石法如来の特別寄稿:自省と省察(じせいとせいさつ)

仏道修業に関して、自分自身の長所(良い点)と自らを振り返って考えた場合、私は「自省(じせい)」という言葉を思い浮かべます。
それは、決して声を大にして言いたいことでも強調したいことでもなく、そういえば「その様な長所があった」という気づきと自覚の如きものです。
 
SRKWブッダは、著書(『仏道の真実++』)に「省察」(せいさつ・しょうさつ)という項目をもうけ教えを説かれておりますが、私自身の実感としては省察までは至らない、個人レベルの「自省」と表現出来るものであったという自覚です。
 
「自省や省察」という、これらの言葉のポイントとしては「省(せい・かえりみる)」の持つ意味の深さです。・・・ちなみに、「省みる(かえりみる)」とは「過去の行いに間違いがなかったか考える。反省する。」(以上、国語辞典ONLINEから引用)とありますが、当然その言葉の意味には深いものがあります。
 
仮に、過去の自分の行為を省みて(振り返り)「後悔ばかり」したならば自己嫌悪に陥り、その効果は全く逆のものになってしまいます。省みることも、程度によると言えます。
過去を省みて、「あそこは良かった・ここは悪かった」とバランス良く省みなければいけません。そう考えると、その人間の持つ性格的なバランスの良さが重要であると言えます。
 
「省みる」の用法には、他に反省や内省という言葉があります。・・・反省は、一般的に良く用いられ大体「目先の行動・言動」に対して省みる意味で使われます。内省は、「心のうちをよく見る」あるいは、「注意深く見る」などに用いられ、仏教的には瞑想や坐禅の行がその目的を達成する、あるいはその目的を達成するための手段として用いられるものに通じる言葉です。
 
覚り以前の私を考えますと、普通に「自省する」あるいは「自省できる」というレベルで、それが特別なものであったとは考えておりません。・・・ただ、今まで長い人生のなかで他人の話を聞いたり接したりして思う(感じる)のは、「自らを省みる」という精神作用を働かせるのは思いのほか難しいという現実です。
 
「省みる」と言葉で書く、あるいは言うのは極めて簡単ですが、それを我が身に引き比べ今後の行為に良い影響を及ぼすことが出来るか否かは、その人間に自らをバランス良く省みる精神作用が、果たして備わっているか否かが重要なポイントになるのです。
 
私自身の行ってきた「自省」とは、たしかに私自身の性格による部分が大きかったように振り返ります。まず、人(他人・上司・友人・知人)の言うことをよく聞く(聞く耳を持つ)。次に、同じ失敗を繰り返さない。失敗したなら、それを省みて「どうして失敗した」あるいは、「こうすれば失敗しなかった」とふり返り自分自身に言い聞かせる。
 
私は、自衛隊というある意味「軍隊組織」の中で育ちましたから、長時間周囲に存在する他人の目を気にして、自分の行為に対して慎重であったのも、「省みる」という行為を促す条件が揃っていたと言えるかも知れません。          
決して自分自身が優れていたとかでは無く、軍隊という規律の厳しい環境の中で、「生き残るための知恵」が身についたのだと言えなくはありません。
 
ここで問題になることは、「他人の行為はよく見えるが、自分自身のことはまるで見えない」という現実です。このような言葉が存在するということは、自分自身の行為や言動を反省し「自分自身を見
つめる」、「自分自身を修正」するという行為がいかに難しいかを教えています。
 
たしかに、他人の行為を見て「ここが悪い・あそこが悪い」と批判するのは簡単ですが、それを我が身に引き当てて「ここが悪かった」、「あそこが悪かった」、「これから、こういうこと(ああいうこと)に気をつけよう」などと言うレベルにまではなかなか到達出来ないのが現実です。
 
「自省・省察」で求められる、「我が身を振り返る」という行為(行動)には、少し高い次元の精神作用(要素)が必要(求められる)であり、誰もが為し得るとは言えないところにその難しさがあります。
 
誰もが自らの行為を「省みる」ことが出来、その結果を自らの意識に適切に上書きし、教訓として昇華させ得るならば人間間の争いも無くすることが出来るし、人生を豊かにし更には覚りの機縁を得ることすら可能になります。
 
SRKWブッダの著書に、「省察」について次のように説かれています。
「自分ではない他人の過ちをどんなに正確に把握したとしても、それによって覚りを生じることはない。その一方で、他ならぬ自分自身の過ちを把捉したならば、それは覚りの重要な機縁ともなる。」(SRKWブッダ『仏道の真実++』114頁「省察」から引用)と。


*法津如来のコメント

また、新しいテーマでの御寄稿ありがとうございます。