338~343.渇愛に捕まった人々はわなにかかった兎のように震えてる

ダンマパダ 第24 渇愛の章 338~343

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo   tassa   bhagavato   arahato    sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


○片山一良先生訳
 338.
根が傷つかず、堅固なら
樹は切られても、また育つ
渇愛の根も断たれなければ
この苦しみは何度も起こる
 339.
愛しいものに向かい流れる
三十六の激流があれば
貪りによる思いの流れが
邪見の者を運び去る
 340.
どこにも流れは流れゆき
また蔓草は生じ、とどまる
その生じた蔓草を見て
慧によりその根を断つがよい
 341.
愛着に染み、喜びが
また人々に現れる
歓喜(かんぎ)により楽を求める
その人々は生老に近づく
 342.
愛執を先にする人々は
罠の兎のように恐れる
束縛により、執着により
長く何度も苦を受ける
 343.
愛執を先にする人々は
罠の兎のように恐れる
それゆえ比丘は愛執を去れ
自己の離貪(りとん)を願いつつ



○日常語訳
 338.
根が安全で強固ならば
木が切られても再び成長するように
潜在する渇愛が根絶されない限り
この苦しみは何度も現われる
 339.
彼に快に向って流れる
三十六の激しい渇愛あれば
その貪欲に基づく思考は
邪見者を押し流す
 340.
渇愛の流れはどこにでも流れ
葛のような渇愛は芽を出す
その繁茂する葛を見て
その根を智慧によって切り取れ
 341.
人々は愛欲に流され
快楽への愛着がある
彼らは快に依存し楽を求める
こうして生老の輪廻に近づく
 342.
渇愛に捕まった人々は
わなかかった兎のように震えてる
束縛に執着する衆生は
なんどもなんども苦に到る
 343.
渇愛に捕まった人々は
わなにかかった兎のように震えてる
それ故に渇愛を除去しなさい
比丘は自分の離貪を望んで


○子供のためのダンマパダ

目を赤くしてふるえてる
つかまったウサギのように
ほしいほしいと思う子は
もらえなければ悲しいし
もらえても、なくなるのが心配で
いつもいつもおびえてる

目を赤くしてふるえてる
つかまったウサギのように
ならないために
かしこい子供は
ほしい、ほしいと思わずに
どんなものでも満足するよ





○ひと口メモ

338番
 昨日説明しました渇愛というものは、多くの植物のように枝や幹を切られても、根が残っていると再生するなかなかしぶといものなのです。私には渇愛がなくなったと思っても、心のどこかに潜んでいた渇愛は条件は整うとまた何度でも現れます。ですから、渇愛は根まで残らずなくさなければいけません。

339番
 三十六の激流とは三十六の渇愛を意味します。
 渇愛には三種類あります。
1.愛欲 : 色、声、香、味、触の五欲に対する渇愛(欲しい欲しいという思い)
2.有愛 : 生存に対する渇愛(生きたいという思い)
3.無有愛 : 虚無への渇愛(破壊したいという思い)
 眼において上記の三種類の渇愛があります。同様に、鼻、耳、舌、身、意にそれぞれ三種類ありますから十八種類の渇愛があります。
 渇愛の対象として、色、声、香、味、触、法で渇愛が分類されますから、ここでも十八種類の渇愛があります。 以上により、十八に十八を加えて三十六の渇愛があるというわけです。これらの多数の渇愛はすべて快楽を求めて流れ、執着になるのです。そして苦しみを作り、輪廻の原因になるのです。

340番
 蔓草(葛)は地上の部分の繁茂力は強力ですが、それは同時に根の繁茂力も強力です。ちょっとした力では掘りつくせません。ですから、智慧によりその根を切り取れと述べられています。具体的には、観察により、一つの渇愛が現れたまだ弱いうちに切り取るようにするのです。ですから、不放逸、正念が必要なのです。

341番
 渇愛から執着になります。執着が次の生が現れ、輪廻を繰り返すことになるのです。

342番
 「渇愛に捕まった人々」とは「渇愛のある人々」ということですが、ほとんどの人が渇愛のある人なのです。悟った人意外には渇愛があります。渇愛のある人は常に、不平不満があります。満足してないのですから、身体は貧乏ゆすりをしなくても、心は貧乏ゆすりのように震えているのです。前々回のブログに書きましたが、ウサギばかりでなく小動物は常に恐怖で震えています。渇愛のある人はそのような状態なのです。しかし、生に執着して輪廻を繰り返し、苦を繰り返すのです。

343番
 それ故、比丘は離貪(貪りから離れることですが、解脱のことです。)を望んで、渇愛を捨て去りなさいと述べられています。
 この詩で片山先生の訳には「比丘は」という言葉がありますが、前回までの訳では「比丘は」という言葉がありません。これがパーリ語原文に「比丘」があるテキストとないテキストがあるからです。木岡治美様のノートも片山先生も比丘がある方を採用しているので、今回そちらを採用しました。
比丘はと書かれていますが、離貪を望む人は、比丘に限らず、渇愛を捨て去るのです。 

○前回までのこの詩に関するブログ記事

前回

338.渇愛の根の根絶がない限りこの苦しみはまた現われる
http://76263383.at.webry.info/200908/article_25.html

339~341.渇愛は三十六の流れなりその貪欲は彼を押し流す
http://76263383.at.webry.info/200908/article_26.html

342.343.渇愛に捕まった人は震えてる震えているから苦悩が続く
http://76263383.at.webry.info/200908/article_27.html


前々回

338.渇愛の根の根絶がない限りこの苦しみはまた現われる
http://76263383.at.webry.info/200810/article_16.html

339~341.渇愛は三十六の流れなり欲に基ずく見解運ぶ
http://76263383.at.webry.info/200810/article_17.html

342.343. 渇愛に捕まった人は震えてる わなにかかった兎のように
http://76263383.at.webry.info/200810/article_18.html
 

○パーリ語原文

338.
ヤターピ ムーレ アヌパッダヴェー ダルヘー
Yathāpi   mūle   anupaddave    daḷhe,
であれば 根が   安全で      強固で
チンノーピ   ルッコー プナレーワ  ルーハティ
chinnopi     rukkho   punareva    rūhati;
切断されても  木が   再び ように 生長する
エーワンピ タンハーヌサイェー アヌーハテー
Evampi    taṇhānusaye      anūhate,
ならば    潜在する渇愛が   根絶されない
ニッバッタティー ドゥッカミダン  プナップナン
nibbattatī      dukkhamidaṃ  punappunaṃ.
起こる       この苦が     再三再四

339.
ヤッサ チャッティンサティ ソーター
Yassa  chattiṃsati       sotā,
彼に  36の         流れは   
マナーパサワナー ブサー
manāpasavanā    bhusā;
快に向かう流れ  激しい
ワーハー ワハンティ ドゥッディッティン 
Vāhā    vahanti    duddiṭṭhiṃ,
流れは  運ぶ     邪見者を
サンカッパー ラーガニッスィター
saṅkappā    rāganissitā.
思考は    貪欲に基づく
340.
サワンティ サッバディ   ソーター
Savanti    sabbadhi    sotā,
流れる   すべての所に 流れは
ラター ウッパッジャ ティッタティ
latā   uppajja     tiṭṭhati;
葛は 芽生えて   繁茂する
タンチャ ディスワー ラタン ジャータン
Tañca   disvā     lataṃ  jātaṃ,
その 又 見て    葛の  発生を
ムーラン パンニャーヤ チンダタ
mūlaṃ   paññāya     chindatha.
根を  智慧によって   切断せよ
341.
サリターニ スィネーヒターニ チャ
Saritāni    sinehitāni      ca,
流れが     愛情(の)    又
ソーマナッサーニ バワンティ ジャントゥノー
somanassāni     bhavanti   jantuno;
喜悦が       存在する  人間には        
テー   サータスィター スケースィノー
Te     sātasitā      sukhesino,
彼らは  快に依存し  楽を求める者
テー  ヴェー ジャーティジャルーパガー ナラー
te     ve    jātijarūpagā           narā.
彼らは 実に  生老(輪廻)に近づく     人

342.
タスィナーヤ  プラッカター   パジャー
Tasiṇāya     purakkhatā     pajā,
渇愛によって 駆り立てられた  人々は
パリサッパンティ サソーワ   バンディトー
parisappanti     sasova    bandhito ;
ばたばたする   兎のように 捕まった
サンヨージャナサンガサッタカー
Saṃyojanasaṅgasattakā,
束縛に執着する衆生は
ドゥッカムペンティ プナップナン  チラーヤ
dukkhamupenti   punappunaṃ   cirāya.
苦に近づく     何度も      久しく
343.
タスィナーヤ  プラッカター パジャー
Tasiṇāya     purakkhatā    pajā,
渇愛によって 駆り立てられた 人々は 
パリサッパンティ サソーワ   バンディトー
parisappanti     sasova    bandhito;
ばたばたする   兎のように 捕まった
タスマー  タスィナン ウィノーダイェー
Tasmā    tasiṇaṃ    vinodaye,
それ故に  渇愛を   除去せよ   
ビック  アーカンカ  ウィラーガマッタノー
bhikkhu ākaṅkha    virāgamattano.
比丘は 願う      離貪を 自己の


〇詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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~~~~~お 知 ら せ~~~~~

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