SRKWブッダ著「仏道の真実++」【観(=止観)】(3)

(以下引用)

【観(=止観)】(3)

 さて、次に観のあり得べき進行について述べたい。要するに、正しい観はどのようにして為されるのであるかということの説明である。

 ● 観は、最初から最後まで基本的に修行者が好きに行ってよいものである。つまり、何をどのように観じてもよいのである。それが自然と正しい観に収束することになる。すなわち、仏道に適った形で対象と目的に合一した観を行えるようになるということである。そして、そのようであることそれ自体が観の特性であり、そうであってこそ観は正しく為されたのだと言えることになる。

 ● 観とは、たとえば真っ白い紙に好きに絵を描くようなものである。どんな絵を描いてもよい。どんな色のどんな絵の具を用いてもよい。ただし、出来上がった絵は素晴らしいものでなくてはならない。その人にしか描けない芸術でなければならない。それが完成の条件である。観の進行の過程は、定性的にはこれに似ている。

 ● 観では、基本的には何を観じてもよいのであるが、最終的には仏道に適ったあり得べき究極のことがらを修行者自身が発見して観じなければならない。仏道修行としては、それ以外のことがらを観じても無駄である。それでは観の完成が覚りに役立たないからである。すなわち、そのあり得べき究極の観に辿り着くことそれ自体が観なのである。心構え正しき人は、このあり得べき観に到達する。そうして、それを実践し、ついに完成させることになるのである。

 ● 観を具体的にどのように行えば良いのか、まるで分からない人もあるだろう。そこで、先に述べたように仏を観じることや衆生を観じること、そして真実のやさしさを追究することが勧められるのである。本来は、このような手掛かりさえ必要のないことである。それは承知しているが、強いて言えばこれらを観の対象や目的とすることが勧められるということである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

SRKWブッダは、衆生から言わせれば非常に難しいことを言っているのです。このように言わなければならないので、このように言うのでしょうけれども。

もし、このようにしなさいと言えば、それは衆生は自分で考えて行う行為ではなくなるからです。

昔私が比丘(僧侶)のとき、あるお母さんが小さな子供を連れてお寺に来ました。そのお母さんはその子に「礼をしなさい」と言いましたが、その子供は礼をしません。何度もお母さんは「礼をしなさい」と言いますが、子供は礼をしません。

なぜなら、その子は「礼をしなさい」の意味を知らず、礼の仕方が分からなかったからです。

衆生にとって観は、礼の意味や仕方を知らない子供のようなものです。

しかし、よくわからなくとも見よう見まねで観をやってみてください。観ができるようになるでしょう。


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