賢者から 直ちに学ぶ 識者たち スープの味を 味わう舌だ(65)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ムフッタマピ   チェー  ウィンニュー
Muhuttamapi   ce     viññū,
一瞬でも     たとえ   識者が

パンディタン    パイルパーサティ
paṇḍitaṃ      payirupāsati;
賢者に       仕える(ならば)

キッパン   ダンマン     ウィジャーナーティ
Khippaṃ   dhammaṃ     vijānāti,
すぐに    法(真理)を    知る

ジウハー   スーパラサン     ヤター
jivhā     sūparasaṃ         yathā.
舌が     スープの味(知る)   ように


○直訳
たとえ一瞬でも識者が
賢者に仕えるならば
すぐに真理を知る
舌がスープの味を知るように


○一口メモ
この詩は昨日の詩と対になるものです。
「賢者から 何も学べぬ 愚か者 スープの味が 分からぬサジだ」(64)
「賢者から 直ちに学ぶ 識者たち スープの味を 味わう舌だ」(65)

昨日の「愚か者」は、今日は「識者」に変わっています。
愚か者と識者の違いは何でしょうか?
愚か者は、自分が愚か者との自覚のない人、そのために学ぼうとしてない人です。
識者は、自分が愚か者との自覚がある人、そのために学ぼうとしている人です。

この詩の賢者、識者、愚か者をより具体的に述べれば、
賢者は無学の人、阿羅漢、
識者は有学の人、阿羅漢以外の聖者、悟った人、
愚か者は真理を知らない凡夫、無知の自覚のない人ということになります。

凡夫は、生涯賢者に仕えても、真理は分からないのですが、
無知の自覚のできた識者は、一瞬でも賢者に仕えれば真理が分かると述べられていますが、識者はどのように、真理を知るのでしょうか?

賢者から学ぶことは、その言葉からももちろんありますが、それ以上に立ち振る舞いにあります。その例(サーリプッタ尊者とアッシジ尊者の例)は前々回のこの詩に関するブログ記事に書きました。

スマナサーラ長老は以前、阿羅漢の特徴は一般の人には見分けられないものですが、「桁外れた落ち着き」があると言われたことがありました。それも識者にならなければ見分けられないものでしょう。

「賢者から 直ちに学ぶ 識者たち スープの味を 味わう舌だ」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
前々回http://76263383.at.webry.info/200902/article_13.html
前回http://76263383.at.webry.info/200912/article_17.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

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