SRKWブッダ著「仏道の真実++」【不可思議】(3)

(以下引用)

 ◇ 不可思議なる発心

人が仏道を歩んだとき実際に覚りに達するかどうかは、この道の重要な分水嶺となる発心にかかっている。そして、発心は覚りの道におけるとくに大きな不可思議である。

疑いなく、発心は第一の善知識との出会いによってもたらされるものである。それゆえに、今世での覚りを望む修行者は、善知識との出会いを果たさなければならない。また、善知識と出会ったときに発心するかどうかは極めて重要なことがらである。なぜならば、発心は善知識と出会いさえすれば勝手に起こるものではなく、この一なる道の歩みに没入しようとする気持ちや求道の決心に呼応して起こることだからである。

さて、漫然と修行していても善知識には遭遇しない。逆に、血眼で善知識を探してもその出会いを果たすことはできない。善知識との出会いは、まったく偶然に訪れるか、あるいはすでに知っている人がある日突然に善知識と化すと言うものだからである。このため、仏道に精進しかつ気をつけていなければ善知識と出会ったとしてもそれを認知できない。

ただ、希望的な観測を述べれば、真実を知ろうと熱望している人の前にはまるでその気持ちに呼応したかのように善知識が出現するようである。善知識はそれと化す直前までごく普通の人であるが、その瞬間が訪れたときには仏道に対する信じられないほど真摯な態度と篤い信仰心を見せてくれる。そして、未だかつて聞いたことのない驚くべき言葉を発してくれるのである。

気をつけている人が、この第一の善知識との出会いを果たして発心する。ところで、なぜ発心した人は善知識と出会ったときに気をつけていることができたのであろうか。これは、予め気をつけていたからではない。常日頃から真実を求めていたので、そのときにも気をつけていることができたのであろうと考えられる。何となれば、第一の善知識は人としての真実を見せてくれるものだからである。真実を求める人に呼応して、その真実が人の形で世に出現するわけである。この事実は、発心における一つの不可思議である。

なお、発心すれば、遠からず覚りに至るようである。ただし、実際に慧解脱するには、第二の(真の)善知識と出会い、その出現の意味を理解しなければならない。これを為し遂げない限り、ブッダとはならない。それでも、発心した修行者が第二の善知識を見出すのは比較的容易となる。なぜならば、彼は一度善知識と出会っていてその雰囲気を知っているからである。ある種の既知感が、善知識の出現を把捉することに役立つのであろう。

ところで、先ず発心ということがあって、その上で覚りを生じるのであろうか。あるいは、逆に未来の覚りが確定しているので、それに先だって適当な時期に発心が起動するのであろうか。すなわち、時間は一方向的に進むのであるか、あるいはその錯綜を視野に入れなければならないのであるか、ということである。これは本質的で微妙な問いである。

実際、覚ってみると発心は覚りの日からまるで逆算して生じたものであるかのようにも感じられる。つまり、この感覚に正直に従えば発心は作仏から過去に遡って生じるものであろうと推定することさえできる。もし、この推定に蓋然性があるとすれば、これは例えば授記を裏付けるものとなる。また、実践的に言えば、立派な修行者の覚りは作仏の遙か以前に確定していることであると言え、これは修行者の修行についての安心に繋がるものとなろう。

大事なことは、修行者は、修行のプロセスとして先ず発心があり、次いで覚りを生じるという分かり易いが安直な考えにこだわらないことである。これは、修行者は発心以前においても修行の最終目的である覚りそのものを望むべきであるというほどの意味である。そうすれば、因縁ある人にはその前に適時に発心の機縁が現れると考えられるからである。読者には信じ難いことかも知れないが、おそらくこれが発心の真相である。

仏道は、いかなる段階の説にも随わない。このことは、先ず発心があり、その上で覚りを生じるということについても成立していなければならない。すなわち、発心という前段階があって、その上で覚りを生じているわけではない筈であるということである。覚りを生じるだけの修行を為しているので、その兆しとして発心が起こるというのが真実であろうということである。

その一方で、発心以前の修行は修行とは呼べないレベルのものにならざるを得ない。このため、本当の修行は発心後に為されることになる。この事実に単純にしたがえば、やはり発心という前段階があってその後に覚りを生じるという段階の説が想起されよう。しかしながら、この事実があるとしても、覚りは段階の説にはしたがわないと考えるべきである。初発心、発心、覚りと時間軸上に並べると一定の方向性があるように見えるであろうが、それぞれが順番を為す明確な根拠が存在するわけではないからである。修行の本質的なことは水面下で進行するものであり、表面的な時間関係だけでその全容を推し量ることはできないということである。

ここで言いたいことは、修行者は発心することそれ自体を目標にすべきではないということである。発心していようがいまいが、最終的な覚りを目指して修行に邁進すべきである。それが、自然な流れとして発心に結びつくことになると考えられるからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

今回の引用文は少し長く、微妙なことが書いてあるので、気をつけて読んでほしい。

「人が仏道を歩んだとき実際に覚りに達するかどうかは、この道の重要な分水嶺となる発心にかかっている。そして、発心は覚りの道におけるとくに大きな不可思議である。」のでありますが、「修行者は発心することそれ自体を目標にすべきではないということである。」からです。

そして、「発心していようがいまいが、最終的な覚りを目指して修行に邁進すべきである。」からです。

ここで、改めて誤解がないように注意しておきます。

発心は、仏教を学び始める切っ掛けではなく、覚りへの正しい道を歩み始める切っ掛けになった出来事です。

私の場合は出家までして修行をしていましたが、それは発心以前の出来事です。

SRKWブッダに出会ってから本格的な修行が始まったと言えるのです。

ですから私にとって第一の善知識はSRKWブッダだと言えるのです。



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