石法如来の特別寄稿 「一期一会(いちごいちえ)」

私はかつて、「一期一会」という言葉は禅語であると捉えておりました。・・・一昨年6月に法津如来が釧路に来られたときに、春採湖が見える丘の上にある六花亭(ろっかてい)の喫茶店でコーヒーを飲みながらお話をした際、茶道の世界の言葉であることを教えて頂きました。

その言葉の意味は、「茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出
会いであると心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用)とあります。

私は茶人ではなく仏教者なので、自分以外の誰かを巻き込み「その時」を想定するのではなく、自分自身の生き方に関する言葉として、「今というこの時を大切に生きる」と受け止めます。
そういえば、今から三十年程前に年賀状に毛筆にて気取って、この言葉を文面に書いて差し出したことを思いだします。ろくに意味も分からず冷や汗ものですが、若輩ゆえにその様な無知も許されました。

この言葉で、何より感じるのは「その覚悟」です。・・・私が考えるに、その言葉が作られた時代背景が大きく関わっていると観ます。何より、「生きる」ことが難しい時代でなければ、この様な言葉は出てこないことでしょう。
衣食住が整い、生きることに何の苦労も感じなくなったのは日本の歴史上、昭和20年の終戦後のことではないでしょうか?そこに高度成長期があり総中流と言われた時代がありました。

コンビニがあり、スーパーがあり食べることにさほど困らない現代日本の中で、「一期一会」なる言葉が果たして生まれるでしょうか?・・・私は、かなり難しいと考えます。
何より覚悟が定まりません。コロナ騒動を見ても分かりますが、「人の命こそ大事だ」という風潮が世の中に広く浸透・存在し、「何が何でも生ききる」ことが第一であり尊いという考えです。

実は、「今というこの時を大切に生きる」という言葉の裏には、人間の覚悟に裏付けられた「死生観」が存り、単に長生きすれば良いと言っている訳ではありません。
因みに死生観(しせいかん)とは、「死と生に対する見方をいう。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用)とあります。

死生観を養うのに、仏教の思想ほどぴったりくる教えはありません。・・・常に、仏教思想の根底にはそれが流れており、誰もが知る「生老病死」という言葉は死生観そのものであり、仏教思想の入り口に立つ言葉でもあります。

自分自身を振り返って、「一期一会」と年賀状に毛筆で記した当時全く「覚悟というもの」は出来ておりませんでした。うろ覚えの言葉を、さも知ったかぶりでそれらしく記すだけで中身がまるで伴ないませんでした。メッキ仕立ての自分自身を、より良く見せるだけの行為は本当に恥ずかしいものです。

昨年十月、原因不明の食欲不振が続き体重も8キロほど落ち体調不良に陥りました。元気が失われ、体力もフルパワーの二割超ダウンし冗談抜きに「このまま死に向かうのか?」と覚悟しました。
私にすれば、年齢も70歳になり「十分生きた」、「成すべきことは成し終えた」という思いがありますから、特別な気持ちはありません。
この苦しみの世界から、やっと解放されるのかと「半分安心し」覚悟もしましたが、徐々に体力も回復に向かい体重ダウンも止まったかのようです。

六十八歳にして「覚り」を得て、やっと「一期一会」の言葉の意味と、自分自身の気持ちが一つに重なったという感を強く持ちます。
何事にも動じることのない澄み切った心境・・・その状態に至り「今(いま)」という時を刻む(生きる)ことが出来るようになり、初めて、「今というこの時を大切に生きる」(一期一会)という言葉がしっくり来るのです。


*法津如来のコメント

本日2回目のブリグ更新です。

本年も、石法如来には、特別寄稿をして頂きましてありがとうございます。

"石法如来の特別寄稿 「一期一会(いちごいちえ)」" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント