春になり 白鳥沼を 捨てるよう 念ある人は 執着捨てる(91)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ウッユンジャンティ  サティーマントー
Uyyuñjanti       satīmanto,
出家する        念ある者は

ナ   ニケーテー  ラマンティ   テー
na    nikete      ramanti    te;
ない  家で      楽しま     彼らは

ハンサーワ    パッララン   ヒトゥワー
Haṃsāva      pallalaṃ    hitvā,
白鳥は ように  沼を      捨てる

オーカモーカン  ジャハンティ   テー
okamokaṃ     jahanti       te.
家々を       捨てる       彼らは


○直訳
念ある者は出家する
彼らは家で楽しまない
白鳥が沼を捨てるように
彼らは家々を捨てる


○一口メモ
この詩の始めの言葉「ウッユンジャンティ」には、「家を出る」と「努力する」と言う二つの意味があります。ですから、どちらの意味で訳してもよいと思いますが、ブッダをこの二つの意味を知って、この言葉を使ったのだと思います。

この詩の意味は、「念ある人は出家する、彼らは執着という家を楽しまない、彼らは白鳥が何も持たずに沼を飛び去って旅に出るように、執着の家々を捨てている」ということになります。

この詩の因縁物語によりますと、ブッダの教えを継いだ阿羅漢であるマハーカッサパ長老についてのべられたものです。あるとき、ブッダは多くの比丘たちと共にラージャガハ(王舎城)の近くの精舎で雨安吾を過ごされました。雨安吾の後、多くの比丘がそこから出て遊行を始めると、精舎が空になるので、ブッダはマハーカッサパ長老にそこに残ってほしいと言われました。しかし、多くの比丘はそのことを知らずに、「マハーカッサパ長老は精舎に執着して遊行に出ないのだ」と非難しました。それに対して、ブッダは「念ある人は出家する、彼らは執着という家を楽しまない、彼らは白鳥が何も持たずに沼を飛び去って旅に出るように、執着の家々を捨てている」と述べたということです。

この詩には阿羅漢という言葉はでていませんが、「念ある者」は阿羅漢のマハーカッサパ長老を指しているのです。しかも「念ある者」で阿羅漢をさすということは、ブッダは「念があること」を阿羅漢の重要な特質と考えられておられたということだと思います。ブッダの最後の言葉は「もろもろの事象は過ぎ去るものである。不放逸に(念を絶やさず)修行を完成させなさい。」でありました。「念あることは」は非常に重要なことなのです。


「春になり 白鳥沼を 捨てるよう 念ある人は 執着捨てる」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_7.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_11.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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