誤りを 指摘する人 宝物 近づくならば 善いことばかり(76)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ニディーナンワ  パワッターラン
Nidhīnaṃva     pavattāraṃ,
宝を ように    教える人

ヤン    パッセー    ワッジャダッスィナン
yaṃ     passe      vajjadassinaṃ;
その人  会うならば  罪を指摘する人に

ニッガイハワーディン  メーダーウィン
Niggayhavādiṃ       medhāviṃ,
叱責する人        智慧者

ターディサン  パンディタン  バジェー
tādisaṃ      paṇḍitaṃ    bhaje;
そのような   賢者に     親近するように

ターディサン  バジャマーナッサ
Tādisaṃ     bhajamānassa,
そのような   親近する者にとって

セッヨー      ホーティ ナ   パーピヨー
seyyo        hoti    na    pāpiyo.
より善いことは  あり   ない  より悪いことは


○直訳
宝を教えてくれる人のように
罪を教えてくれる人に
叱責してくれる人、智慧者に会うならば
そのような賢者に親交するように
そのような親交する人にとって
より善いことはあり、より悪いことはない


○一口メモ
「賢者の章」の始めに、善友を持つことの重要性について、理解する必要があります。なぜならば、賢者とは善友の重要性を理解した人だからです。
以下ブッダの言葉を上げますので、それを理解してください。

「比丘たちよ、太陽が東に昇れば、前兆として曙があるように、善友を持つ者は、比丘にとって八支聖道の生じる先駆けであり、前兆である。善友を持つ比丘たちは八正道を修習し多修することが期待できる」(南伝大蔵経第16巻上相応部大篇189頁)

「アーナンダよ。善友を持つことは、梵行のすべてである。善友を持つ者は、八正道を修習し多修することが期待できる。善友であるわれに頼り、生ある衆生は生を脱し、老ある衆生は老を脱し、死ある衆生は死を脱し、愁、悲、苦、憂、悩ある者は愁、悲、苦、憂、悩を脱す」(南伝大蔵経第16巻上相応部大篇140-2頁)

「善友ほどまだ起こさない善法を起こし、すでに起こった悪法を衰退させる法は他にはない。善友を持てば、まだ起こらない善法は起こり、起こった悪法は衰退する」(南伝大蔵経第17巻増支部一集19頁)

他にも多数、善友についての言葉があります。生命が無明の中で輪廻の苦しみの悪循環から解脱するためには善友が必ず必要なのです。

この76番の詩で述べている「罪を教えてくれる人、叱責してくれる人」は善友なのです。すなわち、八正道を修する必要性を教えてくれる善友であり賢者です。

ここで、「罪を教えてくれる人、叱責してくれる人」を善友であり、宝のありかを教えてくれる善友、賢者と思える人は賢者であるという意味もあること忘れないでほしいと思います。この意味は、愚者が自分を愚者あると思えれば、その人は賢者と言うように、他人の批判を宝と思える人は賢者なのです。それだけ、他人の批判を受け入れるのは難しいと言うことなのです。私たちは、他人の批判を受け入れていないのが実情です。

「誤りを 指摘する人 宝物 近づくならば 善いことばかり」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200902/article_22.html
http://76263383.at.webry.info/200912/article_26.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーをクリックして下さい。
記事内容の改善の参考にしたいと思っています。

"誤りを 指摘する人 宝物 近づくならば 善いことばかり(76)" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント