忠告し 教えさとせば どうなるか 善人喜び 悪人嫌う(77)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


オーワデッヤーヌサーセッヤ
Ovadeyyānusāseyya,
訓戒すべし教戒すべし

アサッバー   チャ     ニワーライェー
asabbhā      ca      nivāraye;
不正なことから そして   遠ざけるように

サタンヒ     ソー  ピヨー  ホーティ
Satañhi      so    piyo    hoti,
善人に 実に  彼は  愛が   ある

アサタン  ホーティ  アッピヨー
asataṃ    hoti     appiyo.
悪人に   ある    憎が


○直訳
訓戒すべし教戒すべし
そして不正なことから遠ざけるように
実に、善人に彼は愛がある(愛される)
悪人には憎がある(憎まれる)


○一口メモ
意訳すれば「賢者は、他人を教えさとし、教え戒めなさい。そして不道徳なことをさせないように注意しなさい。そうすれば、善人からは喜ばれるが、悪人からは憎まれます。」。

この詩は、ブッダが賢者に対して述べられた詩です。この詩できた因縁物語によれば、この賢者とは、最上の二大弟子はサーリプッタ長老とマハーモッガッラアーナ長老だそうです。

ブッダは、誰にでも「訓戒すべし、教戒すべし、そして不正なことから遠ざけるように」とは言われないのです。普通は50番の詩で述べられているように、「他の人の あれやこれやを 言わないで 己の行為を 観察すべき」と言うことがブッダの基本的な態度です。

ブッダは阿羅漢方であったから、このよう言われたのだと思います。賢者であれば、ブッダの道を教えると言う善友としての役割があるのです。また、サンガの一員である比丘も善友としての役割をはたす責任があるのです。それができなければできるように熱心に修行しなければいけません。

この詩の後半も面白い知るべき事柄です。賢者が訓戒や教戒をした結果について述べられています。善人からはその賢者は愛されますが、悪人からは憎まれますというのです。それは賢者側の結果です。しかし、訓戒や教戒をされた側は、すなわち私たちがそれらの賢者の言葉を素直に受け入れるならば「自分は善人だ」と考えてよいのですが、彼らの言葉を受け入れず、拒否するようならば「自分は悪人だ」と自覚する必要があるのです。これは昨日の76番の詩と同じ趣旨です。

「忠告し 教えさとせば どうなるか 善人喜び 悪人嫌う」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200902/article_23.html
http://76263383.at.webry.info/200912/article_27.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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