道徳を 守らず百年 生きるより 道徳守って 一日生きよ(110)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ヨー チャ  ワッササタン  ジーウェー
Yo   ca   vassasataṃ   jīve,
人が  又  百年間     生きる

ドゥッスィーロー   アサマーヒトー
dussīlo         asamāhito;
戒を守らず      心の統一なく

エーカーハン  ジーウィタン  セッヨー
Ekāhaṃ      jīvitaṃ      seyyo,
一日の      命が      より優れている

スィーラワンタッサ  ジャーイノー
sīlavantassa      jhāyino.
戒を守り        禅定のある人の


○直訳
人が戒を守らず、心の統一なく
百年生きる(ことより)
戒を守り、禅定のある人の
一日の命がより優れている


○一口メモ
今日から六日間、「・・・・・して、百年いきるより、・・・・・して一日生きる方が優れているという形式の詩が続きます。「・・・・・」の部分は毎日変わるますので、その部分は毎日考えるとして、その前に、百年年生きるより、一日生きる方が優れているとはどういうことでしょうか?

普通は一日生きるより、百年生きる方が優れていると考えるのです。ほとんどの人は、一日でも長く行きたいと思って努力しているのです。しかし、ブッダは百年生きることより、一日でもこのように生きなさいと問題提起しているのです。

本当にそういうものかどうか考える必要があるわけですが、現状の自分の考え方のままでは受け入れられないと思います。今の自分の考え方を変えた時のみ、この考え方を受け入れられるようになるでしょう。それは、何のために生きるのかを問われることです。それは本能のままに、何としてでも生きたいという思いだけで生きていてよいのかということです。

以前、「生命には生きる目的はない。しかし、ブッダが悟りを開き、涅槃という生きる目的を発見したのです。」ということを書きました。ここでは涅槃とはすべての苦しみのない、究極の幸福な状態ということにしておきます。この涅槃という目的があれば、目的を達成するための生き方、そうではない生き方に大きな違いがあり、どちらかが優れているかは明らかになります。

さて、今回の詩は「戒を守らず、心の統一なく」と「戒を守り、禅定のある」を対比しています。戒を守りの戒とは、戒律ということですが、道徳と考えてよいでしょう。心の統一がある状態が禅定です。道徳を守ることと禅定のあることを並列に考えてもよいのですが、道徳のない人には禅定がないと言うことも重要です。禅定から智慧が生まれるからです。この智慧によって、欲や怒りや無知などの煩悩を捨てることができるからです。煩悩を捨てることで涅槃に達することができるのです。生きる目的を達成できるからです。

この詩の意味について、前回や前々回の記事も是非参考にして下さい。


「道徳を 守らず百年 生きるより 道徳守って 一日生きよ」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_20.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_25.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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