石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その4)

このように縁起とは、前述したように苦の生起(順観)と滅尽(逆観)という表裏一体の二方向を包含する法そのものであり、それと理論としての一切法(五蘊・十二処・十八界)が密接に融合して、仏教の法体系を作り上げているといえます。
 
それはまた、原始仏教経典の中では究極の教えとされる四種の真理(四聖諦)にも対応しています。四聖諦とは、第一には「迷いの中にあっては全ては苦しみである。」という真理で、これを苦聖諦という。第二には、「その苦しみを集め起こすところの原因は無明(仏教真理の無自覚)と渇愛(かつあい・求めて飽くなき我執)とである。」という真理で、これを苦集聖諦という。
 
第三には、「その苦しみを滅した境地こそが覚りの世界である。」という真理で、これを苦滅聖諦という。第四には、「その覚りの世界に至るのには八つの聖道に従って正しい生活をしなくてはならない。」という真理で、これを苦滅道諦と言います。
 
このように、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」の法とは、「因あり縁ありて世間を集め、因あり縁ありて世間集まり、因あり縁ありて世間を滅し、因あり縁ありて世間滅す。」(『雑阿含経』巻第二(五三))とあるように、「世界のものはすべて相依相関の関係において成立している。」ということであり、「生起する法は、また滅の法である。」と言うことが出来るのです。
 
まさに縁起とは、「仏がこの世界に現れても、現れなくても、不変であり、不変に存続することわりでありさだめなるもの」であり、法住(ほうじゅう・法として存在し)・法空(ほうくう・実体はなく)・法如(ほうにょ・法そのものの姿であり)・法爾(ほうじ・法として定まっている)なる性質を有するもの、すなわち縁起とは縁によって生じた(縁生)法そのものと言えるのです。
 
第二章 十二支縁起の成立と意義
第一節 縁起支の考察
 
釈尊の説かれた十二支縁起の法は、智慧の象徴であり甚深にして理解が難しいです。それは、自分のこころを観るようなものです。それを、「縁によって起こるものに従う、縁によって生ずる法」(『雑阿含経』巻第十二(二九六))と名づけるのです。
本節では、順観の順序に従って十二にわたり縁起支の考察を試みてみます。
 
1 無明(むみみょう)-無明とは、癡(愚癡・無知・ものの道理がわからないこと)とも言われ、経典には様々なことに対する無知が説かれています。
すなわち、「過去のこと、未来世のこと、初めの端と終わりの端、内心、外、内外、行為、行為の結果、業の果報、仏、法、相、四諦・・・など、これらに対する無知を愚癡無明暗黒の無明と言う。」(『縁起経』第巻一)のです。
 
2 行(ぎょう)-行には三種ある。すなわち自分自身(身)による、言葉(語・口)による、こころ(意)による人間のなす行為をいい、縁起説における行は業と同じ意味内容のものと言えます。
 
3 識(しき)-識とは、身体における六つ(眼・耳・鼻・舌・身・意)の認識作用を言い、経典では「もし眼なし色なし眼識(以下、耳聱耳識・鼻香鼻識・舌味舌識・身触身識・意法意識)なくば、触あらず無なり。」(『長阿含経』巻第十(十三))と、その認識作用の成立を教えています。
 
4 名色(みょうしき)-名色は、名と色の二種に区分される。名とは、四つの物質を超えた受・想・行・識という集まり(蘊・うん)であり、色とは、複数の物質をもち一切を構成する四大元素(地・水・火・風)をいう。この二種を要略して名色となすが、この五つの集まりは、我々の存在を含めて、あらゆる存在を五つの集まり(五蘊)の関係において捉える見方でもある。
 
5 六入処(ろくにゅうしょ)-六内入処とも言い、眼入処・耳入処・鼻入処・舌入処・身入処・意入処をさす。それは、精神活動がそれを通じて起こる六つの領域であって、苦の生起の原因ともなるのです。この六つの識・触・受・想・思身という存在ゆえに、未来世に生老病死という苦しみが生ずるのです。(『雑阿含経』巻第十二(二九五))