石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その5

前回の記事で紹介した経典は、『雑阿含経』巻第12(三0一))に説かれているものです。内容的には、「中道」(ちゅうどう)の教えといわれ初転法輪において五人の比丘(出家僧)に、「愛欲快楽を求めるということ・自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ」の二つの極端に近づいてはならないことを教えたものとされています。
 
中道の教えには、その他に2つのものの対立を離れていることとして「断・常の二見」、あるいは「有・無の二辺」を離れた不偏にして中正なる道を説いています。
 
紹介した経典は、「断・常の二見」について説かれたものです。
断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解です。
常見(じょうけん)とは、仏教用語で、「アートマン(自我:霊魂)」は永遠に続くもので不滅であるとする見解のことです。
 
「輪廻」というものを考えた場合、私は「断見」の「人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解」に注目しました。
たしかに、すべて断滅するなら次の生存(存在)に対し何らかのバトンタッチが出来ないからです。最も、その問題は釈尊にすれば「無記」(むき・ある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う)に該当する事柄です。
 
以下の部分は全くの個人的見解ですが、昨年面白い記事を目にしました。それは、法津如来が投稿された「ウィルスは敵ではない」(2020年4月6日)という朝日新聞のネット記事です。
少し長いですが引用します。(以下、記事引用)
 
「今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。まず、ウイルス表面のたんぱく質が、細胞側にある血圧の調整に関わるたんぱく質と強力に結合する。これは偶然にも思えるが、ウイルスたんぱく質と宿主たんぱく質とにはもともと友だち関係があったとも解釈できる。
 
それだけではない。さらに細胞膜に存在する宿主のたんぱく質分解酵素が、ウイルスたんぱく質に近づいてきて、これを特別な位置で切断する。するとその断端が指先のようにするすると伸びて、ウイルスの殻と宿主の細胞膜とを巧みにたぐりよせて融合させ、ウイルスの内部の遺伝物質を細胞内に注入する。かくしてウイルスは宿主の細胞内に感染するわけだが、それは宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動をした結果である。
 
これはいったいどういうことだろうか。問いはウイルスの起源について思いをはせると自(おの)ずと解けてくる。ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。
 
親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。
それゆえにウイルスという存在が進化のプロセスで温存されたのだ。おそらく宿主に全く気づかれることなく、行き来を繰り返し、さまようウイルスは数多く存在していることだろう。
 
その運動はときに宿主に病気をもたらし、死をもたらすこともありうる。しかし、それにもまして遺伝情報の水平移動は生命系全体の利他的なツールとして、情報の交換と包摂に役立っていった。」(「ウイルスは撲滅できない」福岡伸一さんが語る動的平衡)(以上、引用終わり)
 
私が注目したのは、「親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。」という部分です。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。

本文中に「法津如来が投稿された「ウィルスは敵ではない」(2020年4月6日)という朝日新聞のネット記事です。」とありますが、このブログへの投稿ではありません。


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