石法如来の特別寄稿「『独り』この道を歩む。」

なぜ仏道の修行は、独りで行じなければいけないのか?・・・修行者なら誰もがいだく疑問です。
私は、自分自身の過去を振り返り「覚り」に至ることが出来たのは、ひとえに自分自身を信じ独りゆく修行を行じてきたからに他ならない、という思いを強く持ちます。
 
私自身は、28歳から阿含宗という新興宗教団体に所属し仏教を学んで参りましたが、当時教団内部において仏教の経典(特に、阿含経)をしっかり学んでいる人間を見たことがありません。
所属会員が読んでいるのは、教祖(桐山管長)の著書であり、興味があるのは密教の行法ということでした。
 
教団とは、それ程まで教祖の教えに心酔し全てを信じ行動するところです。・・・私の場合は、少し「へそ曲がり」なところがあり心底信じる気持ちにはなれない。むしろ半分は「疑って」かかるという姿勢を持っていました。
後付けですが、教団に所属していたのは仏教を学ぶためには避けられない因縁であったのだと、今は振り返ることが出来ます。
 
35歳の時に、原始仏教経典の継続的な学びにより法(ダルマ)の何たるかを自分なりに体得し、このまま宗門に所属し活動することはむしろ自分自身不徳を積むものであると考え退会の道を選び、事後独り歩む道を選んだという経緯があります。
 
自分自身が考え、思い至った不徳とは「誤っている道」を「正しい道である」と錯覚・誤認し、自分以外の第三者に布教伝道し、教団入会を勧め「誤った道を他者に歩ませる」などの行為一般を指します。
 
教団を退会する頃は、自らの錯覚・誤認とは言え不徳な行為を積み重ねるより「何もしない(無行為)」ほうが良い、ということはすでに理解しておりました。
そうして、誰の束縛も受けることのない「自分なりの修行」の道を歩むことになります。
 
思い起こせば、独りの修行は自由です。何も束縛するものがありません。宗門の教義も、導師の法話も気にすることはありません。ましてや、密教の行法など必要ないのです。
自由に発想し、自分のやりたいように修行を組み立てればよいのですから精神的にとても楽です。
 
そう考えたら、独りの道は「精神的に楽」である・・・というのが一つのポイントであると言えます。特定の宗門に所属するということ自体が束縛であり、のびのびと成長する芽を摘んでいるようなものです。
沢山仲間が居て、切磋琢磨するなら越えられない困難も容易に越えることが出来ると教える人間もおりますが、そもそも仏道修行とは「各自のことがら」であり、集団で「覚り=解脱」を目指す道ではありません。
 
そして何より大切な事は、虚妄なるこの世において真実なるものを見つけることは至難であるという事実です。要するに、「何が正しくて、何が間違っているのか?」という正しい価値判断を持つ、そのこと自体がとても難しいのがこの世というものなのです。
 
師(SRKWブッダ)は、著書などで「顛倒(てんとう)」という言葉を使いますが、その言葉の意味を真に理解・体得するなら「覚り」は近くにあると言えます。
私自身、「覚り」を得たのちこの世を見渡すにつれ「顛倒」や「虚妄」という言葉が世の真実を捉える表現法として、言葉を超える形で日々感じております。
 
以上のことを踏まえ、修行はなぜ「独り歩まねばいけないのか?」と考えたならその最大の理由は、目の前に存在し発せられる教えはほとんどが「正しいものではない」と考えられるからです。
世の高名な宗教指導者と言えど、その教えは決して「正しいものではない」と観て、自分自身で道を切り拓いていく覚悟を持たなくてはいけません。
 
昔、阿含宗に在籍していた時「山登りの喩え」の話を聞いたことがあります。それは決して難しい話ではなく、集団で列を組んで山登りをしていると仮定した場合、先頭を行くリーダーが道を間違えてしまうと、後を付き従っている全ての人間が道を間違え遭難してしまうという話です。
 
「顛倒」・「虚妄」なるこの世において、自らの明知を信じ他者に頼らず「独りの行」に徹し、「サイの角」のようにただひたすら歩む。・・・全て必要なものは、「自分自身の中」に備わっているのです。



*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。

石法如来から新たなテーマで特別寄稿を頂きました。


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