覚者から何も学べぬ愚か者スープの味が分からぬ匙だ

ダンマパダ 64、65

愚か者は生涯
悟った人に仕えても
真理を知ることがない
匙がスープの味が分からぬように

賢い者は僅かな時でも
悟った人に仕えるならば
真理を理解する
舌がスープの味が分かるように


○この詩から学ぶこと

 この詩は前回のダンマパダ63番を踏まえてのものです。つまり、自分が愚か者であると自覚しているか、自覚していないかが問題になっているのです。自覚している人は賢い者であり、自覚していない人を愚か者と言っているのです。

 この愚か者の自覚有る無しによって何が変わるかといえば、愚か者の自覚の有る人は学ぶ姿勢があることです。この自覚の無い人は学ぶ姿勢がないのです。このことを理解するためによく語られる話があります。それは、水で満たされたコップにはさらに水を注げない、さらに注いでも水はこぼれ出てしまうだけなのです。一方、愚か者の自覚の有る人は空のコップなのです。注いだ水はコップの中に満たされます。

 悟った人から学ぶことは、その言葉からももちろんありますが、それ以上に立ち振る舞いにあります。経典の中から、私が立ち振る舞いが大きな意味を持ったとして、思いだされる場面はパーリ律蔵の大品に書かれている「サーリプッタとモッガッラーナの出家」に関する文章です。宮元啓一著「仏教かく始まりき」(春秋社)の200ページから引用します。

 「時に、アッサジ長老は、早朝に下衣を着け、鉢と衣を持って王舎城に乞食をしに入り、行くも帰るも、前を見るのも後ろを見るのも、屈するも伸ばすも清らかで、目線を下に落とし、正しい威儀のあり方にかなっていた。遊行者・サーリプッタは、アッサジ長老が王舎城で乞食をしながら、行くも帰るも、 前を見るのも後ろを見るのも、屈するも伸ばすも清らかで、目線を下に落とし、正しい威儀のあり方にかなっているのを見た。
 見て、彼に、次のような思念が生じた。『世間において尊敬を受けるに値する人、あるいは尊敬を受けるに値する道に入った人々、この人は、そうした比丘たちの一人だ。私は、この比丘に近づいて訊ねてみよう。『友よ、あなたは誰のもとで出家したのですか。あるいは、誰があなたの師なのですか。あるいは、あなたは、誰の教え(真理)を喜んでおいでなのですか』と」

 アッサジ長老は釈尊の初めの説法で解脱した五比丘の一人ですが、彼は歩く姿だけで、後に釈尊の弟子になり、智慧第一と言われるサーリプッタ長老の出家のきっかけを作ってしまうほどの、立ち振る舞だったのです。また、その時の遊行者・サーリプッタは、今回の詩にあるように、賢い者であったから、アッサジ長老の立ち振る舞いから真理を理解する手がかりをつかんだのです。

 私もあるお坊様の立ち振る舞いから無執着とはこういうものかと学んだことがあります。ある法要の席に遅れてきたあるお坊様が、食事のお布施の席に着こうとしていましたが、その場が混雑して席に着けませんでした。比丘は正午以後の食事は禁止されていますから、もしその時、食事ができないと、その一日は食事はできないことになります。しかし、そのお坊様は、無理に席に着こうとはせずに、本当に自然にその場を離れました。私だったら何とか席に着こうとするのに、そのお坊様のあまりに自然な振る舞いに、私は無執着とはあゆうものだなと思いました。

 そのほか、悟った方からの立ち振る舞から学ぶことは多いのです。

○覚者から何も学べぬ愚か者スープの味が分からぬ匙だ
○覚者からすぐに学ぶは賢い者だスープの味を味わう舌だ

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
 

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