SRKWブッダ著「仏道の真実++」【女性の修行(その1)】(8)

(以下引用)

【女性の修行(その1)】(8)

 ◇ 可能性

 世間の可能性とは、通常は自己実現に関わることがらを指している。具体的には、社会的な地位の確立とか能力の発揮とか、あるいは美の追究などである。

 さて、仏道でいうところの可能性とは、誰もが等しくブッダになり得るということがそれに当たる。そして、これは何かを身につけることによるものではなく、余計なもの——それはこの名称と形態(nama-rupa)として知られるものであるが——を脱落・終滅せしめることによって達成されるものである。つまり、積み重ねる作業でも洗練する作業でもなく、脱落せしめてゼロにする作業である。したがって、原理的には誰もがこれを為し遂げることができ得ると断言できることになる。また、これが実現するときには一挙に為されることもイメージとして理解できるであろう。

 なお、修行者が具体的に行うべきことは自分自身の過去の行為について省察することである。他ならぬ自分のことについて省察するわけであるから、その材料に困ることもないであろう。

 さらに言えば、多くのことがらについて修行を完成させる必要はないということが挙げられよう。自分の中にある悪を、たった一つでよいから完全にとどめたならば解脱が起こるからである。しかも、とどめる悪はどんなに小さくてもよい。それを完全にとどめさえすれば、他の悪も同時にすべてとどめることを得るのである。

 この一挙に起こるということを譬えるならば、赤色を知らない人がたった一つの赤色を識ることですべての赤色を認識できるようになることに似ている。これから赤色を知ろうとする人は、どの赤色でもよい、綺麗な赤色でなくてもよい、赤に属するどんなものでもよいからそれが赤なのだと正しく認識できれば良いのである。それで、あらゆる赤色が分かるようになる。これは理屈ではなく、そのようになるということである。悪をどとめることも同じである。要するに、いろいろな悪があるわけではないのである。悪の根は一つであり、それがいわば脚色されてさまざまな形で現れるということである。

 このようなことから、覚りに向けた修行は見ようによっては分かり易いものである。したがって、誰でも覚りを達成する可能性は充分にあると考えてよいのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

仏道でいうところの可能性とは、誰もが等しくブッダになり得るということです。

これは何かを身につけるということではなく、余計なものを取り除くということですので、誰もができる可能性があるのです。

余計なもの——それはこの名称と形態(nama-rupa)として知られるものであります。

この名称と形態(nama-rupa)については、SRKWブッダのホーム・ページ「覚りの境地」の【名称と形態(nama-rupa:名色)】の解説には次のように書かれています。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou006.htm

名称作用: 一切を認識したときに同時に生じるある種の心的余韻作用
形態作用: 一切を認識したときに同時に生じる心的変換・増幅作用(心的アレルギー作用)

私は、2020年9月23日のブログ記事では、少し異なる説明をしました。
https://76263383.at.webry.info/202009/article_27.html

今回は、また少し異なる説明をします。
名称作用:真実と異なる認識をしてしまうという心の傾向
形態作用:どうしても生きたいという心の傾向

心にこのような傾向があるために、真実のやさしさが現れないのです。



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