石法如来の特別寄稿 「『智慧の解脱(慧解脱)』について(その1)」

法津如来のブログ、「法津如来の独り言」の因縁により「「解脱知見(げだつちけん)」について」(その1~3)まで書くことになりました。

書いたあとで、そこまで書いたのだから「智慧の解脱(慧解脱)」のことも書かなければ「やさしさに欠けるのでは?」と考えました。

そこで、過去の文章と記憶をたどりながら少し書いてみたいと存じます。ただ、前回も書きましたが内容については私(石法)個人の体験であり、解脱においてたどる道は人それぞれである印象を受けますので、固定観念を持つことなく参考程度に止めて下さい。

私の場合は、2017年10月10日に名称の解脱(心解脱)、2018年3月28日に形態の解脱(身解脱)、そして2019年4月6日に智慧の解脱(慧解脱)と、3度にわたる解脱に関する出来事(特殊な感動)を経て修行を完成させました。 ただし、3度そのような経緯を辿りましたが、決して段階の説には与しませんので誤解なさらないようにして下さい。

「「解脱知見(げだつちけん)」について(その1~3)」では、主に形態の解脱(身解脱)について書きましたが、そこで感じたのは名称の解脱(心解脱)と形態の解脱(阿羅漢)とでは大きな差があるということでした。そしてそれ以上に大きいのは智慧の解脱(慧解脱)との差です。・・・特に師(SRKWブッダ)の存在はとても大きく全く違う存在であり、ある意味絶望的な位違うものであると受け止めました。個人的に、師の偉大さに関しては法風如来「涼風通信」432号「SRKWブッダ」に書かれている文章と同意見です。

以下、「涼風通信」432号の一部を引用します。
「それでは、なぜSRKWブッダが偉大なる一流のブッダだと申すのか?その理由は現代の最初に出現したブッダだということ。
ブッダの経験年数が長く、智慧多く、問をだせば瞬く答え、観(止観)に精通、オリジナルの公案を作り、経典を数々出版されてます。現代にこれ以上のブッダがいるのか?というほどの意味です。」(引用おわり(一部修正))

何故、私が師の存在を同様に高く評価するのかと申しますと、「先駆者の道」というのは2番手以降には持ち合わせていないほど多くの、「先駆けとなるだけの資質・条件」を持ち合わせているということです。そうでなければ、道を切り開いて進むことなど不可能だからです。・・・ましてや、「覚り=解脱」などという前人未踏に等しい境地を誰よりも先駆け達成した訳ですから、いくら賛美しても賛美しすぎることはないと私は考えます。

私自身の率直な意見として、自力でいくら修行を重ねても「越えられない一線」が存在したものと想像します。その一線とは、例えば「腕の良い料理人」が居たとして、どうしても師匠である名人の料理で味わった味が出ない・出せない。・・・その様な場面で、ほんの少しだけ師匠(名人)にヒントを与えて貰う。あるいは、師匠(名人)の後ろ姿を見て学ぶ。・・・それだけで、越えられない一線を越えることが出来る訳です。

参考にすべきは、師の存在そのものと著作(経典)の数々です。仮に、その存在が無くなったとしても著作(経典)の数々は、後世に続く修行者の道しるべになることでしょう。
私も、大いに著作物を参考にさせて頂き、現在の自分が形成されているもの考えております。

形態の解脱(身解脱)を達成した後、その境涯(阿羅漢)に安住していた方が楽であるという、かすかな思いが頭をよぎっていたことは事実です。
2018年10月に熊本を訪れた際、師に慧解脱を達成するには「もう一歩前に出る、その覚悟と決心が必要です。」と教えられました。

「もう一歩」を踏み出す勇気と決断力が無ければ修行を完成させるのは難しいという訳です。その「もう一歩」を踏み出すために、私は毎日「観の修行」を続けました。・・・元々、修行を続けることは苦でも何でもなく、むしろ楽しみで行っておりましたからそれはそれで良いのですが、暗中模索状態に変わりはありません。

(つづく)

*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。

石法如来の心解脱、身解脱に続いて、慧解脱についての御寄稿です。ありがとうございます。


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