断食の 苦行をしても 価値はない 法を究めた 人たちよりも(70)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


マーセー   マーセー  クサッゲーナ
Māse      māse     kusaggena,
月に      月に     草に先(ほどの)

バーロー  ブンジェッヤ   ボージャナン
bālo      bhuñjeyya     bhojanaṃ;
愚者が   食べても     食べ物を

ナ    ソ    サンカータダンマーナン
Na    so     saṅkhātadhammānaṃ,
ない  彼は   法を究めた人の

カラン   アッガティ  ソーラスィン
kalaṃ    agghati     soḷasiṃ.
の一に  値し     十六の


○直訳
愚者が月に月に草の先ほどの
食べ物を食べても
彼は法を究めた人の
十六分の一に値しない


○一口メモ
この詩の意訳は次の通りです。「愚かな修行者が月に一回だけ草の先程の食べ物を食べるだけの断食修行を行っても、その修行の成果はブッダの教えをよく理解した修行者の修行の16分の1の価値もありません。」というものです。愚か者の特徴として、誤った修行方法を選択するものなので、正しい修行方法を教えているのです。ブッダの教えた修行方法を理解することです。

ブッダは王家を出家して、いわゆる一方の極端である楽行を捨てました。出家後は当時のインドの伝統に従って徹底的に苦行を行いました。しかし、苦行には何の意味もなく、苦行では悟れないことをよく理解して、二つの極端に従わずに、中道を発見したのです。中道とは真ん中の道という意味でなく、中正な道です。具体的には涅槃に導く八つの聖なる道、八聖道です。

なぜ愚かな修行者は苦行を行うのか少し考えてみましょう。
第一の理由は、涅槃に向かう正しい道を知らないからです。ブッダが悟るまでは誰もその道を知る人がいなかったのですから止むを得ないことです。ブッダも悟るまでは苦行を行っていました。詩の中の言葉「法を究めた人」とは、八聖道をよく理解し、実践する人を意味します。八聖道は、慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想で実践できるのです。

第二の理由は、修行は心を育てることだと理解していないからです。苦行とは、肉体を痛めつけることですが、肉体を痛めて、心が育つと思う誤解があるからです。(これは第一の理由に含まれるともいえます。)
第三の理由は、肉体を痛める苦行に耐えていると、自分も修行しているという自己満足があるのです。修行の目的はどうでもよくなっています。
第四の理由は、苦行に耐えていると、周りの人々に「あの人が頑張っている」と称賛されるのです。尊敬までされるのです。
第五の理由は、苦行している修行者を無知な人々は、いろいろお世話して、生活の面倒をみるのです。苦行を生活のために行っているのです。
以上のような理由です。

最後に、ブッダの修行方法を学んでいる方々に、老婆心で注意を申し上げます。
いわゆる、肉体を痛めつける苦行でなくても、例えば座る瞑想では、それに慣れるまでは足や腰などが痛くなります。しかし、苦行ではいけないと言ってやめてはいけません。堪忍・忍耐も必要です。また初めは瞑想すると心が苦しくなります。育てられてない心は瞑想をしたくないので、苦しくなるのです。しかし、それは苦行ではありません。心の訓練です。忍耐しなければ心は成長しません。そのことは心得ていて下さい。


「断食の 苦行をしても 価値はない 法を究めた 人たちよりも」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200902/article_17.html
http://76263383.at.webry.info/200912/article_21.html

○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

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