言うことです。
 
今から5年程前、義母(妻の母親)が亡くなった時のことを書きますと、とある有料老人ホームに入所していたのですが、夜中に急に体調不良となり救急病院に運び込まれました。
年齢は九十一歳の高齢で、病院の医師は色々処置してくれたのですが意識が回復しません。妻が担当医に呼ばれ、延命治療の可否を質問されたそうです。
 
妻は、自分の母親が常日頃言っていた「余計な治療はしないで欲しい」という言葉を、そのまま医師に伝えました。そうしたら、特段の治療をせず容体を見守るだけの環境下に置かれ、私たちもその推移を見守りました。
 
呼吸は、一見苦しそうですが(本人は)「そうでもないですよ」とドクターは教えてくれました。そうこうしているうち、呼吸が停止し義母は穏やかに息を引き取りました。


*法津如来のコメント

石法如来は、皆様にお伝えしたい情報がたくさんあるようなので、寄稿の間隔を少し短くしていただきました。


 

どうしたらよいか?

今日は、ブログに何を書こうか少し考えました。

そこで、最近よく考えていることを素直に書くことにしました。

SRKWブッダは修行について次のように述べています。
https://76263383.at.webry.info/202008/article_6.html

(以下引用)
 仏道を歩み始めたばかりの人は、修行することが道の歩みそのものであろうと考えているかも知れない。もちろん、それはその通りなのであるが、知っておかなければならないことは、この世には固定的な修行法など何一つ存在していないという事実である。そして、この点がおそらく仏道を歩もうとする人を混乱させる一つの要因となっているのであろう。ここで、固定的な修行法が存在しないというのは、要するに、「これを履修せよ」などというようなカリキュラム的な修行法が存在していないということである。では、修行の実際とは何であるのか。読者は、知りたいであろう。

 仏道を歩むための修行は、「遍歴修行」と呼ばれるものである。これについては後の章で詳しく述べるが、人をしあわせの境地に導く真理を求めてさまざまに研鑽したり考究したりすることが遍歴修行の意味するところである。したがって、修行は基本的に本人の自由な意思に任されており、要するに知りたいところから学びを進めて行けば良いということである。このため、その学びは必然的に紆余曲折を伴うものとなるのであるが、それが修行の遍歴となるわけである。そして、人と世の真実を見極めようと努力する中で次第次第に功徳が積まれることになる。そして、あるときに機縁を生じ、ついに覚りに達することを得る。これが、覚りに向けた修行の全貌である。
(以上引用)

この通りでありますが、修行法のサンプルは示したらどうかということです。

私はすでに修行は完了しましたので、格段すべきことはありません。

時間的な余裕はかなります。そのため、他宗教の修行など、ユーチューブの動画などを見ております。

皆さまも、それなりに修行に必要な情報を収集しておられると思いますが、私が選択した情報を知るのも役に立つでしょう。

ただ、注意すべきは、それらの情報を自分でその時の自分の立場で判断すべきです。

むやみに、真似したり、盲信すべきではないと言うことです。

後日適宜、修行法のサンプルを紹介します。