石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その13)

以上、十二支縁起の観想法について述べてきましたが、これは仏教の修行体系である三学のうちの、増上心学(定)に該当する修行法です。
だが、三学における増上戒学(戒)、増上心学(定)、増上慧学(慧)は不即不離なものであり、その兼修により智慧が強化され、無明を根源とする煩悩を断滅することにより解脱が達成され、涅槃の境地に到達することが出来るとされるのです。
 
しかし、そのためには相応のプロセスが必要となります。その解脱に至るプロセスを、前述した経典は明確に示しています。それを示しますと・・・。
1、世間の念ずべき端正の色において、「病の如く悪いものの如く、煩悩の矢の如く、殺生の如く、無常なり、苦なり、非我なり」と観察する。
 
2、観察を進めることにより、愛(渇愛)から離れる。
3、愛から離れるが故に、億波提(おくはてい・執着)から離れる。
4、億波提から離れるが故に、苦から離れる。
 
5、苦から離れるが故に、生老病死憂悲悩苦から離れる(解脱する)。
ただし、この解脱のプロセスは、縁起を説くこれらの経典に限定されるものではなく、その他の法(ここでは五蘊)を説く経典にも見られるのです。すなわち・・・。
 
1、「この如く諸々の比丘、色は無常なり、受・想・行・識は無常なり。無常なるものはすなわち是れ苦なり。苦なるものはすなわち非我なり、非我なるものはすなわち我所に非ず。」
2、聖弟子、この如く観るものは色を厭い。
3、受・想・行・識を厭う。
 
4、厭う者は(欲望の対象を)楽しまず。
5、楽まざれば、すなわち解脱す。
これら、二種の経典から「法の観察-厭離-離貪-解脱」という、原始仏教における解脱のプロセスが認められるのです。
 
このように、釈尊の説かれた仏教の実践行とは、法(ダルマ)を解明する理論と密接に絡み合って、輪廻の超越である涅槃を目指すよう体系づけられていることが理解出来ます。
まさに、仏道修行における「この滅への修行は理論と実践の別を存しない。」というのが、仏教という思想体系のもつ大きな特性とも言えるのです。
 
まとめ・・・。
私が、佛教大学の通信教育学部本科(文学部仏教学科)に入学したのは、1995年(平成7年)のことです。卒業は、1999年(平成11年)でその2年ほど前から卒業論文に着手しました。
全く何も分からない中、『論文の書き方』を学び『大正新脩大蔵経』(漢文)を翻訳して引用文献としました。
 
今回の記事は長いですが、仏教思想の勉強になるということで過去作成の卒論を読み返し、手直ししながら文章を打ち直しました。
以前の記事、「富永仲基について」で学びましたように実際経典は加上(かじょう)が多く、思想的には相当膨らんでおり理解も難しいです。
 
縁起思想の最大の眼目は、「生起の法は、滅の法でもある」ということです。「蘆束(あしたば)のたとえ」にあるように、沢山集まって立っている蘆束も「どれかひとつ除いたら全て倒れてしまう」ということで、SRKWブッダの「どれでもよい。苦の要因を一つでも滅することができれば同時にすべての苦の要因が消滅する。」(『覚りの境地』81頁参照)の教えに相応しております。
 
十二支縁起は、難しい理論ですが釈尊が在世時弟子達に縁起を説いたと考えた場合、簡単な三支か四支のものだったはずで、それ以外は「加上」により膨らんだものと考えられます。
そう考えると、仏教思想も「簡単・平易ではあるけど肝心なところ(所謂・法や正法)」を重点に学んで思索を繰り返す、というやり方のほうがより現実的・実際的であると言えます。            

                    (おわり) 


*法津如来のコメント

石法如来 長文の特別寄稿ありがとうございます。

佛教大学の通信教育学部本科(文学部仏教学科)の卒業論文とのことですが、お仕事をしながらの論文作成であったのではないかと思います。ご苦労様でした。

また、新たなテーマでの寄稿をお願いいたします。