石法如来の特別寄稿:「親子の因縁」について。

この世において、因縁が深いのはやはり家族です。今日は、親子の因縁ということで少し書いてみます。なぜ親子かと申しますと、夫婦の因縁は確かに深いものがありますが、血の繋がり(血縁)というものがありません。
その意味では、何より深い因縁で結ばれているのは親子であると言えるからです。
 
今回、なぜこのテーマで書こうと考えたかと申しますと、私自身親子の因縁が薄い境涯に生まれ、色々思考したり我が家族を見渡すにつれ因縁の連鎖に気づくことがあるからです。
 
因縁の連鎖と書きましたが、自分自身何代も過去に遡ることは出来ません。直近で自分の親ですが、私自身小学校低学年の時に親が離婚して一家離散、実親の愛情の乏しい環境に置かれました。
 
結局養父母に育てられたのですが、彼らは子供のいない夫婦でした。子供がいないので、知り合いの娘を養女にします。その養女が私の母親で、彼女は大人になり結婚しますが子供をもうけたのち数年後に離婚し、養父母から離れ他の土地に去って行きます。
 
私の実の父親は、子供の頃住んでいた故郷に居住しておりましたが、会う機会はほとんどありませんでした。彼は、その後再婚しなかったので、独りで生涯を終えました。
 
養父は、明治生まれの秋田県人でたたき上げの仕事人、とても厳しい人で私の記憶には一生懸命働いている姿しか残っていない位です。
 
養母は、地元(別海町)出身で兄弟・親戚の多い人でした。彼女も、養父と同じ明治生まれの人でしたが、落ち着きがあり優しい性格の持ち主で私は大事に育てられた記憶があります。
彼女は、内助の功あり一生仕事に明け暮れた人生でしたが、卑屈になることもなく明治女の逞しさを感じさせる女性でした。
 
私の家族の姿を紹介しましたが、不思議なことに皆親子の因縁が薄いことに気が付きます。子供の頃は、特段気になりませんでしたが、阿含宗に入会し因縁というものを学んでから、我が家はその様な因縁で結ばれている親子関係なのだと気付きました。
 
そういうことに気が付いた頃、すでに結婚して子供が出来ていたので、その様な因縁の連鎖を断ち切りたく思い、家族の絆を強くするよう家族でキャンプに出かけたり旅行に行ったりと、思い出作りに専念し「家族の大切さを共有」するよう心がけました。
 
最初の子供が出来てから、早40年以上の時間が経過し私達夫婦の近くに子供達は誰もおりません。下の子は、海外に嫁いでいます。今の現状を考えると、持って生まれた因縁というものは、簡単に切ることは出来ないものであるということが何より明らかな状態になっています。
 
親子の因縁が薄いことが、全て悪いことかというと決してそんなことはありません。我が家は、みんなマイペース人間の集まりなので、それぞれが自由に人生を生きています。
特段、束縛しない押しつけ合わない性格なので、各自やりたいことに対して案外自由です。私の場合を考えたら、40年以上仏教の勉強を続けて来れたし、それを批判する家族もおりませんでした。
 
家族の縁・親子の縁が強くないので、それに関わる情欲(じょうよく・ だれもがもっている世俗的な欲望)に心を動かされることも少ないです。良く言えばさっぱりしている。悪く言えば、情が深くない・薄情ということになるかも知れません。
 
物事には、絶えず二面性が同居していると観なければいけません。あとは、自分自身がどう判断しどう生きるかだけです。
 
私自身は、一人でこの世に生まれ出て来たのだから、死ぬときも一人だという意識が子供の頃から強く持っています。養母が亡くなった場面を思い起こすと、まさにその言葉がぴったりです。一人で、静かにこの世を去りました。
私の実母も、札幌の近くの岩内という場所で心筋梗塞により突然亡くなりましたが、私一人駆けつけ遺体を荼毘に付して遺骨を持って帰り、故郷にある養父母の眠る墓地に納めました。
 
前述したように、因縁だからと悪いことばかりではありません。因縁があればこそ、それなりの人生を歩めるし、会うべき人には会えるし覚りにまで到達することが出来ます。

そう考えると、因縁だからと卑屈になったり諦めたりネガティブな思考に陥ることなく、自分の因縁を自覚して自分が出来ることを精一杯行い前向きに生きることです。・・・人生には、自分自身の因縁を楽しむ位のこころの余裕が必要です。