「無分別智(その43)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その43。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[光や音、声などない]

無分別智の何たるかを如実に知ったとき、
光を見たり、光につつまれたり、
特殊な音(バイブレーション)を聞いたり包まれたり、
何かの声を聞いたり、
身体が軽くなったと感じたり、
身体が大きくなったように感じたり、
世界が違って見えたり、
自然と一体化したと感じたり、
自然が輝いて見えたり、
植物や静物と会話できるようになったり、
霊が見えたりするなどのいわゆる超常的な現象を生じたり感じたりすることはありません。 

勿論、それ以後もそのようなことはありません。 

また、自分がこの世に生まれてきた理由を理解したり、
この世において為すべき自分の使命を理解したりすることもありません。 

つまり、いかなる超越的体験も神秘体験もありません。 

ただ、そのときを境に、自分がこれまで迷妄のただ中にいたことをはっきりと知るのです。


*法津如来のコメント

今回の引用と同趣旨の内容であります慈栄如来の文章を、先月7日のブログ記事に掲載しました。まだ読んでない方のために、またすでに読んでおられる方は確認のために引用します。
https://76263383.at.webry.info/202103/article_8.html

(以下引用)

余計な執著が滅び、人への不信が無くなり、他への慈があって、私はむしろ、人間になれたんじゃないかと思うことがあります。

仏やブッダ、如来と聞いて、ある人々は超越的な存在を思い浮かべて、それに執心する。
そのような人にとっては、仏教組織を離れ、自ら解脱したと称する人々が訝しく思われることもあると思う。

場合によっては、血の滲む努力によって種々の神通や法力、目に見えない力や超常的な智慧を備えて人々を救済するのが仏の類と思われるかもしれない。

しかしながら、人は一人ずつ解脱して、一人ずつ安らけく境地に至り住する。

超常的な事は何一つ無い。

ただ、解脱する前は、自らの本心を、自らに執心することで真っ直ぐに発露出来ないだけで。

人は、やさしく在れない自身を、責め立てたり、悪いのは自分と思いこんだり、逆にある程度自分本位なのは仕方ないと諦めたり、また憂悩して、本当の道に目覚めない。

私は仏(字義的にはその通りなのであろうけれど)になったと言うよりも、ただ、憂い無い人になったと言うだけです。

私は偉くなったわけではありませんし、自分ならざる何かになったわけでもありません。ただ、その時、執著の根が浮草のようになって流されて行った。そういう事なのです。

追って言っておくべきことは、かつては私も、深く病み、憂い、悩み、苦しんだ、一人の人間でありました。
その時私は、自身が癒えて治る事を願っていたし、そしてそれにも増して、自身よりも苦しむ人々の事を、思っていたのもまた事実です。

多く人は皆、病める菩薩であります。(稀に病んでいない菩薩も居るようですが、その話は今は置いておきます。)

(苦悩から)解脱していない理由はあっても、(苦悩から)解脱できない道理はありません。


どうぞ皆さま、肩の力を抜いて、今一度、自身の修めた道がなんであるのか、仏道とはなんであるのか、仏の教えとは何であるのか、そしてこれらはなんのためにあるのかについて、向き合ってみて下さい。

きっと、道が開ける事と思います。

(以上引用)

無分別智が現れるということには、超越的な、超常的な現象は何一つないのです。



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