公案について

昨日は kassii 長老の心解脱の経緯を「覚りの境地(2019改訂版)」から引用して、紹介しました。その引用文には続きがあります。

それには公案について述べられていますので、それを今日は引用します。
「覚りの境地(2019改訂版)」(p189~p190)

(以下引用)

具体的に、SRKW ブッダが提示した公案を示そう。

【苦い薬の (準) 公案】 苦い薬があったとき、その苦さも薬効であると考えなければならない。苦ければ苦い ほど薬効も高い。

【一円の公案】 もし人にお金を与えるならば、一円が最もすぐれている。これはなぜであるか?

「苦い薬の (準) 公案」を解けば基本的に預流果を認定する。このような人は、もう仏 道を踏み外すおそれがないからである。そして、「一円の公案」を通過すれば心解脱(初 期)を認定する。「その表象」を得た人だけが、この公案を通過できるからである。そして、心解脱を果たした人を私は” 長老” と呼ぶ。

ところで、ここに注意すべきことがある。私自身、公案を縁として心解脱した事実があ る。それゆえに、公案が心解脱に役立つものであることはもちろん承知している。それ でも、人々 (衆生) に敢えて公案に取り組むことを勧めず、観 (=止観) に取り組むことを 勧めているのは、公案の効力とその危うさの両方を知っているからである。観に比べて、 公案はより具体的である。しかし、それゆえに道に迷ってしまう危険も大い。

公案に 書かれた一つ一つの言葉にとらわれてしまうと名称 (nama) 作用に翻弄されて、公案は決 して解けないばかりか修行者を大いに迷わせる。その挙句、仏教そのものに疑問を抱く 者も現れるかも知れない。公案に心が転じられてしまっては、話にならない。

公案が解脱に役立つものとして成立するのは、公案を縁として心解脱した人が、まさし く公案に縁があって心解脱した場合だけである。そして、公案に取り組む前にその縁を 知ることができないゆえに、修行者が公案に取り組むことは一種の賭けのような側面を 持っている。このような理由で、人々に広く公案を勧めることはできない。どうしても 公案に取り組みたい修行者は、私か、あるいは長老と密に連絡し合って、道に迷うことが ないようにすべきである。

(以上引用)

以上ですが、引用文に書かれている通り、公案には効用と共に危険性もあります。

実は私(法津如来)は、四十数回解答をSRKWブッダに提出しましたが、通過しませんでした。

最後は、公案を解こうと拘っていることに気がついて、公案をやめました。

しかし、公案を取り組むことを通じてSRKWブッダとメールでやり取りをし、親交を深めたことは大きな意味がありました。

引用文中にもありますが、どうしても 公案に取り組みたい修行者は、私(SRKWブッダ)か、あるいは長老( kassii 長老)と密に連絡し合って、道に迷うことが ないようにすべきです。法津如来に密に連絡し合ってもダメです。


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