冥想で自分の心よく見ると人の知らない楽しみがある

ダンマパダ 373

人のいない所に入って
心を静めた比丘が
法を正しく観察すると
人間の知らぬ喜楽がある


○この詩から学ぶこと

 釈尊はこの詩でも冥想をすることを勧めておられるのです。静かなところに行って、冥想しなさいと仰られているのです。

 「法を正しく観察すると」の法は仏教用語の法は多義でありますが、ここでは、ヴィパッサナー冥想の観察の対象として、大念処経(長部経典第22)及び念処経(中部経典第10)に従がい、「身、受、心、法」を指していると考えます。

 「身」とは身体の動きです。身体の動きは眼で見える物ですし、比較的観察がやさしいのです。具体的には、歩く冥想では足の動きを観察します。また座る冥想のときは、お腹の動きを観察します。

 「受」は感覚を観察するのです。耳で聞こえるものは音、音と観察し、足が痛くなれば、痛み痛みと観察します。痒みがあれば、痒み痒みと観察します。

 「心」は心の観察です。これは少し難しいのです。色も形もなく掴みどころがないからです。しかも、私たちは自分の心を観察するという経験がほとんどないのです。極端な例で言えば、かんかんに怒っている人に、なぜそんなに怒っているのか聞いても、自分は怒っていないというのです。自分の心を観察するのは非常に難しいのです。しかし、自分の感覚を観察する訓練をすると、自分の心の観察も出来るようになります。

 「法」、この場合の法は真理です。上にあげた「身、受、心」観察することを通じて「真理」を観察できるようになります。

 「身、受、心、法」の観察修行の過程は、「七覚支」といわれる「悟りを支える七つの要素」を習得する過程をたどります。これらのそれぞれの名前は次の通りです。1.念覚支 2.択法覚支 3.精進覚支 4.喜覚支 5.軽安覚支 6.定覚支 7.捨覚支。これらは冥想実践によって段階的に習得されるものでありますが、これら七つがセットになって悟りを完成させるものなのです。それぞれの意味は、いつものように星飛雄馬氏著「初期仏教キーワード」137~140ページを御参照ください。(とりあえず上の詩を理解するためには、これらすべての意味を知らなくても分かります。)

 この「喜覚支」の「喜」は、星氏の説明にもありますが、世俗的な「喜」とは違うのです。世俗的な喜は自分の好む感覚が得られた時に現われるものですが、「喜覚支」の「喜」は、欲から離れたときの喜びなのです。ですから、この詩では「人間の知らぬ喜楽」と言っているのです。これは体験してみなければ分からない、世俗的な喜とは比べられない喜びです。

 「4.喜覚支 5.軽安覚支 6.定覚支 7.捨覚支」は冥想によって初めて体験できるものなので、これらをすべて含めて「人間の知らぬ喜楽」と言っているのです。「人間の知らぬ喜楽」に挑戦して見る価値はあると思います。

○冥想で自分の心よく見ると 人の知らない楽しみがある

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~

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