#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 2偈

2 明らかな知慧のある人が友達としてつき合うべき人々は、信仰心があり、気持のよい、素行のよい、学識ゆたかな人々である。けだし立派な人々と交わるのは善いことである。

(テーラガーター1019 聡明な人は、___信仰心があり、気持のよい、素行のよい、明らかな知慧をそなえ、学識ある人と、つき合うべきである。立派な人と交わるのは、しあわせである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈の「明らかな知慧のある人」について、この偈と同趣旨のテーラガーター1019では、「聡明な人」と述べられています。SRKWブッダの「感興句」に「聡明なる人」がありますので、それを引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou097.htm

(以下引用)
【聡明なる人】



聡明なる人は、未来に起こるであろうことがらについてあれこれと想念をめぐらせることがない。また、かれは、すでに起こってしまったことについては、それが何であれ、それがそのように起こったことを善しとし、それがそのように起きなかったとしてもそれを善しとするのである。

聡明なる人は、かれがすでに為し終えた行為について他の人から非難や賞賛を受けても自分を卑下することが無く、慢心を起こすことも無い。なんとなれば、かれにとって、自分自身は卑下とも慢心とも無縁の存在であるからである。それゆえに、かれは如何なる状況に身を置いても、自らの存在意義について可とか不可とか分別して考えず、自分と誰かとをくらべることもない。かれは、自分自身を完全だとは見なさず、しかしだからといって他の人もまた不完全なのであると断じることも無い。かれは、他の人から見ればときに争いの相を示すように見えることがあるかも知れないが、かれ自身は決して争いを好んではいない。なぜならば、かれは、自分を含めた人々(衆生)が自分ならざる何かに突き動かされた(無我なる、=人無我なる)存在であることをこころに知っているからである。

こころある人は、たとえ世俗にあっても、いとも聡明なる人であれ。けだし、人は聡明さによってやすらぎに至る道を見い出すのであるからである。@
[補足説明]
いわゆる結果オーライは、聡明なるこころの帰結であると知るべきである。
(以上引用)

もう一つ、「学識」について、SRKWブッダは理法「学識によって」でつぎのように述べておられます。
http://srkw-buddha.main.jp/udana079.htm


(以下引用)
【学識によって】



人々は、明知によって道を見い出し、学識によって道を究める。

人が明知によって識り分けた正しい教えを聞きおわって、世間における欠点のある言説、あるいは欠点のない言説を知り尽くし、根本の疑惑を超えつつあるとき、「それ」がまさしく起こって世の一切の疑惑を超えたならば、かれはついに解脱する。

学識に欠ける者が、世間の種々さまざまな言説に翻弄される。学識豊かな人々は、自らの道の歩みを全うして世間の風説によろめくことがない。

聡明な人は、自らの学識によって真実の真相を知り極めよ。 心根の善い、学識豊かな人々とつきあい、自分をも他人をもこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと近づけ至らしめよ。
(以上引用)







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