石法如来の特別寄稿: (十二支)縁起の考察(その5)

6 触(しょく)-触とは、六触身(眼触身・耳触身・鼻触身・舌触身・身触身・意触身)を言い、愚癡にして無聞の凡夫は、この六つの接触の入るところに触れることにより苦楽受を知り、種々の原因を生起すると説きます。
 
7 受(じゅ)-受には、快適の対象(楽)を感受、苦痛の感覚(苦)を感受、苦でも楽でもない(不苦不楽)感受の三受があり、それぞれの接触を縁として受が生じ、あるいは滅し、無常であって因縁に従って生じ、あるいは滅び、腐って壊れる法でもある。
 
8 愛(あい)-愛もまた三種ある。欲愛(渇愛・愛欲・欲望に向かう妄執)、有愛(生存に対する妄執)、無有愛(生存の絶無となることに対する妄執)の三つです。
愛は一般に「渇愛」(かつあい)とも訳され、渇(かっ)している者が水を求めるような激しい欲求を意味する。
 
9 取(しゅ)-取は四取(ししゅ)あり。欲取(よくしゅ・欲望に執着し、欲求して止まないこころのはたらき)、見取(けんしゅ・哲学的見解に執着し、欲求して止まないこころのはたらき)、戒禁取(かいきんしゅ・戒めや誓いに執着し、欲求して止まないこころの働き)、我語取(がごしゅ・我ありと論ずることに執着し、欲求して止まない心のはたらき)の四つです。
 
10 有(う)-有は存在を意味し、三種の迷えるものの存在の世界(三有・生きものの生存状態)をいう。
欲有(よくう・欲にとらわれた生存)、色有(しきう・すぐれた物質のある境地における生存)、無色有(むしきう・物質のない境地における生存)の三つです。
 
11 生(しょう・せい)-生とは衆生の生存をいい、過去に和合し出生することで、五蘊を得、類を得、場を得、生命を得ることです。
                                                                              
12 老死(ろうし)-老死とは、人間の種々の苦を代表させたものが老死です。
老とは、「髪は白く禿げ、皮が弛み機根が熟し、背は屈めて身体を支えるのに弱く、頭は垂れひっこみ呻く・・・」状態をいい、死とは「かの生存するもの、かの種性、滅して他の場所に移り、身体壊れ寿命尽き、怒りを離れ命を滅し、五蘊を捨てる時に至る。」(『雑阿含経』巻第十二(二九八))状態を言います。
 
以上で、十二項目にわたる各支の考察を終えますが、十二の縁起支は一体何を語っているのでしょうか。古来からの伝統説では、縁起説には大別して四種の見方があるとしています。しかし、この問題に対し簡潔に答えることは容易なことではありません。
 
釈尊は、今まさに苦の生存の中にある衆生というものに焦点をあてられ、「この縁、苦のあつまり、流転しきわめることなし。われ、いつ世のあつまりをさとり、生老死を滅することができるのか。」と思惟された訳ですから、この十二支縁起の系列とは結局、人間存在における「苦の生起と滅尽の連鎖」にかかわる分析法であると表現出来ます。



 
たとえば阿含経典には、「純大苦聚集」(じゅんだいくじゅしゅう)という言葉が頻繁に使われますが、聚(じゅ)とは集まりであり蘊(うん)の定義を持つから、人間の存在を「五蘊」と表現する思惟方法と同じであり、それは法説における五蘊・六入の分析法と異なりません。
それはまた、十二の縁起支を経典では「無明行識名色六入処触受愛取有生老死」と、一まとめで表現されていることでも知れています。
 
ただ、五蘊・六入の分析法と相違するのは、人間の存在というものをどのような角度から分析するか、という視点の相違だけです。
 
何より、この十二の縁起支が一つの集まり(蘊)として、時間・空間を越えて人間の生存を規定しているが故に、仏道修行の実践により「無明あるいは愛(渇愛)の滅が、生老死の滅を可能にする」と考えることが出来るのです。