石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その12)

また、最初期の経典である『スッタニパータ』には、つぎのような縁起の観察法が説かれています。
「「およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起こるのである」というのが、一つの観察〔法〕である。「しかしながら、素因が残り無く離れ消滅するならば、苦しみが生ずることがない」というのが第二の観察〔法〕である。このように、二種〔の観察法〕を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修業僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。・・・すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」・・・。
 
「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである」というのが一つの観察〔法〕である。しかしながら無明が残り無く離れ消滅するならば、苦しみが生ずることがない」というのが第二の観察〔法〕である」(『スッタニパータ』第三章十二「二種の観察」)
 
と述べられた後、潜在的形成力(行)、識別作用(識)、接触(触)、感受(受)、妄執(愛執)、執着、起動、食料、動揺などを含め十一項目に関し、「縁って起こる」という観察法と「それらを離れ消滅するならば、苦しみが生ずることがない」という観察法とが示されているのです。
 
ここで説かれる(二種の)観察法は、最初期の経典であるスッタニパータに記されていることを考え、前述した伝承(菩提樹下において「さとり」を得たという)に通じる実践修行法といえます。
また、縁起で説く生老死の苦から脱し、さとりを得るための観想法として、原始仏教以来「四念処」(しねんじょ・仏教における悟りのための4種の観想法の総称)が説かれています。
 
「もし比丘、四念処を離れずんば聖の如実の法を離れざるを得、聖の如実を離れずんばすなわち聖道 (しょうどう・仏の教え)を離れず、聖道を離れずんばすなわち甘露(かんろ)法を離れず、甘露法を離れずんばすなわち生老病死憂悲悩苦より脱することを得るなり。」(『雑阿含経』巻第二四(六0八)と。
 
すなわち四念処とは、
1、身念住(この身は不浄なり。)
2、受念住(受は苦なり。)
3、心念住(心は無常なり。)     
4、法念住(法は無我なり。)
という、さとりを得るための四種の観想法であり、初めはその四項をそれぞれ別に観念し、次にそれら四つを一つにして、身体・感受・心・そしてすべての事物(法)は不浄である、また苦である、無常である、無我であるというように思い浮かべる修行法です。            
 
また、修業を説く他の経典には・・・。
「この如く比丘、無常想を修習し多く修習せば、よく一切の欲愛・色愛・無色愛・掉慢無明(じょうまんむみょう・愛(タンハー)の実現に執着する)を断ぜん。」(『雑阿含経』巻第十(二七0))と、無常想を多習すれば愛(欲愛・色愛・無色愛)とともに掉慢無明に至るまで断ずると説かれていることから考え、経典に共通するのは「法を観ずる」ということであり、法を観ずるとは般若(はんにゃ・智慧)の立場に立つことであり、従って無明を滅することであると理解出来るのです。
 
特に前述した経典には、「無常なり苦なり空なり非我なりと観察せよ」と、三つの法印が観想法として説かれており、法印の実践性が認められるとともに、「空」の概念が注目されます。
空とは、「もろもろの事物は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということ」であり、縁起とは同義語です。
 
この空の思想は、後代の大乗仏教によって強調されていますが、最初期の仏典にも・・・。
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば、死を乗り越えることができるであろう。」(『スッタニパータ』一一一九偈)と、説かれ原始仏教における空の実践性を知ることが出来ます。