放逸を危険だと見る修行者は大小煩悩焼き尽くすべし

ダンマパダ 31


不放逸を楽しみ
放逸を危険だと見る比丘は
小さな煩悩も大きなものも
火のように焼き尽くして行く


○この詩から学ぶこと

 以前、スマナサーラ長老にこの詩の因縁話しを聞いた時、妙に印象に残っていることがあります。釈尊の時代の比丘たちは瞑想方法を釈尊から一度だけ習い、後は森のなかに入り悟るまで修行をするのが普通だったということです。ですから、次に釈尊にお会いするのは、森から出て、「悟りました。」と報告する時だったということです。ところが、この詩の主人公の比丘は、森の中に入り瞑想修行に励んでいましたが、どうしても悟れないでいました。

 彼はそのことを悩んだ末、再度釈尊に会いに行くことにしました。その帰路で、彼は山火事に遭遇しました。彼は山火事から避難しながら、山火事の様子を観察していました。火は大きな木も小さな木も草も一つずつ焼き尽くしていることに気がつきました。同時に、彼は小さな煩悩も大きな煩悩も一つずつ焼く尽くすべきだと気がつきました。そこで、彼はすぐ森に戻り、瞑想を始め、小さな煩悩も、大きな煩悩も焼き尽くし、悟ることができたということです。

 以上の話から分かることは、この比丘は小さな煩悩も大きな煩悩も一つずつなくすことをしてなかったのです。瞑想修行に励んでいたとはいえ、不放逸ではなかったのです。だから悟れなかったのです。ですから、「不放逸を楽しみ 放逸を危険だと見る比丘」とはどのような比丘なのかと言えば、「小さな煩悩も大きなものも 火のように焼き尽くして行く」比丘だと分かります。

 すなわち、不放逸とは小さな煩悩も大きな煩悩も一つずつなくしていくことだということになります。
ダンマパダのこの章では不放逸の意味をいろいろな面から教えているのです。不放逸は実践ですから、一つの言葉で理解しない方がいいのです。今回の詩で不放逸の意味がもう一つ明らかになりました。

○放逸を危険だと見る修行者は大小煩悩焼き尽くすべし


~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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