何事も 我に従えと 威張る比丘 慢心増して 心を汚す(74)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


マメーワ  カタ     マンニャントゥ
Mameva   kata    maññantu,
私 が    為したと  思え

ギヒーパッバジター   ウボー
gihīpabbajitā       ubho;
在家も 出家も     両者は

マメーワーティワサー  アッス
Mamevātivasā       assu,
私だけに 強権が    ある

キッチャーキッチェース  キスミチ
kiccākiccesu        kismici;
種々の所作で       何事でも

イティ   バーラッサ  サンカッポー
Iti      bālassa     saṅkappo,
と言う   愚者の    思考と

イッチャー   マーノー   チャ     ワッダティ
icchā      māno    ca        vaḍḍhati.
欲求と    慢心は   ( そして)  増す

○直訳
私が為したと思え
在家も出家も両者は
種々の所作で何事も
私だけに強権がある
と言う愚者の思考と
欲求と慢心は増す。


○一口メモ
この詩は昨日の73番の詩の続きです。意訳すると「この寺の業績は私の努力によるものだと思うべきであり、またこの寺で為される事柄は、在家も出家も私の指導に従うべきだと考える愚かな比丘の欲と慢心は増大するのである。」

この愚かな比丘は、欲と慢心を恥ずかしげもなく、あらわにしています。

今回は、慢心=慢(マーナ)について説明します。

慢とは、「私は存在する」という実感から、自分を基準にして他者と比べるは心のはたらきです。奢り高ぶることです。慢には3種類あります。
1.増上慢 : 自分が他人より上だと考える。通常の意味での慢心です。
2.同等慢 : 自分が他人と同等と考える。
3.卑下慢 : 自分が他人より劣っていると考える。

慢、すなわち「自分と他人をすぐに比較するという心の癖」はなかなか取り除くできない煩悩なのです。悟りの第一段階の預流果になれば、有身見(自分が存在するという見解)は無くなるので、預流果になれば、慢(マーナ)は無くなるように考えられますが、実際には慢は悟りの最終段階の阿羅漢になるまで残っている根強い煩悩なのです。自分が存在するという見解は無くなっても、自分が存在するという実感はなかなか無くならないと言うことでしょう。

慢を捨てるということは、自我を捨てる作業です。自我を少なくして、自我をなくすのです。

慈悲の瞑想で自我をなくすことができます。
慈悲の瞑想は慈悲喜捨の心を無限に大きくすることです。
慈の心は友情の心です。小さな自我の壁を破るのです。
悲の心は憐れみの心です。困った人がいれば助けようとする心です。自己中心的な自我をこわします。
喜の心は共感の心です。自分と他人の一体感を育てます。自我の壁が薄くなるのです。
捨の心は悟りの心、無我の心です。一切の差別がなくなり、そこには自我は存在しません。
涅槃のそばにいるのだと思います。


「何事も 我に従えと 威張る比丘 慢心増して 心を汚す」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200902/article_20.html
http://76263383.at.webry.info/200912/article_24.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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