百年も 涅槃知らずに 生きるより 涅槃知って 一日生きよ(114)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ヨー  チャ   ワッササタン   ジーウェー
Yo    ca     vassasataṃ    jīve,
彼が  又   百年間      生きるとしても

アパッサン   アマタン      パダン
apassaṃ     amataṃ      padaṃ;
見ないで    不死の      境地を

エーカーハン   ジーウィタン   セッヨー
Ekāhaṃ       jīvitaṃ      seyyo,
一日の      命が       より優る

パッサトー   アマタン   パサン
passato     amataṃ    padaṃ.
見る者の    不死の    境地を


○直訳
彼が不死の境地を見ないで
百年生きるとしても
不死の境地を見る者の
一日の命がより優れている


○一口メモ
この詩のキーワードは「不死の境地」です。「不死」とは文字通りの意味は死なないと言うことですが、仏教における最高の目的、すなわち「涅槃」の同意語としてこの言葉を用います。ですから、「不死の境地」とは「涅槃の境地」という意味です。

この詩の意味は、「涅槃の境地を体験しないで、百年生きるより、涅槃の境地を体験して一日生きる方が優れている」いうことになります。

涅槃の境地を体験するということは悟ることです。ですから、これは偉大な出来事なのです。比べることはできないのですが、例えて言えば、オリンピックで金メタルを取ること以上の事だと思います。金メダリストは4年に一度100人くらいはいるでしょうが、今、悟る人は世界に何人いるのでしょうか。ブッダの時代には、何百人、何千人の人が同時に悟ったという話がありますが、今ではあまり聞きません。

ただ、涅槃を体験しても、すべての煩悩を消してしまったかどうかはわかりません。あとは残った煩悩をすべてなくす修行はあると思います。しかし、涅槃を体験しない人と比べると、その生きている意味は格段の違いがあるのです。

この詩を読むと、何か私たちとかけ離れた境地のように感じます。しかし、あまりそのように感じなくてよいのではないかとも思っています。

瞑想を毎日、毎日、規則正しく行い、それを楽しみにして、終われば、静かな、穏やかな、満足を感じている人々はかなりいらっしゃると思います。これらの人々の「静かな、穏やかな、満足」と「涅槃の境地」とはかなり違うとは思いますが、これらがあれば、瞑想を続けることができます。続けることができれば、目的地に到達します。ですから、瞑想を行う人は瞑想で味わうこれら感じを感じられるまでは先ず努力することです。

老婆心を申せば、「瞑想の喜び」を求めて瞑想することは欲につながるので注意する必要がありますが、それは次の段階です。

登山に例えて言えば、3合目を登る人と、6合目を登る人と、9合目を登る人では、登っている高さの違いはありますが、その苦しみや喜びや満足感は、どの高さでもあるのではないでしょうか。淡々と精進を続けていれば、いずれ頂上にはたどり着くのです。


「百年も 涅槃知らずに 生きるより 涅槃知って 一日生きよ」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_21.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_28.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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