善業の 結果はなくとも 安心だ 善業熟せば 幸せいっぱい(120)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


バドゥローピ   パッサティ   パーパン
Bhadropi      passati      pāpaṃ,
善人も      見る      不幸を

ヤーワ   バドゥラン   ナ   パッチャティ
yāva     bhadraṃ    na    paccati;
限り     善が     ない   熟さ

ヤダー  チャ     パッチャティ  バドゥラン
Yadā    ca      paccati     bhadraṃ,
その時  しかし    熟した     善が

アタ     バドゥロー    バドゥラーニ  パッサティ
atha     bhadro      bhadrāni     passati.
その時   善人は      幸せを     見る


○直訳
善が熟さない限り
善人も不幸を見る(=不幸でいる)
しかし、善が熟すその時
その時善人は幸福を見る(=幸福になる)

○一口メモ
今回は瞑想について考えてみようと思います。

智慧を得る方法は次の三つがあります。
1.因果関係を考え考察して得る方法
2.聴き学んで得る方法
3.八正道と瞑想の実践から得る方法

この1.2.については、多くの人々に受け入れられて、実践もされています。
しかし、3.については多くの人々に受け入れられていません。そればかりか、その必要性を認める人でも、実践する人は少ないのです。

特に瞑想の必要性を学び瞑想合宿などに参加して、瞑想を初めても心は瞑想を嫌がっている様子がよく分かります。瞑想は簡単でなく、時間がかかり、エネルギーが必要で、できればやりたくないものなのです。

この瞑想という善行為は、その結果が出るまでは、実践者にとって不幸の状態であると言っていいのです。ですから、この詩の例として瞑想を取り上げてみました。

瞑想と言われるもの種類は非常に多くあり、玉石混合の状態で、はっきり言って危険なものもあります。しかし、ブッダの教えるヴィパッサナー瞑想や慈悲の瞑想などは一切副作用がなく安全です。

しかも、人類の最高・最善の智慧を得る瞑想です。せっかく人間として生まれて、それを知らずに、実践せずに人生を終わってしまうのは、本当にもったいない話ですが、縁がなかったとしか言いようがありません。

しかし、反対にそれらの瞑想法にめぐりあい、それを実践できたならば、これほど幸運なことはありません。それはこれまでの善業のおかげなのです。それだけの善業に恵まれた人は、成功する条件は十分にあります。少し精進を始めれば、多く精進することができるようになり、善業が熟せば 幸せいっぱいになると確信します。

「善業の 結果はなくとも 安心だ 善業熟せば 幸せいっぱい」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_24.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_31.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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