石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その9)

第三章 十二支縁起の実践行
第一節 十二支縁起と中道
 
先ず、釈尊が目指した仏教の実践修行には、一体そのような意義があるのでしょうか。経典では、人間には「聖なる求め」と「聖ならざる求め」があると教えますが、釈尊が実践修行を始めるにあたって想定したのは「聖なる求め」でした。
 
釈尊は、十二支縁起における「老病死憂悲悩苦」を解決し、輪廻からの解脱を成就して仏教の究極の目標である「涅槃」(ねはん)を求めたのですが、実際十二支縁起で説く実践行とはどの様な性質のものだったのでしょう。
 
何より縁起の実践を語るうえで重要なのは、「中道」の概念です。中道という概念は、釈尊が成道後初めてされた説法(初転法輪)において出てくるものですが、そこでは欲求に身を任せることと、いたずらに苦行で身を苦しめることとの二つの極端を離れる中道(有無中道・不苦不楽の中道)が説かれています。
 
中道と縁起について、経典には次のように説かれています。
「自作自覺は、すなわち常見(じょうけん)に堕し、他作他覺はすなわち断見(だんけん)に堕するなり。義説法説(ぎせつほうせつ)は、此の二辺を離れ中道に処して法を説く。」(『雑阿含経』巻第十二(三00))  
 
この経典で重要なのは、常見(じょうけん)とは「この世界・世間やアートマン(梵我)が永遠に存続すると主張した見解」であり、断見(だんけん)とは「因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解」というところです。
 
経典には、「世間の集を実の如く正しく知見せば、もし世間無しとする者は有らず。世間の滅を実の如く正しく知見せば、もし世間有りとする者は有ること無ければなり、これを二辺を離れて中道を説くと名ずく。」(『雑阿含経』巻第12(三0一))と。
 
現代語訳「世間の苦しみの起こる原因(集)を正しく智慧によって見るならば、世界は無常可変であり、人が死ねば後に何も残らないとする考え(断見)はあり得ない。また、世間の消失(滅)を正しく智慧によって見るならば、世界は常住であり人が死んでもその霊魂は不滅であるとする考え(常見)はあり得ない。この極端な二つの考えを捨て、中道を説くというのです。」
 
二つの経典で述べている中道(ちゅうどう)とは、「断・常の二見、あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なる道のこと」を言います。
前者は、断見と常見の二つの極端な考えを離れることが、後者は「有と無」の二つの極端を離れることが、ともに中道であると説かれています。
 
この二つの経典で、つづいて「これ有るが故に彼れ有り。これ起こるが故に彼れ起こる。」という縁起のフレーズが記されているところから、中道とはすなわち縁起であると言うことが理解されるのです。では、なぜ釈尊は縁起とは一見違う「中道」というものを説かれたのでしょうか。
 
中道について、中村元(なかむらはじめ・仏教学者)氏は『新・佛教語辞典』の中で、「二辺のいずれかに偏る謬見・邪執から離脱している不偏中正の道であり、それはほどよさを意味する中間の道(中庸の説)ではなく、とらわれを離れ、きびしく公平に現実を見きわめ、正しい判断、行動を成すことである。」と定義されていますが、そこに理(理論)と行(実践)という二つの面から、中道を説かれた理由が考えられます。
 
まず、理(理論)の面から考察を試みると、中道を歩むということは「ここではすでに二辺の各一辺に関して、深い洞察と熟知とが十分にゆきわたり、もはや二辺のあいだをただうろつき回るのではなく、きびしい智慧がつねに伴われている」ということであり、「中道を中道と見きわめる智慧」が仏道修行の前提になっているということです。


*法津如来のコメント

今回は「十二支縁起と中道」の関係について述べられています。

十二支縁起は理論の面で、中道は実践の面ということになるということです。

また、中道は二辺のあいだをただうろつき回るのではなく、きびしい智慧がつねに伴われているということです。