「無分別智(その6)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その6。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[自由奔放ではない]

無分別智は、自分だけが煩いから脱れ、自分だけが自由奔放に生きていくということを後押しするものではありません。 

無分別智は、独りよがりな独断専行の動機とはなり得ないのです。 

無分別智は、善き行為のみを生むものであると(知る人は)知るからです。



*法津如来のコメント

「無分別智は、善き行為のみを生むものであると(知る人は)知るからです。」

このことを示す文章を、法捗如来のブログ(うやまい うやまう)から引用します。

(以下引用)
ちから

もしも、しあわせに「ちから」があるとしたら、

地球の裏側で泣いているきみの、

その涙の一粒を、たった一粒を、

止めること。

仏のしあわせは、人の器を大きくするようなことではなくて。

器の大きさは、そのままで。

仏になると、その器から溢れだして、枯れることがなくなる。

枯れることがないから、いくらだって、

だれが、いつ、受け取ってもらって、

貰い続けてもらって構わない。

しあわせ。

そのしあわせは、地球の裏側で泣いている子の悲しみ、その涙の粒、そのどうしようもない悲しみ苦しみを、いつも、そばに置いて、どうするか?とわたしの事にして、その子の涙が止まることを、身近に見つけること。

例えば、

気づくことの無かった そら を見つけたしあわせ

気づくことの無かった 花 を見つけたしあわせ

気づくことの無かった 鳥の声 を見つけたしあわせ

気づくことの無かった 虫の声 を見つけたしあわせ

身近にいくらでも しあわせを 見つけられる

わたしが しあわせに 気づくこと

わたしが しあわせを見つける、
あの子の涙を一粒、止める

そう信じてるというだけじゃない

そう、意識を通じて教えてくれる

わたしが いま しあわせに気づく

そこにおいて だれかの かなしみが ひとつ 止まる

「だれひとり かなしませないこと」

その声が、それを知る

おのれを信じた ちから は、そういう ちから

しあわせの ちから

いますぐ あなたに しあわせに なってほしい

泣き続けている きみの 

きみを しあわせにしたい

そういう ちから

(かなしみの本当のところ それを知る ちから)

(以上引用)


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