カリキュラム的な修行法

一昨日、「どうしたらよいか?」という題の記事を書きました。

そこで、SRKWブッダの「ここで、固定的な修行法が存在しないというのは、要するに、『これを履修せよ』などというようなカリキュラム的な修行法が存在していないということである。」という言葉を引用しました。

これは本当のことで、これが納得できないならば、本格的に修行に取り組めないということになります。

本格的に修行に取り組めない方は、カリキュラム的な修行法に取り組んで、それではだめだと体験する以外はないのです。

私もこのことがわからず、カリキュラム的な修行法を求めていました。

私は47歳くらいから修行を始めましたが、それは曹洞宗系の禅の修行で、正法眼蔵を学び、坐禅をするものです。ほぼ2年くらいです。

しかし、そこでは悟りは求めるものではなく、修行することが悟りだというような考え方でした。

私はできれば悟りたいと考えていましたから、そこから離れて、ちょうどその頃「悟りの意味」という本を出された指導者に出会い、そこで修行しました。

そこでは、説法の他に、瞑想も行いましたが、武術的な修行が多くの部分を占めていました。

中年の私としては身体を使った修行にはじめは違和感をかんじましたが、それでも楽しく行なっていました。

しかし、そこで7年くらいして、修行がマンネリになり、進歩が感じられなくなったのです。

これから、どうするかと考え始めたのです。

この辺のことがらを詳しく書くと長くなりますので省略します。

その頃、テレビの「心の時代」という番組で、スリランカ人のスマナサーラ長老が、ヴィパッサナー瞑想法の指導を放映していたのを見たのです。

これは面白いと思い、早速、日本テーラワーダ仏教協会に入会して、そこで修行を始めました。それは57歳の時でした。

それから、3年して、本格的(この時は本格的と考えていたのです。)に修行をするために出家しました。
それは60歳です。

しかし、ここでもカリキュラム的な修行を行っていました。

2014年、SRKWブッダを知ることになり、本格的は修行が始まりました。