石法如来の特別寄稿:古希を生きる・・・三つのおごり。(その3)

三つ目は、「生存のおごり」です。                                                         
「愚かな凡夫は、みずから死ぬものであるにもかかわらず、                                   
他人が死ぬのを見て、悩み恥じ嫌悪している。                                         
 
わたしもまた、死ぬものであるにもかかわらず、                                             
このことはわたしにふさわしくないと言って、他人の死ぬのを見て、                           
悩み恥じ嫌悪するであろう。わたしがこのように観察したとき、
生存時における生存の意気は全く消え失せてしまった。」(同経典から引用) 
 
たしかに経典にはこの様に説かれておりますが、現実問題他人の「死」に対しそんなに深刻に捉え・考える人間がいるでしょうか?
むしろ、自分以外の誰かが仮に亡くなったとしても、「自分は死なない」・「自分は大丈夫」というある意味根拠のない自信に基づき、その事を真剣に捉え考えること自体先ずありません。
 
逆に考えたら、「その様な不吉な?こと」を考えないから平気で生きていられるとも言えます。
今回の記事の表題を、「古希を生きる」としたのは「老・病・死」どれも人間にとって深刻な問題ですが、私自身七十歳の高齢者となり迫り来る「死」を想定して書いています。
 
面白い話を聞いたことがあります。知人の義理のお父さんの話です。「○○君(婿さんの名前)、人間というのは段々年を取るにしたがって死にたくなくなるもんだな・・・。」と。
前述したように、普通の人間は特段「死を想定して」生きてはいません。ある意味、日々生きる(生きている)ことが当然であるかのように自然体で生きています。
 
それが、それなりの年齢になり死も近づくに従って、「死に対する恐怖」あるいは「未知の世界に赴く不安」が噴出してきて、死を恐れるようになるとも考えられます。
若いときは勿論、壮年になっても高齢者と呼ばれる年齢になっても、老い・病は勿論のこと死ぬことなど考えている人間はまずいないでしょう。
 
何故かと申しますと、その様なこと(老病死)を考えたところで答えが出ない(答えを持っていない)からです。
答えも出ない(出せない)、余計なことを考えて精神的にまいってしまうより、「何も考えない」、「成り行きに任せる」という道を選ぶのは、ある意味当然で(衆生にすれば)「死は想定せざる出来事」と言うことになります。
 
病はともかく、老いも死も生きていれば100%間違いなくやって来ることなのに、考えない・想定しない・行き当たりばったりの人生では、あまりにも寂しい気がします。
 
なぜ、自分は古希を迎えるにあたって「三つのおごり」を思い出したのか?それは、過ぎ去った若き日のこころの追憶であったように振り返ります。
思えば、三十代の時に仏典を学び「こんなもんかな」と感じた過ぎ去りし日々。訳が分からない中で、学んだ仏教思想の数々。それは、「さとりとは何か」を求めた日々でもありました。
 
「三つのおごり」の教えは、元々「四門出遊」の話が出発点であると知りました。それは、何十年ぶりかに読んだ『仏教百話』(増谷文雄著・筑摩書房)の、第一話に「三つの驕逸(きょういつ)をいましめて-出家」に出ていたので気がついたのです。
 
過ぎ去りし学びの日々ですが、私の場合は原始仏典の「現実的な問題に対し」て、「法(ダルマ・理法)に基づくより現実的な解答」に出会わなかったら、仏教思想というものに飽きてしまっていたかも知れません。
現実的で、かつ哲学的なものを好むのは私自身の性分であり、その性分と原始仏教の教えが一致したのです。
 
今はもう、経典もあまり読まなくなりましたが、この世で面白いものに出会ったなという感慨を持ちます。原始仏典に説かれる釈尊の教え(言葉)に出会わなかったら、自分自身の人生はつまらなく単調なものになっていたことでしょう。


*法津如来のコメント

石法如来の特別寄稿の「古希を生きる・・・三つのおごり。」シリーズは今回でおわります。

石法如来、ありがとうございました。

「次は単発で「インターネット時代の仏教」を23日に投稿します。」とのことですので、このブログには24日に掲載いたします。お楽しみに。