気付きなく果実求める猿のよう渇愛増やせば輪廻続ける

ダンマパダ 334

気付きのない行ないをする人は
葛のつるのように渇愛が増える
彼は森の猿が果実を求めるように
あちらこちらの世界を輪廻する


○この詩から学ぶこと

 今回のダンマパダ334番の詩から359番までは「第24章 渇愛」です。渇愛の意味はこの章にある26の詩から理解できると思います。

 さて、この詩は仏教についてあまり知らない方には、よく分からないと思います。なるべく、簡単に説明します。

 「気付きのない行ないをする人」、自分の行動に注意向けずに、反射的に行う、不注意な人、これは普通の私たちです。

 私たちは感覚(眼、耳、鼻、舌、身、意)で外界を感じます。その時、心に渇愛が生まれます。渇愛とは、喉が渇いた人が水を求めるように、欲しい、あるいは生きたい、生きたくないという思いです。実はこのとき自分という幻想も生まれるのです。

 この渇愛に執着すると、現実は自分の思うようには行かないので、苦しみが生まれるのです。気付きのない人は外界も自分も変化していることに気付けないので、現実は思うようには行かないと思うのです。

 気付きのある人は、外界も自分も無常であることが分かり、感覚から妄想することなく、合理的的で理性的な判断ができ、渇愛に執着することがなくなり、苦悩が生まれないのです。

 しかし、気付きのない人は、何かを感じるたびに渇愛がうまれ、その渇愛がどんどん増えるのです。

 そして、その渇愛に執着するのです。この生きたいという思いは、今の肉体が死んでも残り、次の肉体を求め、生まれ変わることになるのです。これが輪廻です。

 気付きのない人にとっては、渇愛はいつまでもなくならないので、猿が森の中で果実をあちらこちら探し求めるように、輪廻を繰り返すことになるのです。

 天界の神々といえども、楽が多い世界ではありますが、寿命があり苦のある世界なのですから、輪廻から脱して、涅槃に至らない限り苦しみを繰り返すことになるのです。


○お知らせ
 タイトルをしばらく都々逸で書いてきましたが、タイトルに一遍上人の和歌を載せてから、短歌も悪くないなと思い始めました。都々逸で書いていたのは、短歌で書くより都々逸の方が書きやすかったからなのですが、今後は短歌で書けるときは短歌で、出来ないときは都々逸にします。森の猿のようにあちらこちら飛び回っていますね。皆様にはどうでもいいことなのかもしれませんが。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~  

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