石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その8)

何より経典に、「かの愚癡無聞の凡夫は、識において厭いを生じ欲を離れ、背捨(そむきすつ・滅尽定にいたる八種の解脱)することを能わず(あたわず・出来ない)」とあるように、十二支縁起説における無明や行は、十支縁起説における識(認識・識別作用)よりも更に深い精神領域に位置して、人間の果を生ずる因をなしている縁であり、十二支縁起においてはじめて、苦の存在における究極の原因である無明が発見されたことになり、ここに苦の根本的な解決が可能になったと言えるのです。
 
「是の故に當(まさ)に知るべし、無明を生とし、無明を觸(しょく)とす。かの無明永く滅して餘(よ)無くんば、即ち行滅し、かの乘(の)れる所の無明の滅道跡を實の如く知りて、彼の向次法を修習せば、是を比丘(びく・修行僧)正しく盡(つ)くし苦邊(くへん)を究竟(くきょう・最後に行き着くところ)するに向ふと名づく。所謂無明の滅なり。」(『雑阿含経』巻第十二(二九二))
 
(現代語訳)「この故にまさに知らねばならぬ。かの行は無明を因とし集とし生とし触とすることを。かの無明とこしえに滅し、死後に生まれ変わることなし、すなわち行滅し、かの手段により無明を滅する仏道の跡があることを如実に知り、その順次に赴く法を集習しなさい。これ比丘が正しく苦を滅して赴く、究極にして最後の苦と名づける。いわゆる無明の滅なり・・・と。」
 
このように、識や行を越えた無明の滅により、正しく苦を滅ぼして輪廻の生存から解脱し、仏教の究極の目的である涅槃の成就が可能となるのです。まさに、この一点にこそ十二支縁起の成立の意義が見出されると言えます。
故に、十二支縁起を説く経典には最も重要な苦の根源である「無明」が一体どの様なものであるか、法説に繋げて繰り返し説かれています。
 
それによると、愚癡無聞の凡夫は無明をもっての故に、「色はこれ我なり、異我なり相在すと見、我真実なりと言って捨てず。」と、我(アートマン)に対して誤った見解をもって固執し、それを捨て去ることが出来ない。あるいは、この五受陰(ごじゅおん・五蘊に同じ)において、如実に知らず見ず、無間(むけん・たえまない)等なく、愚闇(ぐあん・おろかで、ものの道理にくらいこと。)不明なるを是を無明と名づく。」(『雑阿含経』巻第十(二五六))と。
 
五つの感受作用の蘊(うん・あつまり)ついてよく知らず、智慧を欠いて明に通じていない。また前述したように、「過去のこと、未来世のこと・・・」などのものの道理に暗いこと等々。それらが、十二支縁起における全ての苦の出発点である無明であるとするのです。
 
「この無明とは大いなる迷いであり、それによってこの永い輪廻が現れ出たのである。しかし明知に達したものどもは、再び生存を受けることがない。」(『スッタニパータ』七三〇偈)
 
経典でいう明(みょう)あるいは明知とは、無明の対局にあるもので「さとりの智慧」を指します。では、何を知ることが「さとりの智慧」と言うのでしょう。
 
「所謂、色は無常なりと知るなり、色は常なりと知るは如実に知れるなり、色は磨滅(まめつ・すり減ること)の法なるを色は磨滅の法なりと如実に知るなり。・・・此の五受陰(五蘊)に於いて如実に知り、見、明、覺慧(かくえい)、無間(むけん)等なる、是を名づけて明と為(な)す。」(『雑阿含経』巻第十(二五六))
 
このように、十二支縁起を説く経典では、人間苦の根本原因である無明とは一体どのようなものであり、無明を滅する「さとりの智慧」とはどのようなものであるかを、原始仏教における重要な法説である五蘊・六入処説に繋げて説くのです。
 
そのように考えると、十二支にわたる縁起説は、一切の法の究極の条件として無明を立てることにより、無明の滅・・・すなわちさとりが一切の存在者の存在の滅の道をひらくことを、五蘊説・六入処説のなし得ざる程度に明らかにしたものであると言えるのです。